日持上人伝説、義経=成吉思汗説の裏側にある真実 | 蝦夷之風/EZO no KAZE

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武蔵の国から移り住んで以来、日増しに高まる「北海道」への思いを、かつて「蝦夷」といわれたこの地の道筋をたどりながら、つれづれに書き留めてみます。

「忘れられた島」樺太が問いかけるもの

日本統治時代の名建築「樺太庁博物館」(現サハリン州立郷土博物館)

 

漫画『ゴールデンカムイ』がアイヌとアイヌ文化を身近な存在にした功績は大きいが、もう一つ忘れられていた歴史も掘り起こしている。それが「樺太」(現在のロシア領サハリンだが、以下、「樺太」に統一)だ。戦前には40万人が暮らしていた日本統治領でありながら、今や北方領土に比してさえ日本人には縁遠い島となってしまった。

 

国後・択捉へは旧島民の親族としてビザなし渡航で2度ほど行ったことがある。次は樺太へ行こうと思った時には、すでに稚内からの連絡船は運航休止になっており、その後、コロナ禍があり、ロシアのウクライナ侵攻と続いて、ついに訪れるチャンスは限りなく遠くなってしまった。ならば本の世界で「樺太探検」してみようと思い起ち、その歴史を調べていく中で出会ったのが日蓮宗の僧侶・日持(にちじ)上人の北方布教伝説だった。

 

ホッケの名付け親だった(?)日持上人

函館の実行寺には、梅津福次郎氏が寄進した

「海外布教の初祖 日持上人」の銅像がある(昭和27年完成)

 

渡島半島の東南端にある恵山(えさん)岬の西に、「椴法華(とどほっけ)」という不思議な名前の村があった(同村は2004年に函館市に編入)。山田秀三の『北海道の地名』によると、「恵山の山裾が高い岬になって突き出しているところ、アイヌ語で『tu-pok-ke』(山の走り根の・下の・処)がその地名の由来だという。

 

ところが、「椴法華」にはもう一つ別の由来説が残っていた。松浦武四郎の『初航蝦夷日誌/巻之五』の中に、「かつて土人の話に峠法華は近来の字にして唐法華と書くよし。その故は日持上人ここより入唐玉ひしと。その故ここに古跡あり」とあり、さらに「またホッケという魚はこの村より取れ、他国に無き魚なり。日持上人の加持を得てこの地にこの魚ども成仏せしと云い伝う」と。

 

古老の言い伝えによれば、「役人に捕まり北海道に流された日持上人が運よく漂着した場所がこの地で、助けてくれた漁師への御礼として、これまで名前のなかった魚が採れるようにしてあげるから、その魚が採れたら『法華(ほっけ)』と名付けるようにと言い残す。その後、名前のわからない魚がどっさり採れたので、その名を『法華』とし、村の名前も椴法華と名付けた」という(深瀬春一『蝦夷地に於ける倭人伝説攷』所収)。

 

北海道の定番魚「ホッケ」の名付け親とも言われるこの日持上人は、鎌倉時代中期の1250(建長2)年に駿河国で生まれた。7歳で天台宗に出家し、21歳で日蓮宗に転じ、日蓮の高弟6人衆のひとりとなった。日蓮の死後、1295(永仁3)年に師の教えを広めるべく、北方へと布教の旅に出る。蝦夷島に渡ったらしい痕跡(?)はあるが、詳細はわからず、その後、消息不明になったというのが通説だ。が、そのために話に尾ひれが付き、北海道から樺太に渡り、黒竜江を伝って蒙古、中国(唐)、朝鮮半島にまで達したという「伝説」を残した。

 

日持上人が渡ったとされる鎌倉時代の蝦夷地は、鎌倉幕府が罪人の流刑地としたことが『吾妻鏡』などに見える。松前藩の編纂した『新羅之記録』にも、源実朝の時代に「強盗海賊の従類数十人が捕縛され、奥州外之浜から狄(えぞ)の嶋に追放され、彼らの子孫が”渡党”になった」とある。時の執政・北条義時は津軽の安藤氏を「蝦夷代官」に任命し、罪人の移送などを担わせたという(『アイヌ民族の歴史』山川出版社より)。武四郎も聞いた言い伝え通り、日持上人は罪人として蝦夷地に流されたというのはありうる話だ。ただし、蝦夷地から樺太へ渡り、さらに大陸まで行くことは可能だったのだろうか。

 

