中国の少数民族問題③ 神秘の国チベットはどう破壊されたのか(下) | 蝦夷之風/EZO no KAZE

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武蔵の国から移り住んで以来、日増しに高まる「北海道」への思いを、かつて「蝦夷」といわれたこの地の道筋をたどりながら、つれづれに書き留めてみます。

2008年の北京オリンピック直前の抗議デモは、チベットに戒厳令を敷いた

「憎き胡錦涛」のメンツをつぶすには効果抜群だった(ロイター/アフロ)

 

中国政府の少数民族対策は1980年代に大きな転機を迎える。一つは改革開放路線に舵を切った鄧小平の下で開明派の胡耀邦が「少数民族に対する弾圧は文革期の”極左路線”による誤りである」と認め、国の財政支援によって辺境地区の政治・経済の民主化を進めたこと。これは「指導の誤り」で荒廃した国土の「戦後復興」的な意味合いが強かった。そして”鎖国状態”にあったチベットはこの時期に事実上の「開国」を迎え、ついに神秘の国の実態が明らかになっていく。もうひとつは80年代後半以降、激変する国際情勢への対処から、他国と国境を接する西北部(内モンゴル、新疆ウイグル、そしてチベット)を国防的観点から「改造」することが急務となったこと。これは同時に、他国の”同胞”と連携を深める少数民族との緊張をさらに高めていくことになる。

 

寺院は修復できても、魂の修復はならず

 

確かに中国政府はチベット人幹部の積極登用や伝統的慣習の尊重、そしてチベット仏教の再興に取り組んだ。文革直前の1965年時点で、チベット行政区の漢人幹部の比率は66.7%だったが、1993年にはチベット人が70.3%を占めて逆転したのは評価されるべきだろう。ただし行政の最高権力者は地方幹部ではなく、依然として政府直属の党委書記が握っており、その地位を漢人以外が務めることはごく稀だった。元読売新聞社の中国総局長だった藤野彰氏は、「”民族区域自治”の看板を掲げつつも、主導権は漢人が握るという統治メカニズムが確立しており、中央によるコントロールを徹底し、少数民族地域が反中国、分離独立などの方向へ向かわないよう監督・指導するための人事政策であることは言うまでもない」(前記『殺劫』の解説より)と、少数民族の「自治」は限定的なものに留まるものであることを指摘している。

 

チベット仏教の再興もしかり。1980年以来、約2400万元の特別金を支出して200あまりの寺院、740か所の宗教活動拠点を修復。1989年からは5500万元を投じてラサのシンボルであるポタラ宮の第一期修復工事、2001年から3億3000万元を費やして第二期工事とノルブリンカ離宮などの修復も行った。「自治区内の仏教活動拠点は1700か所に回復し、文革直後は9000人ほどに激減した僧侶や尼僧も4万6000人に増えた。これはチベット人の人心安定のため、中央政府がチベットの民族文化と信仰の自由を尊重しているとの姿勢を示したもの」(藤野氏)ではある。しかし、建物や文化財は修復(もちろん完全ではないが、外国人観光客には十分満足いく程度には)されても、肝心の寺院の運営は政府の管理下に置かれ、僧侶には「愛国教育」が強要され、「違法な活動」に走らないよう厳しく監視された。こうした形だけの「信仰の自由」に対する不満は、再びチベット人の戦闘意欲に火をつけることになる。

 

チベット動乱から30年目の1989年には、再び僧侶を始め、

多くのチベット人が立ち上がり、ラサは血の海になった

(『チベット』創元社刊より)

 

1987年9月21日、ダライ・ラマ14世は米国上院議会の人権小委員会に招かれて講演する。あえて訪米した背景には、「1986年12月に中国全土150大学で起きた民主化要求運動が政府の弾圧に遭い、翌1月にその責任を負う形で胡耀邦が失脚したことで少数民族の権利拡大の動きが後退することへの危惧があった」(『中国の民族問題』加々美光行著より)。だからこそ、外からの圧力に期待したのだろう。そしてダライ・ラマの訪米に怒った中国政府がその「報復」としてチベット人政治犯2人に死刑宣告を下すと、これが引き金となって、9月27日~10月9日にかけて首都ラサで僧侶を中心に「チベット独立」を要求するデモが起き、武装警察との間で流血の事態を招いて、少なくとも14人が死亡、2500人が逮捕される。大規模な抗議デモは翌年3月にも発生して24人が死亡。さらにチベット動乱30年目にあたる1989年3月には少なくとも400人の死者、3000人の逮捕者が出る大騒乱となった。ダライ・ラマ法王日本代表部事務所の調査によると、1987年から1993年までに大小合わせて200回以上の抗議デモが繰り返されている。

