中国の少数民族問題② 神秘の国チベットはどう破壊されたのか(上) | 蝦夷之風/EZO no KAZE

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武蔵の国から移り住んで以来、日増しに高まる「北海道」への思いを、かつて「蝦夷」といわれたこの地の道筋をたどりながら、つれづれに書き留めてみます。

毛沢東は1954年に北京を訪れたダライ・ラマ14世(右)と

パンチェン・ラマ10世(左)を笑顔で招いたが・・・・・・。

(『チベット』創元社刊より転載)

 

中国政府にとって、チベットは台湾と並ぶ「核心的利益」の一つである(注1)。1950年の軍事侵攻を足掛かりにチベットを属国化してインドへの抑えとした中国政府は、以後、漢民族を大量に移住させてこの国の主導権を握り、その膨大な資源と「アジアの水がめ」を手に入れたことで未来の発展を確実なものにできたのだから。ただし、その見返りにチベットが奪われたものがあまりに多いことを忘れてはいけない。一千年に渡り培われた伝統や社会システム、そして神秘的なチベット仏教に根差した固有の文化は次々に破壊され、「中国式」に書き換えられていった。その軌跡は、世界史的に見ても筆舌に尽くしがたい「民族弾圧」の歴史である。

 

チベット民族は、1965年に成立した「チベット自治区」を為すチベット高原だけでなく、隣り合った青海省、四川省、甘粛省、雲南省にまで広がる地域に、合わせて600万人が盤踞している。地域が広大なために「行政」上の理由で区分けされたのは確かだとしても、抗戦意識の強い部族が住む東部地区(四川省の西側)などを分断した背景には、「生来、攻撃的で戦闘的な性格」(『ダライ・ラマ自伝』より)のチベット人が民族団結を企むことがないようにと考えた政治的判断があったことは否めない。軍事占領に際して各地で起きた反乱の連鎖に手こずった中国政府が、彼らをつなぎ合わせる役割を持つ「チベット仏教」(モンゴル人も信仰している)を狙い撃ちし、徹底的な宗教弾圧を行ったことが、このことを裏付けている。

 

それゆえ中国政府が最大のターゲットとしたのが、政教一致のチベット社会の最高指導者ダライ・ラマであるのは当然だ。が、実はもうひとり重要な人物がいる。それがパンチェン・ラマである。チベットでは、「ダライ・ラマは太陽、パンチェン・ラマは月」に例えられるように、この2人は互いに補完しあう二大権威だ。ただ、1959年の「チベット動乱」を機にインドに亡命し、その後も自由な政治活動が可能であったダライ・ラマ14世(1935~ )に対し、動乱後もチベットに留まったパンチェン・ラマ10世(1938~1989)の運命は大きく暗転した。彼の人生は政治の嵐に翻弄された苛烈かつ凄惨なチベットの運命を体現している。

 

政治に翻弄されたパンチェン・ラマの悲劇

 

チベットに仏教が伝わったのは、かつて「吐蕃(とばん)」と呼ばれた王国の始祖ソンチェン・ガムポ(在位629~650?)が、征服王の異名そのままにネパールや唐に攻め込み、両国から和平の証としてそれぞれの王女を娶ったことにさかのぼる。仏教を篤信する2人の王妃の影響で、王はこの地に初めて仏教を導入する。さらにガムポの曽孫ティソン・デツェン(在位755~797)がインドの高僧を招いてサムイエーに最初の僧院を建立。仏教の国教化を宣言したことで、チベット高原は仏教の聖地となっていく。宗派対立(注2)がしばらく続いたのち、モンゴル人の庇護を受けたゲルク派が優位となり、以後、この派のリーダーであるダライ・ラマ、そしてパンチェン・ラマがチベット仏教を率いる存在となった。

 

ただし、正当な手続きを得て「化身」と認められたダライ・ラマ14世に対し、パンチェン・ラマ10世の人生は最初から「怪しかった」。前代9世の死後、転生者候補となったものの、他の候補を押しのけて即位できたのは、彼を政治利用しようと考えた国民党の意向による。その後、共産党も幼い彼を北京で庇護し、意のままになる指導者として、ダライ・ラマの対抗馬に仕立て上げようとする。