13~14世紀の蝦夷地には3種類の集団がいたといわれ(『諏訪大明神絵詞』が記す)、蝦夷地に渡った和人が土着化した「渡党」、東蝦夷地で海獣猟などをしていた「日ノモト」、日本海側にいた「唐子(からこ)」の3つを指している。このうち「唐子」は中国を意識した呼称から、アムール川流域から樺太、蝦夷地を結ぶ交易ネットワークの担い手だったと思われる。また13世紀末には中国元軍が樺太に侵攻した「北の元寇」があり、骨嵬(ku-gi)と呼ばれた樺太アイヌが戦って負け、以後、貢物を献じるようになったことが『元史』に記録されている(当ブログの2022年5月3日及び5月10日付を参照)。こうした「歴史」を考えると、蝦夷地から樺太、大陸をつなぐルートを伝って、「人」が移動できた可能性は無くはない。

 

日露の対立は樺太からシベリアへ波及

 

ここでいったん話は飛ぶ。

樺太が近現代史の舞台に登場するのは、1808-09(文化5~6)年の間宮林蔵の樺太探検が端緒だろう。一方のロシアが樺太を知るのは日本よりさらに40年ほど遅れる。シベリアに進出し、太平洋を目指したロシアは、北上してきた中国清王朝と衝突して敗北。そのためアルグン川以南(中国東北部)への道を閉ざされ、カムチャッカ方面へと迂回せざるを得なかった。ロシアはここからアリューシャン列島経由でアラスカ方面へ、また千島列島沿いを南進して日本沿岸を目指した。ロシアが樺太を「発見」したのは、1848年のネヴェリスコイによるアムール河口探検隊で、その後、アムール川流域で中国と小競り合いの末に沿海州に足がかりを得ると、第2次アヘン戦争に付け込んで沿海州を獲得。ウラジオストクの建設で極東に橋頭保を築くと、樺太の植民開拓に乗り出していく。

 

1855(安政2)年に結んだ「日魯通好条約」では、樺太は「是迄仕来の通たるべし」として国境は定めないことに決まったが、ロシアの圧力は日増しに強くなり、1867(慶応3)年には「樺太島仮規則」によって「日露両国民雑居の地」となる。その後も続くロシアの攻勢に対し一時は「樺太出兵止む無し」の声も出たが、開拓次官として樺太に赴いた黒田清隆は、ロシアの植民が思いの外進んでいることに驚き、樺太を捨て、北海道防衛を急ぐべきと建策し、政府は1875(明治8)年に「千島樺太交換条約」を締結して樺太を放棄する。

そして日露戦争が勃発し、日本軍は1905(明治38)年8月1日に樺太を占領するも、翌9月に結ばれたポーツマス条約で、北半分はロシアに還付し、南樺太のみを日本が領有することになる。開戦時には先住民族約4千人を含めロシア人は約4万人いたが、戦後、南樺太に残ったロシア人は200人に満たなかった。その後、漁業者を中心に内地からの移民が急増し、第二次大戦敗北までの40年間に、内地からの日本人移民約40万人が移り住んでいる。

 

南樺太領有に当たり、時の西園寺公望内閣(第一次)は、占領軍としてそのまま軍政を敷いた陸軍と対立する。西園寺は南樺太は日本人移民が多数(占領当時の総人口2万人のうち日本人は約9割)を占めていたことから「内地」に準じる統治を主張したが、寺内正毅陸相は、陸軍や長州閥が権力を握っていた台湾と同様な植民統治を主張して対立。この図式は、この後、首相となった寺内内閣の時に起こった「シベリア出兵」へと至る伏線となる。

 

陸軍の北進政策に加担した日蓮一派

 

実は日持上人の海外布教伝説が広まったのはこうした時期に重なる。樺太での日持上人の足跡(?)の検証・研究を行った井澗(たに)裕は、「日持上人の樺太布教説をめぐって」という論文で、この伝説が広まった背景とその後のダイナミックな展開をまとめているので、以下、これを踏まえて解説する。

 

なぜ、この時期に、日持上人の伝説が広められていったのか。

井澗氏は、1910年の朝鮮併合以後、次の発展目標をどこに求めるかという発想から、「北進論」と呼ばれる北方地域への進出を企図する陸軍(長州閥)と、太平洋方面を目指す「南進論」を掲げた海軍(薩摩閥)との対立構図が鮮明になっていくと指摘。「北進論」は江戸末期以来のロシアの南下に対する北方防衛を端緒とするが、国防から外征策へ転じて行く中で、ロシアから中国大陸へ向かうベクトルに変わっていく。

 

この「北方戦略」を支援した勢力の中に、日蓮を「愛国者」に仕立て上げようとした、いわゆる日蓮主義者の一派がいた。彼らは「仏教アジア主義」を掲げ、『海外雄飛』のシンボルとして、「日持上人伝説」を利用していく。井澗氏は、その中心的な役割を担ったのが「日持上人遺跡探究会」を立ち上げた日蓮宗の僧侶・高鍋日統だと指摘。高鍋は1905年に雑誌『大亜細亜人』を創刊し、「仏教アジア主義」を掲げて、内蒙古で布教活動を開始。仏教を通じたアジア諸国との連帯と日本を盟主とするアジアの統一を訴えていく。