 

戒厳令でつぶされたチベット独立の夢

 

ノーベル平和賞を受賞し、世界的な注目を浴びるダライ・ラマの発信力の高さは、これまで「少数民族問題は内政問題」と突き放してきた中国政府に、「外圧」が無視できなくなったことを思い知らせた。同時に外貨稼ぎを期待して外国人の「入国」を認めたことで、もはやチベットの現状を覆い隠すことができなくなったことも。

 

中国政府を激怒させたダライ・ラマの米国議会での演説では、以下の5つの提案がなされた。

 

①    チベット全土を非武装平和地帯に変える

②    中国人のチベットへの移住政策を廃止する

③    チベット国民の基本的人権と民主的自由を尊重する

④    チベットの自然環境の回復と保護、さらに核兵器生産にチベットを利用することを止め、核廃棄物の処理場とすることを禁止する

⑤    チベットの将来の地位やチベットと中国国民の関係についての真剣な話し合いを開始する

 

インド亡命後、ガンジーの非暴力主義(アヒンサー)に傾斜していくダライ・ラマは、抗議デモを繰り返すチベット青年会議などの急進派の動きを憂慮し始めていた。特に胡耀邦の跡を継いだ趙紫陽が民主化路線を継承したことに期待を抱き、1988年6月の仏ストラスブールで行われた欧州議会での講演でも、①の「非武装平和地帯化」を第一条件とすると繰り返した。その代わりに「チベット独立」は断念し、中国政府の下で「高度な自治」を目指すと歩み寄り発言までするようになる。こうしたダライ・ラマの融和路線を「妥協的」と判断した独立支持派は、以後、運動の袂を分かっていく。そして中国政府もダライ・ラマの呼びかけを「欺瞞的」と決めつけ、今も対話に応じる姿勢を見せてはいない。この3者の関係が象徴的な形で現れたのが、1989年のラサ動乱と戒厳令の発令だった。

 

一向に収まらない抗議デモに業を煮やした党中央は、胡耀邦、趙紫陽の「温情」はチベット人を付け上がらせるだけと判断し、少数民族の扱いに慣れていた胡錦涛をチベット行政区の党委書記に転任させる。開明派のはずだった胡錦涛は元老たちの意向に応えて中華人民共和国史上初めて戒厳令を発令(翌年5月まで継続)し、武装警察による徹底的な鎮圧作戦を強行する。その武断政策が評価され、胡錦涛は異例の出世を遂げ、党総書記の座を射止めることになる。以後、チベット人から永遠の憎悪の対象とされた胡錦涛は、2008年の北京オリンピック直前を狙った抗議デモによって国家主席としてのメンツをつぶされ、チベット側に一矢報いられてしまう。

 

モンゴル高原の草地は漢民族の移住後、小麦畑に変わっていったが、

薄くてもろい表土はすぐに乾燥し、砂漠化を招き、干ばつが多発した

 

漢民族の大量移住で内モンゴルは主客逆転

 

中華人民共和国の建国以来、間断なく続けられてきた辺境地区への漢民族の大量移住は、少数民族にとってはアイデンティティ喪失につながる切実な問題だった。しかし、ダライ・ラマの第2の提案は、一度たりとも顧みられることはなかった。

 

そもそも現在、全人口の94%を占めるといわれる「漢民族」だが、中華五千年の歴史の中でいわゆる漢民族が打ち立てた王朝は意外に少ない。最初の統一王朝である「秦」は西の辺境部族だし、漢民族出身と言えるのは「漢」が最初。「隋」「唐」は鮮卑族拓跋部という北方民族が建てた王朝であり、南に追いやられた「宋」、モンゴル族の「元」に代わった「明」くらいが漢民族王朝といえる。最後の「清」は満州民族の王朝であるにもかかわらず、なぜか中国人は「清」の栄華を自慢したがる。もちろん王朝は異民族でも、中華文明圏で生活していた人たちの多くは「漢民族」かもしれないが、華北と華南では遺伝子型も違い、「北」の住民の多くに匈奴や鮮卑族などの北方民族の血が混ざっているのは間違いない。結果として生き残りのために「漢民族」を選び取っていった人々が多かったというのが実際ではなかろうか。

 