 

1950年3月、毛沢東は「欧米の帝国主義者からチベットを解放するため」と称して、ついにチベット高原東部のカム地方に侵攻を開始。当初、中国軍は住民に医療サービスを行うなどソフト路線で住民に接していたが、その裏側では軍が移動しやすいよう川に橋を架け、自動車道を建設し、各地に軍事拠点を設営していった。そして10月、すべての準備が整うと、8個師団15万人に膨れあがった中国軍は、突如、仮面を脱ぎ捨てて東チベットに襲い掛かり、翌年にはチベット全土を制圧する。当時16歳のダライ・ラマはこの非道を国連に訴えたが、朝鮮戦争の渦中でもあり、国際社会の一員として承認されていないチベットの訴えは看過されてしまう。一方、3歳年下のパンチェン・ラマは政府高官の彭徳懐に連れられてチベットへ「お国入り」を果たす。その姿を見て、チベット人の多くが彼は中国政府の神輿に乗ってしまったことを知る。(ちなみに、ブラッド・ピット主演の映画『Seven Years in Tibet』はこの頃のチベットが舞台)

 

“占領”後、チベット代表団が北京に呼び出され、「チベットは中国共産党の指導の下で独立を享受する権利を有する」こと、「チベット軍は人民解放軍に吸収され、北京政府がチベットの外交を行う」といった、中国の属国化を認める「17箇条協定」を押し付けられる(ダライ・ラマはインドに亡命後、この協定の無効を宣言)。その一方、利用価値があるダライ・ラマとパンチェン・ラマの地位や権力は保証された。これは、いみじくも第二次大戦後に天皇制を維持したGHQと同じ発想である。

 

1959年3月10日、ポタラ宮殿前に集まった3万人のチベット人に対し、

銃弾の雨が降った (AFP=時事より)

 

命運を分けた1959年のチベット動乱

 

1954年に中国政府はダライ・ラマとパンチェン・ラマの2人を北京に招き、国家建設が進む各地を1年近くにわたり視察させる。チベットに戻る日の前日、毛沢東に呼び出されたダライ・ラマは、毛の驚くべき本音を聞く。「宗教は毒だ。第一に人口を減少させる。なぜなら僧侶と尼僧は独身でいなくてはならないし、第二に宗教は物質的進歩を無視するからだ』と言われ、激しい嵐のような感情が顔に出るのを感じ、突然非常な恐れを抱いた」(『ダライ・ラマ自伝』より)という。

 

この後、2人は毛の言ったことの意味を知る。占領下のチベット各地で起きる反乱に手を焼いていた中国軍は、軍の移動や攻撃人数などの情報がすぐに各地に伝わっていくことに驚き、これが僧院を中心としたゲリラ活動(事実、米国CIAの支援を受けたゲリラ組織「チュシ・ガンドゥク(“四つの河、六つの山脈“の意味)」が、1972年のニクソン訪中まで活動していた)にあることをつかんで、僧院や僧侶を狙った作戦に転じる。中でも1956年に反乱の拠点であった地方都市リタンで僧侶による大暴動が起きると、巨大寺院の周辺に爆撃を行って廃墟同然にしたうえ、僧侶たちへの虐殺が行われ、推定死者は3000~5000人に上った。

 

「大勢のチベット人が手足を切断され、『仏陀に腕を返してもらえ』と嘲笑された。そして首を切り落とされ、焼かれ、熱湯を浴びせられ、馬や車で引きずりまわされて殺された。高僧たちはさんざん殴打されて穴にほうり込まれ、村人は彼らに小便をかけるよう命じられた。中国兵は高僧たちに向かい、『霊力で穴から飛び上がって見せろ』と嘲り、挙句に全員を射殺した。そして貴重な仏像は叩き壊され、経典はトイレットペーパーにされて冒涜され、僧院は馬や豚小屋にされるか、跡形もなく破壊された」(『中国はいかにチベットを侵略したか』マイケル・ダナム著より)。

 