 

高鍋は、北海道から樺太、中国大陸の各地を回りながら、日持上人伝説の調査に赴く。この過程で「都合よく」さまざまな遺跡や痕跡を発見するが、井澗氏は、その多くが遺跡や史料の「捏造」の疑いがあり、また「証言」といいながら伝聞の類に過ぎないものが多かったことを指摘している。つまり「日持上人伝説」は、陸軍の北進政策をサポートする形で、日蓮主義者の一部が作り上げた「伝説」がきっかけになって広まったのは間違いないだろう。樺太領有25周年にあたる1930年に、南樺太の中心都市である豊原市(現ユジノサハリンスク)郊外に日持上人の銅像が建立されるが、これは日持上人が間宮林蔵と並ぶ樺太の先駆者として顕彰されたことを示すもので、この時期がもっとも盛んに日持上人伝説が流布された時期と言われている。

 

また、「シベリア出兵」に通訳として同行した小谷部全一郎は、満蒙各地での「史跡調査」をもとに、帰国後、『成吉思汗は源義経也』を出版。これが大ベストセラーとなる。源義経=成吉思汗説はこの本がきっかけとなり、日持上人伝説と補完する形で流布していくのだが、これは「近世以前の蝦夷地と同様、日本人と北方世界との歴史的かかわりが深かったことを論じ、この領域における日本人の活動を歴史的に正当化する論拠とした」(井澗氏)のであろう。(ちなみに、南洋のタイで活躍した山田長政も実在が疑問視されており、同じ「伝説化」の類例との指摘がある/井澗氏論文に典拠)

 

与謝野晶子が予言した「積極的自衛策」の危険

与謝野晶子は歌人にして、一級の警世家であった

 

謎が解けたところで、改めて樺太占領以後、対露、対中政策を大きく変えることになった「シベリア出兵」に触れなければならない。実は今の日本の置かれている状況は、その時の状況とあまりに似ているからだ。

 

「シベリア出兵」とは、革命直後のロシア国内の混乱に乗じて英仏が干渉。彼らに促されて日米両国も極東ロシアに出兵し、白色ロシア(反政府勢力)の支援を行った軍事侵攻を指す。1918年にウラジオストクに上陸した日本軍は、1922年には大陸から撤退したものの、1920年に起きた「尼港事件」というロシア革命軍による日本人を含む大量虐殺事件に抗議して、25年まで北樺太に駐留した。しかし、都合7年に渡った軍事侵攻は得るものがなく、司馬遼太郎は『前代未聞の瀆武(とくぶ)』(「瀆武」とは道理を外れた戦争で武威を汚すこと)と容赦なく断罪するなど、多くの歴史家が批判している。

 

[シベリア出兵の概要]

シベリア出兵に詳しい麻田雅文は、日本人にとって「忘れられた戦争」ではあるが、当初は消極的だった寺内内閣が、一部の急進的な大臣の建言や参謀本部の確信犯的な勇み足に引きずられて侵攻を是認していく有様を、著書『シベリア出兵』(中公新書)で詳しく解説している。そして「シベリア出兵」の失敗は見直されることなく、その後のノモンハンや満洲へと続く軍事膨張のきっかけとなっていくことを明らかにした。

 

麻田氏の著書の中で特に目に留まったのは、与謝野晶子の「予言」である。ロシア革命の翌年、ロシアと講和したドイツとオーストリアが極東進出してくるとの脅威論が巻き起こり、彼等と戦うべくシベリアに出兵すべしと、国内世論は「出兵」をめぐって賛否が割れた。この時、晶子は「英仏はドイツ勢力の東漸を法外に誇大して伝えるが、日本人はそれを軽信してはならない」と戒め、「私たち国民は決してこのような『積極的自衛策』の口実に眩惑されてはなりません」と諭す。さらに「無意義な出兵のために、露人をはじめ、米国や英仏からも日本の領土的野心を猜疑され、嫉視され、その上、数年にわたって撤兵することができずに、戦費のために再び莫大の外債を負い、戦後に渡って今に幾倍する国内の生活難を激成するならば、積極的自衛策どころか、かえって国民を自滅の危殆に陥らしめる結果となるでしょう。」(『何故の出兵か』横浜貿易新報1918年3月17日付)

 

まさに今、米国など西側諸国に促されて「積極的自衛策」を唱え、防衛費増額を図っているこの国の行く末を暗示しているかのような「予言」だ。そしてもうひとつ注意しなくてはいけないのは、一部の宗教勢力が政府に加担し、世論を喚起すべく、怪しげな「伝説」を振り播き出さないかと危惧している。