梁啓超は、清末に現れたスーパー知識人

 

前述した加々美光行氏によれば、「漢民族」という概念が生まれたのは実は清朝末期で、欧米列強の侵略により初めて「中華」文明の崩壊を感じた人々の危機感が背景にあるという。中国史上で初めて「民族」という言葉を使ったのが清末の知識人・梁啓超で、梁は「中国民族」という概念を提起し、「民族、民権、民生」の三民主義を唱えた孫文にも影響を与えた。孫文は辛亥革命の際に「漢、満、蒙(モンゴル)、回(回族などイスラム系)、蔵(チベット)」の「五族協和」という民族連合を唱えたが、その後、すべての民族をひとつの「中華民族」に融合することを目指すと方針転換する。

 

毛沢東も当初は各民族による連邦制を主張していた。しかし、建国初期の混乱に乗じて外国勢力が干渉してくることを恐れ、国家分裂につながる「民族独立」の動きを徹底的に抑え込んでいく。そのため、国家防衛の意味からも漢民族を国境沿いの辺境地区に大量移住させていくことが目的化していった。

 

ただし、「民族自決」は十月革命直後にレーニンが提唱した社会主義の根本原則だったはずで、特にソ連領内に同胞が設立した自治共和国を持つ内モンゴルや新疆ウイグル諸部族の間ではことさら反発が強かった。党中央は「地方民族主義者は常に民族自決のスローガンを利用してわれわれの国家の統一に反対しているが、これは実際にはプロレタリアートに反対し、社会主義に反対し、民族解放に反対するものである」と否定。レーニンのスローガンは反帝・民族独立の意味を持つという観点からは正しいが、すでにこれを達成した社会主義の中国で独立を要求することは、これまで「諸民族の団結」の下で戦い取った反帝・民族解放闘争を破壊する反動的なものとなる、とまで言い切った。これが今も少数民族の独立要求を拒否し、地域限定の自治権(自決権ではなく)に留めている中国政府の基本スタンスとなった。

 

実際の数字で見ると、2005年のデータでは、チベット自治区の総人口277万人のうちチベット人が241万人なのに対し、漢民族は15万人程度と人口比率は5%程度に留まり、予想外に低いことが分かった(チベット亡命政府はチベット人全居住地に共存する漢民族が760万人いると主張している)。これは高度4000メートルという立地条件が移住の障害になっているからともいえる。ではダライ・ラマの要望は杞憂かと言えば、他の自治区の状況を見ればよくわかる。漢民族の大量移住が最も早く始まった内モンゴル自治区では、2010年の総人口2500万人の8割、約2000万人が漢民族で、モンゴル人は17%の425万人(その他49民族が共存)と漢蒙の比率は見事に逆転している。また新疆ウイグル自治区でも、2008年の国勢調査によると、総人口2130万人のうちウイグル人は983万人、漢民族は836万人(その他カザフ人など多数が共存)とかなり拮抗してきている。すでに漢民族が主流派になった自治区では、公共の場や教育現場での中国語の使用が進められ、進学や就職に有利な中国語を選ぶ生徒が増えるなど、民族独自の言語が置き去りになっていく可能性は否定できない。この動きは中国の少数民族が感じる不安を先取りしているのは間違いない。

 

「開発」という名の「破壊」がアジアに広がる

 

戒厳令発令をきっかけに、中国政府はごり押しでチベットでの事業開発を加速していく。確かに財政支出の9割を政府の補助で賄う経済支援のおかげで、1965年の自治区成立時はわずか241元だった一人あたりGDPは、2003年には6874元と飛躍的に増加するなど、チベット人もその恩恵に浴した。しかし、事業開発の多くはチベット人のためというより、チベットの資源を利用した国家事業である。その最たるものが水力発電事業だ。これがダライ・ラマの4番目の提案である「チベットの自然環境の回復と保護」に抵触するのは明らかだった。

 

そもそもチベットが「アジアの水がめ」と呼ばれるのは、黄河や長江はもちろん、インドに流れ込むブラマプトラ川と合流するガンジス川や西部のインダス川、さらにインドシナ半島を縦断するメコン川といったアジアの大河の水源にあたるからだ。これらの大河の恩恵にあずかっている人々は世界人口の4割を占める。中国建国からわずか40年でチベットの森林の40%が伐採され、保水能力が低下したことで、チベットの下流域での洪水の増加が懸念されていた。にもかかわらず、ダムの建設は急ピッチで進んできた(上図参照)。中国に「蛇口」を握られた下流のアジア諸国は、流量を自由にコントロールできる河川の「武器化」に敏感にならざるを得ない。