チベットの運命を変えた1959年の「チベット動乱」は、こうした残虐行為に対する憤懣が最大限に高まった民衆暴動である。3月10日の早朝、ダライ・ラマの身柄が拘束されるとの噂を聞いた3万人の住民が首都ラサのポタラ宮殿前に集まって抗議行動を始め、軍との間でいざこざが始まり、ついに軍人による民間人への銃撃が始まった。「血塗られた金曜日」と言われた19日に、夏の離宮ノルブリンカへの一斉攻撃を合図に市民への大虐殺が行われた。この直前の17日夜には奇跡的な脱出行によってダライ・ラマ14世は山岳地帯を抜けてインドに亡命し、8万人が彼に従った。チベット占領に不可欠な”大物”を逃した中国政府は、その仕返しとして20万人に増強された中国軍(モンゴル人の騎馬部隊も動員され、「夷をもって夷を制す」と称した)が、仏教関係者はもちろん住民への攻撃をエスカレートして行く。後にチベット側が入手した人民解放軍の内部資料によると、1959年3月~1960年10月までに、およそ8万7000人を殺害した(自殺者や拷問死は含まず)との記述があったという。

 

中国政府のチベット政策を批判したパンチェン・ラマは、50日間、公開の場

で糾弾され、その後、10年近い獄中生活を送ることになる

(『チベット』創元社刊より転載)

 

「七万言」の抗議が毛沢東の怒りを買う

 

当初、パンチェン・ラマは、慈父のような周恩来の厚誼を受けて中国政府に期待するところがあった。しかし、チベット動乱以降、「民主改革」の名のもとに急進的なチベット社会の破壊工作が進む状況を見て、ダライ・ラマ不在の今、チベットを守護できるのは自分しかいない。そう思ったパンチェン・ラマは、中国政府の強引な占領政策とチベット人への苛烈な残虐行為を告発すべく、1962年に「七万言書」と呼ばれる長文の抗議文を周恩来に提出する。パンチェン・ラマはこの中で、

①    チベット動乱以後、不法な逮捕や連座制によって、多くのチベット人が報復的な処罰を受けていると批判

②    多くの餓死者を生んだ大躍進政策の影響で、チベットでも「1日の食料割り当てはわずか180gで、草や葉っぱ、木の皮の混ざった小麦が配給されるだけ」という窮状を訴えた

③    かつて2500か所(寺院数については後述)あった寺院が、今は70か所が残っているだけとなり、また約11万人いた僧侶のうち1万人が国外に逃亡し、その後も寺院に残れたのは7000人程度に過ぎない(殺害されたり、逮捕・監禁されたほか、強制的に還俗させられたケースも多かった)と指摘

④    寺院はもはや宗教組織としての役割と意義を喪失しつつあり、一部の主要寺院を除き、多くの寺院で仏堂や仏塔、仏像、経典などが破壊や焼却され、また価値あるものは略奪されたと、仏教破壊の実態を訴えた。

 

この文書を読んだ毛沢東は「共産党に対する毒矢」と決めつけて怒りを爆発させ、24歳のパンチェン・ラマを「反動的封建領主」と非難し、それまでの期待が裏目に出たことを知る。その後も批判を止めないパンチェン・ラマは、2年後の1964年には「反党、反人民、反社会主義」の罪状により50日間にわたり公開の場で激しい批判にさらされたうえ自宅軟禁状態に置かれ、さらに強制労働に就かされるなど、「逆らった飼い犬には徹底的なお仕置き」がなされた。ついに文化大革命中の1968年夏に投獄され、1977年10月に解放されるまで10年近い獄中生活を送ることになった。

 

「牛鬼蛇神」と書かれた三角帽子を被せられて

市中を引き回されるセラ寺の高僧

『殺劫』より転載

 

「牛鬼蛇神」と侮蔑されリンチに遭う僧侶

 

ここで改めて文化大革命に触れなければならない。毛沢東の責任を問わざるを得ない1950年代後半の「大躍進政策」と1966年からの「文化大革命」は、1989年の「天安門事件」同様、中国では依然として封印された歴史である。さらに政治的鎖国状態にあったチベットでの文化大革命となるとその実態はまったく不明とされ、現代チベットに関するいくつかの書物を調べてみても、誇張された数字やフェイクニュースなみの伝聞がある程度で、寡聞にして当時の生の声を伝える記録に出会うことができなかった。

