「歴史」を掘り起こしたオホーツクの2人の郷土史家② | 蝦夷之風/EZO no KAZE

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武蔵の国から移り住んで以来、日増しに高まる「北海道」への思いを、かつて「蝦夷」といわれたこの地の道筋をたどりながら、つれづれに書き留めてみます。

椋神社に集結した農民たちの決起で秩父事件が始まった

(吉田石間交流学習館/秩父事件資料館所蔵)

 

政府転覆陰謀の首魁 本道に遁れ野付牛において客死す

春風秋風三十五年 彼の罪名初めて知る

 

明治十七年十一月、埼玉県秩父山に本拠を置き、貪婪飽くなき富豪を屠り、暴虐無動の官吏を誅し、尚ほ進んで国政を私する圧制政府を転覆すると称し、付近一帯の官衙を襲い、豪家に闖入してこれを焼き払ひたる彼の秩父暴動は、遂に東京鎮台の兵により忽ち征討せられて首魁いずれも極刑に処せられたれど、うち井上伝蔵なる者一人所在不明となり。その後かつて逮捕せられたるを聞かざりしが、天に翅り地を潜る三十有余年、彼は昨今まで無事に北見野付牛町にて生を完ふし、去る六月二十三日老衰病により自宅において永眠したり。

                          (釧路新聞 大正7年7月3日付より)

 

秩父事件の死刑囚「井上伝蔵」との出遭い

 

戦後、GHQによって「教職追放」となった小池喜孝は、昭和28(1953)年3月に辞令は解除されたものの、東京での教壇復帰を拒否されたため、自由な天地を求めて同年8月に北海道北見市に移住。赴任先の北見北斗高校では日本史を受け持った。そんな小池のもとに、昭和38年のある日、『埼玉百年史』を編纂する担当者が訪れる。「秩父事件の主犯・井上伝蔵が、大正7(1918)年に北見で亡くなっているので調べてほしい」と。これを聞いた小池は耳を疑った。まさか秩父事件の死刑囚が北見に潜伏していたとは・・・。

 

家族にさえ身の上を明かさなかった井上伝蔵は、いよいよ命の燃え尽きることを悟り、「秩父事件」の真犯人として、事件の真相と35年に及ぶ潜伏生活を語ることを決意する。枕辺には4人の新聞記者が立ち会った。その中に生前から伝蔵の別人格である「伊藤房次郎」と付き合いのあった釧路新聞の岡部清太郎支局長がいた。岡部は伝蔵の衝撃の告白を聞き、伝蔵が抱え続けてきた無念の思いに応え、冒頭の記事に続き、都合24回に及ぶ『秩父颪(おろし)』という名の連載を書き上げる。

 

伝蔵らが結成した「自由困民党」に率いられ、1万人余りが参加したこの農民蜂起は、官憲と軍隊の圧倒的な武力の前に、わずか10日間で鎮圧される。しかし、各地でくすぶる農民運動への連鎖を恐れた内務卿の山縣有朋は、その「思想性」を一切認めず、「暴動・放火・強盗の類」と見なしてスピード裁判を行い、逮捕者4000人、重罪犯300人、死刑7人に及ぶ処分者を出して結審。以後、徹底的な思想弾圧を行って幕引きを図る。

 

後に板垣退助が監修した『自由党史』でも、義挙と称えられた福島事件や加波山事件と違い、伝蔵たちの蜂起は「不平農民や博徒らによる暴挙」と論難された。逃亡中にこの「裏切り」を知った伝蔵の思いは如何ばかりだったか。岡部は「暴徒、暴動と云うも、彼らはみな慨世憂国の志士である」と称え、「秩父事件」は自由民権運動の中で起きた「政府転覆を狙った世直しの戦い」であり、伝蔵自身が望んだとおり、首謀者は「国事犯」として扱うべきと論じたのだ。これは米騒動を機に言論抑圧を進める当時の寺内正毅内閣の黒幕・山縣への覚悟の意趣返しとも見えた。

 

戒名さえ拒否された者たちの名誉回復を求めて

 

「都」を追われた小池は、夢破れ北の辺境に潜んだ伝蔵と伝蔵に思いを託した岡部の2人に、自分の姿を投影していたのかもしれない。『秩父颪』に端を発した小池の調査は、1967(昭和42)年に伝蔵の故郷である秩父へといざなう。そして伝蔵の実家を訪ね歩く中で、小池は2つの事実に衝撃を受ける。そこでは「秩父事件」は未だに「秩父暴動」と呼ばれ、「貧乏人のために立ち上がったありがてい人」は、「国さ楯ついたわりい人」と教えられていた。その一方、蜂起の集結地であった旧吉田村の戸長役場筆生(助役)であった伝蔵は人望篤く、事件後、行方不明になっていたにも関わらず、「秩父で再びひどい時代が来ると、必ず伝蔵が戻って来て農民を救ってくれる」という「伝蔵神話」が語り継がれていたことを知る。その後30数年ぶりに「伝蔵の遺骨」が秩父に戻って来た時、多くの農民がその葬儀に駆け付けたことでも、伝蔵がよほど慕われていたことがわかる。

