「歴史」を掘り起こしたオホーツクの2人の郷土史家① | 蝦夷之風/EZO no KAZE

蝦夷之風/EZO no KAZE

武蔵の国から移り住んで以来、日増しに高まる「北海道」への思いを、かつて「蝦夷」といわれたこの地の道筋をたどりながら、つれづれに書き留めてみます。

松浦武四郎が描いた『蝦夷漫画』(札幌市中央図書館所蔵)より

 

北海道の一地方都市で「歴史」に関心を持って何がしかの活動をしようと思っている人間にとって、容易に超えることのできない偉大な業績を残した二人の先達がいる。一人は百年以上も秘蔵されていた史料を解読して、「松浦武四郎」を世に知らしめた秋葉實(1926~2015)であり、もう一人は網走―北見間の通称「囚人道路」の建設中に斃れた遺体の掘り起こしをきっかけに、無名の人々の視点から時代を捉える「民衆史」という歴史観を提示した小池喜孝(1916~2003)である。秋葉は遠軽町丸瀬布出身、小池は北見市の教職員と、奇しくも2人の活動拠点が同じオホーツクだったことは興味深い。「北海道の歴史研究」を語るうえで欠かすことができないこの2人へのオマージュとして、「辺境」から歴史を掘り起こすことの意義について考えてみたい。

 

百年の封印を解いた武四郎研究者・秋葉實

 

「松浦武四郎」の名がこれほど世に知られることになったのは、ひとえに秋葉實のおかげと言って過言ではない。『松浦武四郎選集』(全7巻)の編纂を始め、松浦家が守り続けてきた貴重な史料を解読し続けた功績は、「武四郎研究の第一人者」という称号を得るに十分な価値を持つ。にもかかわらず、「北海道命名百五十周年」に沸いた2018年以後も、「秋葉」の名は地元や関係者の間を除けば、世間でそれほど認知されているわけではない。これは「在野」の研究者だったこと、またオホーツクという「辺境」を活動拠点としたが故なのだろうかーー。

 

秋葉の歩みは、まさに「在野」の郷土史家そのものといえる。復員後、故郷の丸瀬布に戻って地元郵便局に勤めるかたわら、「丸瀬布郷土史研究会」を発足させ、機関紙『月刊山脈(やまなみ)』を刊行しながら郷土資料の収集を開始する。林業で盛えた丸瀬布のシンボルともいえる森林鉄道を走っていた蒸気機関車「雨宮19号」の保存運動を経て、『丸瀬布町史』(1974年刊行)の編纂作業にも従事した。そんな秋葉が「松浦武四郎」とつながったのは、1975年のことだった。

 

たまたま斜里町で行われたイベントに参加していた武四郎の孫の孫にあたる松浦一雄さんと出遭い、安政の大獄を機に武四郎自身が「門外不出」として封印し、同家の蔵に眠っていた『丁已(ていし)・戊午(ぼご)日誌』(全85巻)の閲覧・解読の許可を得る。この日誌は歴史家の間では「幻の日誌」とも言われた武四郎研究の第一級史料だった。秋葉は『松浦武四郎選集2』の解題の中で、松浦家がいかにこれらの史料を大事に保管してきたかを紹介している。

 

「(これらの文書は)松浦家では武四郎翁の意志により、『お上から預かったもの』という観念を有していた。つまり大半は幕府なり明治政府に呈上した文書の草稿であるから、それらの文書はお上のものと同じであるとの考えである。そのため関東大震災の際は、まず第一にこの文書を大八車に積み、火煙の中をくぐって避難したが、(その一方)2つの蔵にあった骨董類や家財はほとんど灰燼に帰してしまった」という。その後も一雄さんの母の実家である栃木県佐野市周辺へ2度も疎開させ、なんとか戦火を逃れて守ってきた。また樟脳などが入手困難だったことから、文書を紙魚から守るため、子どもだった一雄さんは大量の文書の虫干しをさせられ、これが大変な作業だったと述懐している。

 