 

そんな折、ずばり「チベットの文化大革命」を題材に、当時の貴重な写真とともに、綿密な取材で構成されたチベット人作家ツェリン・オーセル女史がまとめた『殺劫(シャーチェ)』(集広舎刊)に巡り合った。オーセル女史(夫は劉暁波の知人でもある作家・王力雄)の父親がラサのチベット駐屯軍の副司令だったこと、また彼がアマチュア写真家でもあったことが幸いし、大量に撮影された当時の貴重な写真が「封印された歴史」の一部を解き明かしてくれた(中国軍関係者が半ば公的な記録として残したものであるため、政府軍にとって不都合なシーンを期待できないのは差し引くとしても)。

 

「文化大革命」を端的に表すものと言えば、「造反有理」(=旧勢力に造反することには道理がある)などの小気味良いスローガンや階級闘争を意識させる造語の数々にある。『殺劫』の中で盛んに叫ばれていたのは「破旧立新」、つまり旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣の「四旧」を打破して「古いチベットを破壊」しなければ新しいものは創れない。そのためには、四旧を体現している「牛鬼蛇神」を一掃せよ、というのが、「翻身農奴」に与えられた使命であり、彼らは紅衛兵となって革命に参加し、「積極分子」として闘争の先頭に立った。(まさに四文字熟語のオンパレード!)

 

「牛鬼蛇神」とは牛頭の化け物や蛇身の魔物などの妖怪変化を意味する言葉で、「チベット行政府の役人」「富裕層・貴族」「仏教関係者」の「三大領主」が倒すべき階級敵である「牛鬼蛇神」として徹底的な迫害の対象となった。この写真はチベットの三大名刹の一つセラ寺の高僧リンプン・リンポチェで、被せられた三角帽子には「牛鬼蛇神」の文字、顔には隈取りが描かれ、沿道の民衆の嘲笑の中を引き廻された。「時に土下座を強要されて批判され、銃の台尻で右耳を激しく殴りつけられた。今も耳に障害が残っている」と、米国に亡命した後に行われた仏人記者のインタビューに応えている。

 

「翻身農奴」とは、旧社会から解放(もちろん中国政府により)された貧農を指し、自ら先頭に立って階級敵を打倒する「積極分子」になることで賞賛を得た。著者も当時の関係者に何度も確認しているが、文化大革命中に無慈悲な暴力を振るった人々のほとんどが同じチベット人であり、とりわけ当時の下層階級だった。写真に写った「積極分子」の英雄気取りの姿には、正直、おぞましさしか感じない。こうした社会の底辺にいる人間を煽って階級意識を覚醒させて「革命の原動力」を引き出すのは、まさに毛沢東の階級闘争の流儀である。彼らの革命的暴力の矛先が向けられた相手は悲運としか言いようがない。

 

そして、僧院や僧侶、尼僧に対する仏教弾圧は、これまでより一層の広がりと過激さを増す。チベットの寺院数については、いくつかの書物でもともと7000か所近い寺院があったとの指摘が多い。最も詳細なデータを挙げている仏人ジャーナリストのピエール=アントワーヌ・ドネの『生死を問わずチベット』の数字を引用すると、チベット仏教の礼拝場所は6259か所あり、文化大革命後になんとか機能していたのは13か所に過ぎなかったと。ほとんどの寺院が破壊、焼却、略奪の対象となり、宝物や貴金属は盗まれた。「ある北京の鋳造工場は1973年までに600トンものチベット彫刻を回収した。また1983年にラサから北京を訪れた視察団は、そこで1万3537個の仏像と32トンもの聖遺物を発見できた」という。

 