 

伝蔵は地域の人たちからの人望が篤かったという(屋敷跡に建てられた看板)

 

小池は以後、「戒名を付けることさえ拒まれた」事件の関係者の子孫やそれでも自分たちのために立ち上がった郷土の「英雄」たちの歴史を引き継ぐべきと考える人たちともに、「秩父事件」の見直しと首謀者たちの名誉回復の道を模索して活動を続ける。そして1974(昭和47)年10月、小池は逮捕された自由民権家の指導者たちが北海道の監獄に送られ、非業の最期を遂げたことを突き止め、月形町の囚人墓地などに葬られていた10人(うち秩父事件関係者6人)の合同慰霊祭を行う。

 

翌月に開催された「秩父事件90周年記念集会」には、この時に持ち帰った遺骨を抱いた遺族が参列していた。彼らを前にあいさつに立った町長は、この時、初めて公式の場で秩父事件の評価の見直しと事件の顕彰のための記念館設立を約束する(後に復元された伝蔵邸も資料館になった)。小池もこの集会に合わせて秩父事件の見直しと伝蔵の半生をつづった本を書き上げたが、そのタイトルは、岡部の連載と同じ『秩父颪』であった。

 

「囚人道路」に埋められた遺骨の掘り起こし

 

2022年の夏、北見から網走に向かう道筋で、何かの遺跡のようなものを見かけ、妙な胸騒ぎを覚えた。2度目に通った時には「殉難碑」の白杭が見えた。そして思い直して3度目、車を停めて見に行くと、それがあの「鎖塚」であることに気付いた。場所は端野町緋牛内の坂の途中で、2つの土饅頭の横に地蔵菩薩が数体安置されていた。

 

 

網走―旭川間を結ぶ国道39号線の前身は、通称「囚人道路」と呼ばれていた。明治初期、南下するロシアの脅威に対する防衛線を築くべく、札幌から旭川経由で網走をつなぐ「中央道路」の開通が至上命題となり、囚人の使役による道路開削が急ピッチで進められた。1889(明治22)年に札幌―上川(吉村昭の小説『赤い人』の舞台)、翌年には上川―石北峠が開通し、いよいよ残る網走までが最も難工事と見られていた。当時の北海道庁長官永山武四郎に厳命された網走監獄の典獄(監獄の最高責任者)有馬四郎助は、険しい山間に延べ1500人に及ぶ囚人を動員し、わずか8か月余りで180kmの道路を開通させる。しかし、1日10時間以上の重労働を強いられたうえ、悪天候のために道はぬかるみ、食糧補給もままならず、ビタミン不足から1916人が水腫病にかかり、212人の命が奪われる。まさに惨状を呈した難工事となった。

 

「犠牲者は道端に埋められ、遺骨が密集している、と語り継がれていたのが遠軽町瀬戸瀬地区です。道路開削中、傷病人の収容所があった場所で、幽霊が出たり、火の玉が飛ぶというウワサが絶えなかった」(前述『私のなかの歴史』北海道新聞より)。隣町の丸瀬布にいた秋葉實は、1958(昭和33)年5月に瀬戸瀬青年団が行った遺骨の掘り起こし作業に加わっていた。そして総勢50人余りが丸2日がかりで47体の遺体を発見する。

 

「北海道の開発は国益優先、人命軽視」。それを象徴する事実を目の当たりした秋葉は強い憤りを感じる。この時に発掘された遺体はていねいに棺に納められていたものの、沿線各地で埋葬場所が見つかり、中には鎖につながれたまま埋められた囚人がいることも分かった。それがあの「鎖塚」だ。秋葉たちの執念の調査によって、1969(昭和44)年に調査資料がまとめられ、今まで誰も解明してこなかった「囚人道路」の実態が明らかになった。

 

秋葉たちの執念の調査により、「囚人道路」の沿線各地で囚人たちの遺骨が見つかった

 

囚人の酷使は「一石三鳥」の妙案とされたが・・・

 

この頃、小池は獄中で非業の死を遂げた秩父事件の4人の「罪人」の死に場所を探していた。そして囚人の慰霊を続ける留辺蘂町の遍照院の尼僧・林隆弘師と出会う。手がかりを得ようと焦る小池の態度を見透かした尼僧は、突然、厳しい一喝を浴びせる。

