北海道は「神の国」足り得たのか① 蝦夷に渡った初めてのキリスト教宣教師 | 蝦夷之風/EZO no KAZE

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武蔵の国から移り住んで以来、日増しに高まる「北海道」への思いを、かつて「蝦夷」といわれたこの地の道筋をたどりながら、つれづれに書き留めてみます。

竜飛崎から目の前に見える北海道に渡った人たちの胸中に浮んだものは・・・

 

2020年8月、フェリーで着いた新潟港から北上し、東北をぶらつきながら津軽半島突端の竜飛崎までたどり着く。この日は珍しく天気が良いらしく、岬から対岸を望むと、津軽海峡をはさんで手が届くほどの距離に北海道が見えた。かつて義経(もしくはその一行)が追っ手を逃れて蝦夷に渡り、はたまた土方歳三は最後の戦いをするために箱館に向かった。この海峡を越え、「蝦夷」に渡ることが彼らにとってどんな意味を持っていたのか、それを知りたくてここまで来たのだ。「新天地」を求めざるを得なかった人たちの口惜しさと悠揚迫らぬ独立不羈の決意が、この海峡越えにはあるように思う。

 

「布教」は未知の人々への教化を目的とした一種の冒険である。大航海時代に大海原に乗り出したポルトガルやイスパニアの宣教師たちは、たとえ植民地占領の先兵という役割を担わされたのだとしても、故国から数千キロも離れた辺境のアジアに「神」の教えを伝えに来た彼ら自身の高邁な使命感を否定はできまい。

 

江戸初期、ザビエルの意思を受け継いだ2人のイエズス会神父が津軽海峡を越えて初めて北海道に渡っている。一人はイタリア・シシリー島生まれのジェロニモ・デ・アンジェリス。1602(慶長7)年、34歳の時に来日し、10年ほど伏見の教会にいて、江戸や駿府へも足を延ばして多くの武士たちに宣教した。1613(慶長18)年の宣教師追放令でマカオに放逐されるはずだったが、日本に留まる意思固く、経由地の長崎から抜け出して京都に戻り潜伏する。もうひとりはポルトガル・コインブラ生まれのディオゴ・カルワーリュ。1609(慶長14)年、31歳で来日し、天草で多くの日本人に洗礼を行った。1614(慶長19)年の切支丹禁教令が出ると、一度、マカオに脱出したものの、1616(元和2)年に殉教覚悟のうえで再入国を果たす。そして東北での伝道という任務を担った2人は合流し、ついに西洋人として初めて蝦夷に足を踏み入れることになる。

 

キリシタンを庇護した伊達政宗

 

伊達政宗の命を受けてイスパニアに向かった支倉常長だが、

7年後に帰国した時には運命は一変していた

 

戦国末期に急増した日本国内のキリスト教信者は約30万人(当時の宣教師は70万人説を唱えたがその半数程度というのが学界の定説)といわれている。当時の人口を約1500万人と推定するとその比率は2%となり、現在の2倍程度も多かったことになる(近世史研究者の大橋光泰氏資料より)。信者は主に九州一円、さらに京都・大坂などの西国に多かったが、17世紀初頭には東北各地でも増えつつあった。特にイスパニアとの交易に期待をかけていた伊達政宗は、1611(慶長16)年にフランシスコ会士のルイス・ソテロを招いて仙台領内での自由な布教活動を許し、1613(慶長18)年には支倉常長を遣欧使節としてイスパニアに送るなど、徳川幕府の禁教令に抗うような動きを見せていた。また関ケ原の戦いで国替えさせられた秋田の佐竹家や米沢の上杉家なども、伊達の動きを見定めながら、キリシタンの活動は黙認していた。

 

1614(慶長19)年に家康は切支丹禁教令を全国に発し、活動の中心だった京都・大阪周辺にいた外国人宣教師のほか、日本人のキリスト教指導者を捕縛する。その多くは武士で、高山右近や内藤如安ら148人は長崎に集められ、その後、マニラに送られる。一方、宇喜多秀家の重臣・宇喜多休閑ほか71名は津軽の弘前(当時の名は高岡)に流刑となった。

 