 

2014年にチベット南部を横断するヤルチェンポ川流域に初めて「蔵木水力発電所」が稼働したときは、大手新聞『中国能源報』が「チベットが大型水力発電時代に突入」と派手に報じた。しかし、一人当たりの電気消費量が全国平均の半分以下であるチベット人にとって、相次いで建設される発電所は西の電気を東に送る「西電東送」政策として中国本土への貢献に寄与するだけ。そのハイライトが超巨大ダム「メトクダム」だ。

 

2021年3月の全国人民代表大会(全人代)で、中国政府は世界最大と言われる三峡ダム(1993年着工、2009年完成)の3倍の発電規模となる「メトクダム」の建設計画を正式発表した。ヤルチェンポ川が南にカーブしてインド国境に迫る場所に計画されており、インドではヒンズー教の神である「ブラフマーの息子」の意味を持つブラマプトラ川の上流にあたる。例年、数百万人が洪水被害に遭っている流域だけに、超巨大ダムがその危険を増幅させる恐れや水不足、また大規模な環境破壊に懸念が高まっている。

 

しかし、米国のシンクタンクの関係者からは、「いつも下流諸国との事前協議がほとんど行われていない状態でダム建設の計画が発表される。他国に対する中国の無配慮は今に始まったことではない」(『ラジオ・フリー・アジア』2020.12.26記事より)と怒りの声を上げる。

 

実際、2000年夏にインド北部2州を洪水が襲った時、その原因がこの地を流れるサトレジ川上流に建設したダムの影響であることを中国政府が認めたのは6年後であり、メコン川で同様な被害に見舞われた時も同じ対応だったことが関係各国の不信感を増幅させた。中国外交部は「国境を超える河川利用について中国は一貫して責任ある態度を維持している。下流地域の影響に十分配慮し、計画中の発電所が下流地域の洪水防止や生態系に影響を与えることはない」と主張している。

 

これに対し、早稲田大学現代中国研究所の弓野正宏研究員は、「”責任ある態度”を維持するといっても、実際に管理運営するのは民間企業であり、チベットの地理的条件からいって発電・送電コストが大幅に高くなるために十分な維持管理ができるかどうかはわからない」と懸念を示す。また「中国を流れる国際河川は大きなものだけで214あり、流域国は50か国を超え、世界の47%の土地、40%の人口に関わる水資源問題は紛争の導火線になりやすい。ドナウ川流域国で協力関係が築かれている欧州のように、中国も周辺諸国と河川共同管理協定を結ばないと係争になる可能性は高い」(『Wedge』2015年4月号より)と指摘する。

 

「宝の山」は核廃棄物で埋まってしまうのか

 

チベットには水以外にも多くの資源が眠っている。東部のアムド地区では年間100万トン以上の原油が産出されており、ほかにも126種の鉱物が確認されている。リチウムは世界一の埋蔵量がある可能性があり、ウラン(4000万トン)、銅(3000~4000トン)、亜鉛(4000万トン)、鉄(10億トン以上)など、600か所以上の鉱床が立て続けに見つかっている。中でも注目は核燃料であるウランだ。

 

中国の核開発は、1958年に今の青海省海北チベット自治州にあるココノール湖近くに「第9学会」(いかにも秘密施設らしいネーミング)と呼ばれる核兵器の製造施設が作られたことが始まりだ。新疆ウイグルの砂漠地帯で46回の核実験が行われ、その後、300~400の核弾頭を保有し、少なくとも数10個はチベット高原に保管されているとチベット亡命政府は発表している。「第9学会」は1987年に閉鎖されたが、問題は核廃棄物が適正に処理されていたかどうかだ。

 

核廃棄物の地層処分は、現在は国際的には深層処分が主流だが、中国政府は浅層処分で充分に安全と見なしている。また「第9学会」で出た高レベル放射線廃棄物も「安全性は30年間、完全に保たれており、環境への悪影響や施設で被爆者が出たこともない」と公式に発表している(すでに30年を経過しているが・・・)。しかし、チベット文化研究所のぺマ・ギャルポ氏は、1992年の『世界ウラニウム聴聞会』の資料などを元に、チベット各地で散見される放射能汚染の実態を紹介しつつ、ずさんな核廃棄物処理が想像以上に深刻であると力説している(『日本人が知らない中国の民族抹殺戦略』より)