「あなたはどんな目的で囚人の墓をお調べになるんですか。場合によってはご協力は遠慮させていただきます」

 

端野の屯田兵村に生まれた林隆弘師は、子どもの頃に道端で拾った鎖が目の前の道路を作った網走の囚人の足に着けられていたことを知る。後にこの地に戻って尼寺を開くと、「鎖を着けたまま埋められている囚人が不憫で、墓を探し、供養して回った」という。そんな林師にすれば、「民権家の政治犯」と他の囚人を区別する小池の態度が許せなかったのだ。翌週、小池は瀬戸瀬の囚人墓地に詣で、秋葉に教えを乞いに行く。そして、北海道の開拓を最底辺で支えたのが囚人労働であり、日本の近代化は囚人の犠牲の上に成り立っていたことを理解する。このことが、後に小池が提唱する「民衆史」運動のバイブルとなる『鎖塚』に結実していく。

 

そもそも大量の囚人を生み出す社会状況を作ったのは明治政府自身ではないか、と小池は問う。士族の反乱や自由民権運動、そして農民蜂起に手を焼いた政府が強硬手段に訴えたことで囚人が大量に発生し、結果、収容施設が間にあわなくなった。秩父事件の翌年1885(明治18)年の全国の1か月(!)平均の囚人数は、なんと8万3~9千人に達していた。そこで目を付けたのが北海道だ。厳寒の北国なら逃亡のリスクも少ないうえ、「懲戒」効果も高い。出役後、そのまま移住してくれれば定着人口も増える。そんな安直な施策のもと、1881(明治14)年に樺戸(月形町)、1882年に空知、1885年に釧路、1891年に網走(釧路の分監)、1893年に十勝(同じく釧路の分監)に、重罪犯を収容する「集治監」が設置される。なぜこれらの場所が選ばれたのか。

 

インフラ整備としての「道路開削」にあったことはすでに述べた。囚人が作った道路は、その後、屯田兵が通っていった。もうひとつの理由は、近代産業の育成に不可欠な「鉱山開発」にあった。1883年に九州の主要炭鉱である三池に集治監が設置されたのと同じく、空知は幌内炭鉱、釧路は川湯の硫黄鉱山で囚人を使役させることが狙いだった。労賃は格安のうえ、「もしこれに堪えず斃れ死して人員減少するも監獄費支出の困難を告ぐる今日においてはやむを得ざる政略なり」という、伊藤博文の秘書官だった金子堅太郎の建議書が囚人使役の方針となった。当時、軍事費を上回るほど監獄費が増えていたため、囚人が重労働で斃死すれば監獄費を抑えられる「一石三鳥」の策だと。

 

その後、鉱山での囚人使役はその酷使が目に余り、クリスチャン典獄・大井上輝前によって廃止される。しかし、囚人使役の旨みを知った大企業(幌内は北炭、硫黄山は安田、三池はもちろん三井が請け負っていた)が簡単にこれまでのやり方を変えるはずはない。結果、囚人労働の代わりになったのが、いわゆる「タコ部屋」制度であることを、小池は突き止めていく。

 

『鎖塚』が開いた地域から歴史を見る「民衆史」運動

 

『鎖塚』は小池の名を一躍有名にした画期的な著作となった。ちなみに、北見

に来る前の三笠出版勤務時代に、村岡花子の翻訳本「赤毛のアン」(右)の書名

を付けたのは小池だったそうだ

 

 

「明治24年の囚人道路の『鎖塚』に始まる北見地方の開発は、30年後の鉄道工事(後に書いた『常紋トンネル』に詳しい)では『人柱』に象徴される強制労働によった。そしてまた30年後の大戦中、飛行場作りが朝鮮人タコによって行われているが、その墓はない。開発とか文明とかの発達が、人間に幸福をもたらすと即断するのは危険である。なぜなら、開発や文明は、多くの場合、支配者の立場に立っていて、民衆の側からの視点を欠いているからである」(『鎖塚』の結びより)

 

虐げられた民衆の視点から歴史を見直す小池の「民衆史観」は、その後の歴史教育に大きな一石を投じた。そこに戦後日本の時代背景が色濃く反映され、特にある方面の人たちから「自虐史観」との批判もある。しかし、「地域」から歴史を見ることは、「正史」の裏側から歴史を見ることではないのか。特に明治近代以降に大きな役割を果たした北海道だからこそ、その意義は大きいと思っている。

 

「地域に根ざして地域の歴史を掘り起こすというのは、単に地域史、地方史の問題ではない。それは基本的に権力者、支配階級が歴史を創るのか、それとも民衆が歴史を創るのかという観点の問題である」(元歴史教育者協議会・小松良郎副会長の弁/『秩父颪』所収)