ダライ・ラマ14世が「チベットで最も崇高な寺院」と称賛したラサ中心部にある名刹ジョカン寺まで標的となった。ただし周恩来が歴史的文化財には手を付けるな、と指示していただけに、建物だけはなんとか体裁を保った(1階は豚小屋とトイレに利用されたが)ものの、内部は滅茶苦茶にされ、仏像や経典類は破壊と略奪にあった。また僧侶は「人民に寄生する階級敵」と見なされ迫害を受けた。僧侶の処刑では、縄で絞め殺す重しに仏像が使われたともいう。5人に一人が僧侶といわれるチベットで90%以上が亡くなったり、国外脱出を余儀なくされた。

 

文化大革命時の犠牲者が急増していくのは、紅衛兵による「階級敵」への攻撃がエスカレートし、「造反有理」のスローガンに煽られた運動を政府がコントロールできなくなって内乱状態に変化していくことにあった。チベットでは、かつての日本の新左翼運動のように、造反派同志である「ラサ革命造反総司令部(造総)」と「プロレタリア大連合革命総指揮部(大連指)」が対立し、各地で衝突を繰り返した。そして事態がさらに激化したのは、民衆の造反が中国軍へも向き、1969年当時、チベット自治区71県のうち、52県に反乱が広がったことだ。中でも尼僧チレ・チュドゥンが率いた集団が行った中国軍へのテロ攻撃である「ニェモ事件」や解放軍兵士の惨殺が行われた「ペンバー事件」などは、チベット文革史上最大の殺傷事件と言われている。こうした民衆の行き過ぎた暴力を制御できなくなり、毛沢東は最後には軍隊によって事態を鎮圧せざるを得なかったことが文化大革命の無残な幕切れにつながった。

 

ちなみに、1984年にチベット亡命政府は文化大革命をはさんだ1950~1976年の間に亡くなったチベット人は、戦死、処刑死、強制収容所での死亡、餓死や自殺などもすべて含めて約120万人に及ぶと発表している。今から確認するのは難しいが、この数字を信じるとすると、カンボジアのクメールルージュの行った「キリング・フィールド」並みのジェノサイドに相当するといえるだろう。

 

そしてパンチェン・ラマは2人になった!?

 

さて、パンチェン・ラマに話を戻す。

1976年9月9日に毛沢東が亡くなり、文化大革命の責任をすべて負わされた「四人組」が処刑されると、1977年10月にパンチェン・ラマは北京の秦城刑務所を出獄し、長い獄中生活から解放される。その後も1982年まで北京で軟禁状態に置かれたものの、この間にチベット代表団が彼と会談している。

「パンチェン・ラマは中国権力によって実に残酷な取り扱いを受け、5人の代表に拷問によって受けた傷跡を見せた。わたしが亡命した後も彼のタシルンポ僧院は無疵のままであったが、彼が中国政権を批判しはじめるや軍隊が送り込まれ、準備委員会議長としてわたしの後釜に坐るよう求められた。彼はそれを拒否し、代わりに七万語にのぼる抗議文書を毛主席に送りつけたのである(中略)1964年初め、パンチェン・ラマは更生の機会を与えられたが、ラサ市民の前で、『ダライ・ラマこそチベットの真の指導者である』と宣言したために捕らえられ、17日間の秘密裁判に付され、その後杳として消息を絶った。多くの人が彼もまた”消された”のかと心配した。が、実際は、最初は自宅軟禁され、それから凶悪刑務所に投獄された。そこでひどい拷問にあい、政治的”再教育”を強制された。刑務所の状態は無慈悲そのもので、何度か自殺を図ったほどである」(『ダライ・ラマ自伝』より)

 

1980年に共産党総書記の胡耀邦がチベットを訪れたことが転機となるはずだった。

「チベットの貧困を目の当たりにして、恥ずかしさのあまり涙を流した」という有名な挿話が物語るように、胡耀邦はこれまでのチベット政策を改め、チベット人の自治を進めるため、中国人がほぼ独占していた行政府から85%の中国人を引き上げると表明。1982年には「秩序を乱さない限り、信教の自由を保証する」ことも約束した。全人代常務委員会の副委員長に復帰したパンチェン・ラマは、1985年にはラサでモンラム祭を祝う集会にも出席するなど積極的に新しいチベットのために働いた。しかし、急進的な開放政策は多くの人たちの反発を招き、1987年1月に胡耀邦は更迭されてしまう。

