12月25日はクリスマス。この日は、西洋科学史にそびえる巨人、ニュートンの誕生日。
木からリンゴが落ちるのを見て、万有引力を発見したという、あのニュートンである。
後に「ナイト」の称号を受けたので「サー」を付けて呼ばれるサー・アイザック・ニュートンは、1642年12月25日に、英国イングランドの、北海に面したリンカーンシャー州の寒村で生まれた。この日付は、ユリウス暦によるもので、現在広く使われているグレゴリオ暦だと、すこしずれる。
ニュートンの父親は、独立した自営農園を営んでいたが、ニュートンが生まれる3カ月前に亡くなっていた。
早産で生まれたニュートンは未熟児で、母親は、
「1クォート(約1.1リットル)のジョッキに入るくらい小さかった」
といっている。
ニュートンが3歳のとき、母親は経済的理由もあって再婚し、ニュートンは祖母に預けられた。
彼が10歳のとき、再婚相手が死亡し、母親はもどってきたが、再婚相手とのあいだにもうけた3人の子どもを連れての帰宅だった。
幼い異父きょうだいの世話に追われる母親が、ニュートンをかまわなかったのは想像に難くない。
12歳になったニュートンは、薬剤師の家に下宿して学校に通いだした。
学業成績は抜群だったが、からだが弱かった彼は、学校の友だちによくいじめられたらしい。
その後、ニュートンはいったん学校をやめて家の手伝いをしたこともあったが、また復学し、大学受験の準備を進め、ケンブリッジのトリニティ・カレッジに入学する。
ケンブリッジでは、大学のフェローの身の回りの世話をしたり、食事の給仕を手伝ったりするかわりに、学費が免除になる身分の苦学生だった。
当時180人いた学生のうち、ニュートンのような免費の苦学生は13人だけだったという。
大学でも猛勉強したニュートンは、卒業前に特待生の資格をとり、4年間、給付金付きの研究生の待遇を与えられた。
そうして、大学を卒業した22歳の夏、ペスト(黒死病)が流行する。
ロンドンの人口の4分の1が失われたといわれる大流行だったが、ケンブリッジ大学も閉鎖された。
しかたなく、ニュートンは故郷の村に帰り、研究と思索の日々を過ごした。そのときあの有名な「リンゴ」を発見するのである。
ニュートンの三大発見というと、
「万有引力」
「光の分析」
「微積分法」
の三つだが、故郷に帰っていたこのころ、ニュートンはすでにこれらをすべて発見していたといわれる。
おそるべき男である。
24歳でケンブリッジ大学へもどったニュートンは、フェローの資格を受け、研究費を受けられる身分になり、その後、教授職も手にする。
ニュートンは、猜疑心の強い、屈折したところのある人で、学界では人とぶつかることが多かった。
彼は、自分の発見をなかなか発表しなかった。
ニュートンの力学についての科学書『プリンキピア』は、この本によって、宇宙がそれ以前と変わったといわれる西洋科学史上の金字塔だが、彼はその主な内容を20代半ばには発見していながら、実際にそれを著したのは、40代半ばのことである。
世紀の発見をしても、それを隠していて、ほかの誰かが発表すると、急に目の色を変えて、
「自分こそが第一発見者だ」
と、訴えだすのだった。
メルカトールが発表した級数を、それよりずっと早く発見していたニュートンは、万有引力の発想についてロバート・フックと、微積分についてライプニッツと、先取権を争った。
ニュートンとライプニッツは、微積分の問題について手紙をやりとりしていたが、ライプニッツが自分の研究の進み具合をよく相手に伝えたのに対して、ニュートンは自分の手をうちをほとんど明かさなかったという。
陰険なところがあったらしい。
周囲から愛情を注がれることがすくなかった少年時代、同世代の人間にひけめを感じることの多い青年時代をすごした影響なのか、屈折したニュートンは、交際を苦手とし、研究に没頭することをよしとした。
そういう自分の性格を、自分でも持て余していたのかもしれない。
『プリンキピア』を出版した2年後には、ケンブリッジ大学の選出による国会議員となり、それ以降は、科学研究者というより、世間的な栄誉を楽しむ名士として生きた。
王立造幣局長、庶民院議員、王立協会会長、ナイトの位授与、グリニッジ天文台監察委員長などの職をつぎつぎと歴任した後、ニュートンは1727年、84歳で亡くなっている。
ケンブリッジのフェロー制度が、結婚を許可していなかったこともあり、ニュートンは生涯独身だった。
ニュートンの偉大さときたら、とんでもないもので、彼こそは西洋科学の王さまのような存在だったと思う。
ニュートン以前と、ニュートン以後とでは、この世の中はまったくちがうものになった。
ニュートン力学以降は、この宇宙はずっと、ニュートンの指示した通りに動いていた。
20世紀になって、アインシュタインの相対性理論や、ボーアらの量子力学が登場するまで、宇宙はニュートンの支配下にあった。
それくらい、すごい人だった。それを承知の上で、恐れ多くも書いています。
一方で、ニュートンは、自分のことを科学哲学者と見なしていて、錬金術や聖書研究にも、多く時間を割いていたらしい。
自分の使命をはっきりと感じ、それを信じることができた人、という気がする。
それにしても、未熟児として生まれ、からだが弱かった子どもが、研究にそうとうの集中力と忍耐力を発揮し、意地になり消耗することも多かったろうに、よくじょうぶに長生きしたと思う。
さすが、クリスマス生まれ、である。
クリスマスは、もともと、キリストの降誕祭を冬至にもってきたという説もあるくらいで、いちばん日が短いころである。そういう時期に生まれると、赤ちゃんは最初はつらいだろうけれど、それさえやりすごせば、だんだん日も長く、暖かくなってきて、めきめき体力がついて、その初速の勢いがけっこう長持ちするのかもしれない、なんて思うのであります。
(2012年12月25日)
『コミュニティー 世界の共同生活体』
『こちらごみ収集現場 いちころにころ?』
『ポエジー劇場 ねむりの町』