中国の少数民族問題① 「民族浄化」は内モンゴルから始まった | 蝦夷之風/EZO no KAZE

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武蔵の国から移り住んで以来、日増しに高まる「北海道」への思いを、かつて「蝦夷」といわれたこの地の道筋をたどりながら、つれづれに書き留めてみます。

冬季オリンピックの会場になった張家口はモンゴル高原への入り口でもある

 

今回の冬季オリンピックのスキー会場となった張家口は北京から約200km離れた「北京の北門」に位置し、古来、北方民族と中華との攻防が繰り広げられた「燕雲十八州」の一角を占める「武州」にあたる。かつてはモンゴル語で”関門”を意味する「カルガン」と呼ばれ、この地から北に追いやられた内モンゴル人にとっては今も「聖地」のような場所である。

 

時は1911年の辛亥革命にさかのぼる。清朝幕下のモンゴルはかつての巨大帝国の遺伝子が目覚めてこの機に乗じて民族自立の道を目指す。しかし、ともに新国家建設途上だった中華民国とソ連邦は彼らの勢力拡大を恐れて民族分断を図る。結果、外モンゴルは1924年に「モンゴル人民共和国」(現在の「モンゴル国」。以後、外モンゴルと表記)としてソ連邦の衛星国となり、一方の内モンゴルは中華民国の統治下にとどめ置かれた。

 

外モンゴル独立の翌年、内外モンゴルの統一を掲げる「内モンゴル人民革命党」の第一回党大会が開かれたが、その開催場所となったのがこの張家口だ。また1939年に「蒙古聯合自治政府」の首都が置かれたのも、1949年の中華人民共和国の建国時に「内モンゴル自治区」(自治区成立は1947年)の政府機関が置かれた(後に河北省に編入)のも張家口だった。まさにここは内モンゴル人の民族的原点であり、彼らの悲劇の始まりの地でもあった。

 

虐殺の歴史を語り出したモンゴルの生き証人

 

中国共産党政府による異民族への人権弾圧は今に始まったことではない。分断後の内モンゴルで行われて来た迫害の歴史は、「少数派」を狙った民族浄化政策を象徴するものだ。建国後から始まる「地主」の掃討作戦、1950年代後半の「反右派闘争」、1966年から10年続く「文化大革命」の期間に、中国政府の公式見解(つまり少なく見積もって)でも、内モンゴル自治区のモンゴル人約150万人のうち34万6000人が「民族分裂主義者」などの罪を科せられ、そのうち2万7900人が殺害され、また苛烈な拷問によって身体障害が残ったものは12万人に上ったという。

 

モンゴル人学者の楊海英(モンゴル名:オーノス・チョクト)氏は、文化大革命前後に行われた内モンゴルでの弾圧を生き抜いた人々を丹念に取材し、その生々しい証言を渾身のドキュメント『墓標なき草原――内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』(岩波現代文庫)にまとめている。ここには中国共産党による過酷な民族虐殺の実態があからさまに描かれている。

 

新疆ウイグル問題の原点はここにあった。この悲劇は、かつて建国したばかりのアメリカが先住民族のアメリカインディアンに対して行った数々の残虐行為を描いた『わが魂を聖地に埋めよ』(草思社文庫)と生き写しのような歴史ドラマであった。

 

内モンゴルでの公開処刑(『墓標なき草原』より)

 

「内モンゴルのシンドラー」、医師ジュテークチの場合

 

名医として知られたジュテークチ氏の故郷である内モンゴル東部のホルチン草原は、「興安四省」のひとつとして日本が作った満州国の領土となった。彼は満州国が作った興安軍官学校に進み、卒業後は満州国のエリート軍人になるはずだった。しかし、1939年夏に内モンゴルのフルンボイル草原で「ノモンハン事件」が起き、日本軍はソ連邦と外モンゴルの連合軍に対し約2万人の将兵を失う大敗を喫す。これを機に、彼は「武器ではなく、近代医学でモンゴル人を救おう」と医学の道を目指し、ハルビン陸軍軍医学校に転校する。

 