松浦家秘蔵のお宝を託された秋葉は、その後、北海道新聞の連載企画『私のなかの歴史』のなかで、この日誌との「格闘」の様子をこう語っている。

「松浦家から委託され、日誌を保管していたのは東京の国立史料館です。本を包んでいた油紙を丁寧にはぎ取り、幾重にも縛ったひもを解き、くっついたページに神経を集中させて剥がしたその瞬間、北海道の歴史に新たな光が差したのです」

「武四郎のつづり字は、たいていの人は理解できないほど崩れ、まさに歴史家泣かせ。私自身、最初はロシア語でも見ているような気分でした。加えて誤字や創作漢字も多い。正しい地名に書き換えたり、難しい語句に注釈を付けていくのは根気のいる作業でした」と。

 

読み物作家からジャーナリストへ評価が一変した武四郎

 

『丁已・戊午日誌』の解読本全5巻(計2800ページ)が世に出たのは、原本に出会ってからちょうど10年後だった。この日誌には、男手をサケ漁に取られ、残された年寄りと子どもが草の根を食べて飢えを忍んでいたこと、番人の妾にされ、そのあげく性病を移され、山中で引きこもって死を待つ女の話など、アイヌの惨状が生々しく記録され、「このままではアイヌ民族が滅びる恐れがある。アイヌを酷使した蝦夷地開発はすぐにやめるべきだ」という武四郎の必死の訴えが込められていた。

 

「武四郎は蝦夷地を紹介する旅行ガイド的な日誌を多く書いていますが、その中にはアイヌ民族から聞いた話にフィクションを交えたものがあります。それを指して『武四郎は信用ならん』と見る人もいたのです。しかし、『丁已・戊午日誌』は、武四郎が自分の足で蝦夷地を歩き、自分の目で見たことを詳細に書き綴ったものです。私はこの日誌の解読本を世に送り出したことで、世間での武四郎の評価は180度変わったと自負しています。」(前述の『私のなかの歴史』(北海道新聞1995年3月27日付夕刊より)

 

秋葉は、フィクション交じりの「読み物作家」的な評価をされていた武四郎が「小説家からジャーナリストへと評価を変えることになった」きっかけとなったのがこの日誌だったと力説する。その後も「武四郎研究会」を発足して他の史料の解読を進める一方、松浦武四郎記念館建設などの顕彰作業に尽力した。こうした20数年にわたる業績に対し、1988年には「北海道文化賞」が贈られ、「文部大臣地域文化功労表彰」「北海道新聞文化賞」と受賞が相次いだのは当然だった。

 

秋葉の20数年の業績をたたえて、表彰が相次いだ

 

ナゾだった間宮林蔵の妻子を発見する

 

そして秋葉の「発見」として世に知られるようになったのが間宮林蔵の妻子に関する記述だ。日誌とともに保存されていた「手控」と呼ばれるフィールドノートには、上川地方での間宮林蔵の足跡が詳細に描かれていた。

「(武四郎は)林蔵を羽幌から上川に案内したカニシランケの動静を執拗に追及しており、そこからナゾであった林蔵の妻アシメノコ、娘ニヌシマツが浮かび上がってくる。アシメノコは番人の毒牙から遁れるため、止むなく一族に再縁したことを深く愧じ、『ぜひ内密に』と懇願したらしい。その意を受け、武四郎は『丁已日誌』では子や孫を仮名・匿名にするなど、林蔵の妻子であることを秘匿した。しかし、この『手控』が子孫や間宮家の口承によって裏付けられた。さらに林蔵墓に刻まれた法名から妻と認めていたことが判明し、養子が継承した間宮家でも、林蔵に妻子がいたことを確認するに至ったのである。」(『松浦武四郎選集4』の解題より)

 

旭川アイヌの荒井源次郎さんたちとの交流を通して、アイヌ文化研究にも取り組んでいた秋葉は、林蔵の子孫である間見谷喜昭さんを突き止める。間見谷さんは後に旭川アイヌ協議会の会長も務めた人物だ。姓が微妙に違うのは、林蔵自身は「間宮」姓の使用を認めていたものの、戸籍の届け出を受けた役場が、なぜか「間見谷」の表記で受諾したからだという。