12月16日は文聖、尾崎紅葉の誕生日(和暦の慶応3年12月16日生まれ。西暦だと話がちがってくる)。
紅葉といえば『金色夜叉』。あの有名なくだりがでてくる小説である。
「再来年の今月今夜……十年後の今月今夜……(中略)来年の今月今夜になつたならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が……月が……月が……曇つたらば、宮さん、貫一は何処(どこ)かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると思つてくれ」
日本全国の子女が毎日の新聞が届くのを待ちこがれ、むさぼるようにして読んでは涙を流したという伝説の新聞小説である。
尾崎紅葉(本名は徳太郎)は、江戸(東京)の根付を作っていた職人を父親として生まれた。
父親は、幇間(ほうかん。太鼓持ち)としても有名で、息子の紅葉は、そんな父親を恥ずかしく感じていたという。
そういえば、小説家の里見弴がまだ学生だったころ、父親に、
「将来、小説家になるつもりだ」
と話したところ、
「お前、小説家など、幇間や床屋と同じではないか。あんなものになってどうするつもりだ」
という意味のことをいわれてひどく怒られたそうだが、紅葉父子の事情はそれを思いださせて、興味深い。
紅葉は語学がよくできたらしい。
彼はいまの東京大学の教養部にあたる学校に入学し、学生をやりながら専門学校で漢字の教師をしていたし、英語も優秀で、英語の小説や辞典をよく読んでいた。
東大在学中に小説『二人比丘尼色懺悔(ににんびくにいろざんげ)』を書いて出版、大好評を博し、一躍新進作家としてデビューした(この『二人比丘尼色懺悔』を遠く離れた北陸の金沢で読み、感動して、小説家になりたいという気持ちにとりつかれたのが、あの泉鏡花で、後に鏡花は上京して紅葉の門をたたき、入門を許されている。紅葉は面接した鏡花に「おまえも小説に見込まれたな」といったという)。
さて、売れっ子作家になった紅葉は、学生の身分でありながら、作家として読売新聞に入社している。
そして大学を中退した。
それから紅葉は『三人妻』『多情多恨』といった傑作を書きながら、そうした仕事のなかで、、いまの日本語のもとを作っていった。
しゃべることばと、書くことばが東の地平線と西の地平線ほどにちがい、まだ句読点もないところから、現代に生きている人間が話し、書ける、そういう日本語をこしらえていった最大の功労者のひとりは尾崎紅葉にちがいない。
それにしても、紅葉は文章の芸術家だった。
紅葉はしめきりがすぎても、文章が完璧だと納得のいくまで徹底的に推敲を重ねる作家で、彼の原稿はいつもまっ赤だったという。
谷崎潤一郎が、大正8年の随筆にこんなことを書いている。
「明治以後の文壇では誰が一番えらかつたか?──と云ふことを折々考へさせられる。さうなると結局、紅葉、鏡花、漱石の三人を挙げざるを得ない。三者の優劣を論ずることは容易でないとして、ただ紅葉には古典文学に接すると同じやうな品位と優雅とがあり、つやつやと拭き込まれた完璧の感じがある。(たとへば沙翁のマアチヤント、オブ、ヴェニスや、ゲエテのヘルマン、ウント、ドロテアに於いて見るところの品位と、優雅と、完璧と──)少くも紅葉だけは、西洋のどんな偉大な作家の傍へ持つて行つても、小さければ小さいなりに其の光を失はないだらう。『伽羅枕』や『三人妻』や、『二人女房』や、『多情多恨』や、『おぼろ舟』や、ああいふものを己は時々読んで見たくなる。兎に角紅葉が最も及び難しと云ふ気を起させる。……」(「或る日の日記」)
自分はたまたま『ヴェニスの商人』『ヘルマンとドローテア』『三人妻』の三つを読んだことがあって、谷崎がいっていることがわかる気がする。
三者に共通するのは、磨きぬかれた玉という感じ、そして、通俗の泥を頭からかぶってもまだ残っている品のよい感じ、だと思う。これは、田舎育ちの人にはわかりにくい感覚で、紅葉も谷崎も江戸っ子だから、通じるものがあったのかもしれない(自分は静岡県磐田市生まれの田舎者だが、ニューヨークが第二の故郷なので、そういう都会の洗練がすこしはわかるのである)。
ただし、明治以後の作家で誰がいちばんえらかったかについては、自分は谷崎と意見がちがって、一番は泉鏡花で、二番目が谷崎潤一郎ということになるのだけれど。
でも、紅葉の完璧という感じはよくわかる。
紅葉は若くして大家で、弟子をたくさん養い、熱心にめんどうをみて育てた。
泉鏡花を弟子として自宅に住みこませたとき、紅葉はまだ23歳で、新婚ほやほやだった。
しかも、鏡花の上にまだ住みこみの兄弟子がいたのである。
弟子にした者は、たとえ文章で道が開けなかったとしても、何かの商売で一人前にして、とにかくちゃんと食べていけるようにしてやるという親分肌の人、それが紅葉だった。現代の、社員を使い捨てにするブラックな会社の対極にいる存在である。
残念ながら、こういう昔気質の親分作家は、未来永劫もうでることはあるまい。
紅葉は胃を患い、明治36年(1903年)に多くの弟子たちに囲まれ、35歳の若さで亡くなっている。
亡くなる前、紅葉と弟子たちにさらに精進するよううながし、
「おれも七度生まれ変わって文章のために尽くすからよ」
という意味のことをいった。
辞世の句は、
「死なば秋露の干ぬ間ぞおもしろき」
一代の文宗、という感じがする。
その短かった一生の、凝縮された時間の濃さと、達し得たわざの高さには、ただただ驚嘆するほかない。
(2012年12月16日)
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