日本軍が破れて撤退した1945年8月21日にハルビン陸軍軍医学校は中国共産党の軍隊に編入される。当時、中国共産党の軍内は人材不足でもあり、医師は重用されるはずだった。だが、日本統治下で高等教育を受けたモンゴル人エリートは「日本の協力者=スパイ」と見なされ、「技術上可用、政治上不可信」、つまり「持っている技術は活用させるが、政治的には信用できない」として敵視された。

 

暴力行為が公然と行われるようになるのは、農民主導による共産主義革命を目指した毛沢東が「農村改革」を掲げ、搾取階級である「地主」の一掃を指示してからだ。内モンゴルでも土地を持っている「地主」が対象となった。しかし、遊牧民にとっての草原は共有財産に近く、実態は牧畜のための餌場でしかない。わずか100頭のヒツジも養えない微々たる草原を「所有」しているというだけで漢人から「地主」に祭り上げられ、「石で叩き殺されたり、槍で刺し殺されたりといった、血なまぐさい暴力で駆逐されていった」。土地の分与を期待して陝西省や山西省から大量に移住してきた貧しい漢人たちは、多くが「流氓無産階級」と呼ばれるゴロツキで、モンゴル人の「貧しい地主」の多くが彼らの無慈悲な暴力の犠牲となった。

 

1957年から始まる「反右派闘争」では、共産党の執政に不満や意見を言った知識人が「右派」のレッテルを貼られ「粛清」の対象とされた。内モンゴル医院の責任者となったジュテークチ氏は、満州国時代に医学を学んだ人たちを積極的に採用する一方、病院の環境を改善しようと暖房設備を充実させたが、これが「右派」的行為として断罪された。日本統治下で学んだ人々の採用は「罪」であり、暖房設備の改善は「優先事項を誤り、国家建設を阻害する行為」として摘発されたのだ。時代の空気は明らかに変わっていた。

 

「やり過ぎ」と毛沢東は言ったが・・・

文化大革命時に撮影していた李振盛の写真は人類史に残る貴重な一枚だ

 

しかしこれはほんの序の口だった。1966年5月に行われた前門飯店会議で、毛沢東は「5.16通知」を全国に発信。これが「文化大革命」開始の合図となった。「民族闘争も階級闘争だ」とする毛沢東の指示で内モンゴル自治区の最高責任者だったウラーンフーが失脚させられると、後任の漢族将軍は「民族分裂をそそのかすウラーンフーの毒を抉り出す」として、共産党の意向に沿わない内モンゴル人を無差別に断罪し、苛烈な暴力に曝していった。

 

ジュテークチ氏も「ウラーンフーの黒い手先」と批判する壁新聞が張り出され、職務停止を命じられる。それでも重病人が来た時や共産党高官の手術だけは「功績を立てて罪を洗おう」との名目で駆り出されたが、それ以外の時は「批判闘争」の大会に連れ出され、仲間であるはずの病院の職員たちからサッカーの練習と称して、倒れたところを繰り返し蹴り上げられる壮絶なリンチにあった。さらに「日本のスパイ」「偽物の共産党員」という罪を問われ、漢人群衆から「ぶっ殺せ」という声とともに襲い掛かられ、生殖器を破壊され、数日間、意識を失ったこともあった。1年も経たずに彼は牛棚(牛小屋)と呼ばれる監禁施設に閉じ込められた。

 

1969年5月22日、内モンゴルでの苛烈な弾圧を見かねたのか、毛沢東は「この運動はやや拡大してしまった」との談話を発表。逮捕・監禁されていたモンゴル人たちは徐々に解放されていった。ジュテークチ氏も病院に戻ったが、そこには数えきれないほどの暴力を受けて傷だらけとなった無数のモンゴル人が待っていた。「私は生き地獄を見ました。目が失明させられた者、腕や足を切断された者、そして頭の中に釘を打ち込まれた人など、言葉では表現できない惨状でした」と。

 

それでも生き残っただけマシだったかもしれない。内モンゴル自治区の党委員会副秘書長の夫人は、漢人たちに髪の毛を木に縛りつけられ、裸にして長期間にわたって侮辱を受け、繰り返しレイプされたあとに殺害された。また腺ペストの撲滅に力を注いできた衛生庁の幹部は肺炎を患っていたにもかかわらず批判闘争に連れ出され、残忍な方法で殴られ続けられたのち、帰宅してすぐに呼吸困難で亡くなった。