 

同じ年の3月、北京で開かれた全人代チベット自治区常務委員会で、パンチェン・ラマは胡耀邦の無念を晴らすかのように、経済開発の問題点やチベット人の差別待遇などについて中国政府の政策をあからさまに批判。そして1989年1月24日、自分が座主を務めるタシルンポ寺のある町シガツェで、「チベットは過去30年間に、その発展のために記録した進歩よりも大きな代価を支払った。チベットは中国から得た恩恵よりも中国から失ったものの方が大きい」と覚悟の演説を行う。そのわずか4日後、パンチェン・ラマは、不可解な死を遂げる。同じ年にダライ・ラマはノーベル平和賞を受賞したというのに・・・。チベットに初めて戒厳令が敷かれるのは彼の死の1カ月ほど後の3月6日であった。

 

話はこれで終わらない。彼の死後、彼の跡を継ぐべき「転生僧」をめぐって政治的な対立が起きてしまう。ダライ・ラマ14世とチベット亡命政府は、1995年に当時6歳のニマ少年をパンチェン・ラマ11世と認定したが中国政府はこれを認めなかった。その後、ニマ少年と彼の両親は失踪し、翌年、ニマ少年を保護する目的で連行したと中国政府は認めたものの、いまだニマ少年の安否は不明のままだ。その一方で、中国政府は別に、ギェンツェン・ノルブ少年をパンチェン・ラマ11世として即位させてしまう。現在、2人のパンチェン・ラマがいる異常事態になっていることを、10世は果たしてどう思っているのだろう。

 

チベット最古の僧院であるサムイエー寺で、インド仏教と中国仏教の宗論

対決が行われ、勝利したインド仏教が「正当」と認められた

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注1)2006年4月に曽慶紅国家副主席がスリランカの首相との会談で初めてチベットを「核心的利益」と公式に規定した。

注2)チベット仏教には「四大宗派」があるが、教義上の違いはあまりなく、その違いはそれぞれの師が口頭による教えの中でどの経典を重視し、どのように解釈したかという点にある。師が語る解釈を譲り受けた者だけが、他の弟子に伝えることを許されるため、師の人格が重要な役割を果たす。つまり師のカリスマ的な人格とその教えを中心に各宗派が形成されていった。また「討論」が重視されるため宗派間論争も盛んで、786年にサムイエー寺で行われたインド仏教と中国仏教の宗論対決では、論争に勝ったインド仏教が「正統」とされた。これを受け、サンスクリット語の経典をチベット語に翻訳した膨大な「チベット大蔵経」が編纂された。これを求めて河口慧海などの日本人僧侶がチベット入りしたことはよく知られている。

[チベット四大宗派]

●ニンマ派(“古派”の意味) 紀元七世紀発祥と最も古い歴史を持ち、チベット密教の祖といわれるパドマサンバヴァが創始した。10世紀にリンチェン・サンポらによって編纂されたタントラは全宗派に承認されている。

●サキャ派(本寺の名前が由来) 1073年に創建されたサキャ寺を拠点にクン一族が法王を世襲。13世紀にチベットに侵攻してきたモンゴル人の信任を受け、フビライハンの後ろ盾もあって、一時チベットを政治的に支配した。その後、カギュ派のパクモドゥ派に取って代わられたが、今も一族が同派を継承している。

●カギュ派(“教えを口伝する派”の意味) インドで修行してきたマルパとその弟子で詩人としても有名なミラレパを開祖とする。分派も多く、上記パクモドゥ派や「転生活仏制」を初めて導入したカルマ派などがある。

●ゲルク派(“徳行派”の意味) 吐蕃の滅亡後、衰退していた仏教界に、11世紀になってインドから招来したアティーシャを祖とする戒律や哲学を重視するカダム派(“仏の教戒に従う者”の意味)が生まれたが、14世紀に現れたツォンカパがこれを発展・継承した「ゲルク派」が同派を吸収した。1642年にダライ・ラマ5世が政治の実権を握り、以後、同派がチベット支配を担った。(『チベット』フランソワーズ・ポマレ著/創元社より)