 

しかし、毛沢東談話はモンゴル人への迫害を終結させたわけではなく、その後も暴力は無くならなかった。ジュテークチ氏は決心する。生き延びた者だけでも私が助けようと。彼は他の医者の協力もあって、監視対象となった「重罪人」を自治区以外の病院へ転院させ、約2万人の人たちを安全な場所に逃がすことができた。まさに「内モンゴルのシンドラー」たる所以であった。

 

モンゴル語教育の授業削減に反対するデモは日本でも行われた

民族文化に対するジェノサイド

 

国民党との抗争中は、毛沢東も共産党への支持拡大を意識して「少数民族の待遇を改善し、民族自決権と自発的希望に基づく連邦国家を建設する」と言っていた。しかし、1957年8月に開かれた青島での「少数民族工作会議」では、「中国の少数民族はソ連邦の各民族のように自治共和国を創ることはできない。中国の少数民族には地域自治が一番適している」と、約束を反故にした毛沢東に代わって周恩来が談話を発表し、少数民族政策を変更した。

 

楊海英氏は、中国政府と旧ソ連邦の少数民族対策の違いをこう表現する。

「ソ連邦の憲法では、少数民族とロシア人の”結婚”がうまく行かなくなったら”離婚”が許されていた。しかし、中国の場合は、一度”結婚”したら死ぬまで嫌な中国人と一緒に暮らすしかなかった。“離婚”は許されず、いくら暴力を振るわれても我慢するしかない」と。

 

連邦制を取っていたがために、ソ連邦崩壊後は多くの自治共和国が独立しやすかったのは確かだろう。しかし、中国政府は内モンゴルだけでなく、チベットや新疆ウイグル、広西チワン族、さらには香港など、今も「少数民族」が住む自治区への統制を強め、「漢民族」を大量移住させて自治区内の主導権を握り、「民族浄化」を進める方針に変わりはない。

 

内モンゴルでは、その後も文化大革命の実態を追及する動きは絶えない。中でも、「上訪処」というお上への直訴者を管轄する機関の処長を務めていたアルタンデレヘイ氏は、政府から廃棄の指令が出ていたモンゴル人被害者の提出した書類などをひそかに保管し、モンゴル人に対する大量殺戮の歴史を書き上げた。「文化大革命は最初から最後まで民族問題として現れ、民族紛争の形式で繰り広げられた。そして文化大革命が終息した1976年以後もモンゴル人に対しての差別政策は続いている」と指摘する。

 

1980年には、大量虐殺の責任をあいまいにしたままの中国政府に対し、学生を中心とした抗議活動が起きたが、党中央は「200万人のモンゴル人に対し、入植した1600万人の漢人の権利も尊重しなくてはいけない」と回答を拒否し、学生の活動を扇動したモンゴル人幹部を粛清し、学生たちも遠隔地に追放してしまった。

 

そして2020年には、内モンゴル自治区をはじめ6省・自治区の少数民族が通う小中学校で、モンゴル語など少数民族の言語を使う授業を大幅に減らし、標準語教育を強化する改革が始まった。「習近平指導部による少数民族の漢族同化政策が背景にあるとみられ、内モンゴル自治区では抗議デモに参加したモンゴル族の保護者や教員が弾圧されているという」(「西日本新聞」2020年10月26日付け記事より)

 

この記事の中でコメントを求められた楊海英氏は、内モンゴル自治区の第一公用語はモンゴル語と法的に認められているにもかかわらず、当局は「諸民族を中華民族の一員」とするためにモンゴル語による授業を削減し、標準語教育を強化するというのは文化的なジェノサイドであり、これは2017年以降、チベットや新疆ウイグルで導入されたのと同じ手法と指摘。また、外モンゴルである「モンゴル国」が2025年から内モンゴルで使われてきたモンゴル文字も母国語表記に採用する方針を発表したため、内外モンゴルが結びつきを強めることを警戒しており、「今回の改革の背景には、漢族への同化が思うように進まない中国政府の焦りがある」とみている。

 

「過去の大量殺戮の歴史を総括しない限り、現在の民族問題は解決しない」と楊氏は重ねて力説している。

 

*参考文献 『共産主義黒書<アジア篇>』(ちくま学芸文庫)