なぜ捕縛したキリシタンを津軽藩の監視下に置いたのか。これは家康の養女を正室に迎え、幕府への忠誠明らかな津軽藩二代藩主・信牧(のぶひら)に「北の抑え」、つまり伊達政宗ほか外様大名を背後からけん制させようとする意図があったからだとも言われる。またこの時の禁教令は、同年10月に始まる「大坂冬の陣」とも関係があった。この年の初めに前田利家が亡くなり、孤立感を深める豊臣家は大坂城内に多くの浪人を集め始めたが、その中にはキリシタン部隊を指揮した明石掃部全登(てるずみ/洗礼名「じゅすと」の当て字とも)などキリシタン武将も多かった。またイスパニアの宣教師ポルロやトレス、そしてアンジェリス自身もその陣中にいて大坂方を応援している。家康が発したキリシタン禁教令は、キリシタン武将を集める大坂方に対して、「命令違反」という大義名分で責めるための口実作りという意味もあった。

 

大坂冬の陣が終わると、アンジェリスは伊達政宗の配下で、東北キリシタンの指導者だった後藤寿庵を頼って、彼の治める見分(みわけ。今の水沢)に身を寄せる。見分は東北の交通の要衝であり、また寿庵の影響で全村民が切支丹だったため、布教活動の拠点には最適だった。ここから仙台西部の下嵐江(おろし)を抜け、秋田の院内や阿仁、津軽の尾太など、人目につかない東北に点在する鉱山伝いに行き来する。当時、鉱山は多くの労働力を必要としたために身分改めは厳しくなく、犯罪者がいても刑吏が介入できない“公政不入の地”と呼ばれる治外法権区域だった。そのため、キリシタンが身を隠すには最適の場所でもあった。アンジェリスたちは、時には商人、時には鉱夫に変装しながら各地を回り、信者に会いに行った。

 

しかし、変装したとはいえ、目につきやすい外国人ゆえに、人目を避けて危険な山道を分け行くしかない。「茨のやぶを突っ切ったり、雪におおわれた山の背を滑り下りた。足を踏みしめることもできず、転落して谷間に飲み込まれてしまうかと思った。深く積もった雪が近づきがたく、壁のように立ちふさがった。私は徒歩で旅し、食物も宿るところもなかった」(『北方探検記』H・チースリクより)。そんな難行苦行の果てに津軽に到着し、流刑された信者を訪ねて「大きな慰め」を与えると、流刑者ばかりか西国などから流れ着いた信者も説教を聞きに集まって来たという。そして彼らの支援を背に受け、ついにアンジェリスは蝦夷へ向かう。

 

蝦夷の金山に潜伏した信者を訪ねて

えぞキリシタンの聖地である大千軒岳

 

1618(元和4)年に初めて松前に渡ったアンジェリスは、ここで意外なもてなしを受ける。松前藩の藩主・松前慶広は、「天下がパードレを日本から追放したけれども、松前は日本ではないから安心してここに来るがよい」と言い、検断屋敷(沖の口役所か?)を住まいとするよう促される。ここに10日ほど滞在し、この町の切支丹全員(わずか15人だったが)に会って告解を聞き、志願者に洗礼を施している。

 

彼が残した最初の報告書には、東北各地の情勢とキリシタン信者の詳細に加え、蝦夷に渡ってからの報告が多くを占める。その中で彼は蝦夷行きを計画した3つの理由を次のように述べている。

①    蝦夷の人々(アイヌの存在も知っていた)に救霊ができるか調べる

②    松前に渡った日本人信者(迫害を逃れてきた商人など)に告解を行う

③    蝦夷を探検して、詳しい事情や地理的な情報などを探る

ことであった。

 

当時、松前にアイヌは住んでいなかったが、商いに来るアイヌから、当時の日本人も知らない蝦夷地の事情を聞き取っている。「毎年東部のミナシの国から松前に百艘の船が乾燥した鮭と鰊を積んできます。また多量の貂の皮も持ってきますが、それは猟虎皮(らっこがわ)といい、すこぶる高価に売ります」、「西の天塩国からは中国製のドンキ(蝦夷錦)も入ってきます。それは高麗に近いからですが、蝦夷人は実際には中国も高麗も知りません」など、交易に関する詳細な情報だ。また「蝦夷人は日本の神や仏を嫌っています。松前に渡ろうと思えばいつでも行けるので、蝦夷で布教を行うには好都合です。蝦夷人がキリスト教信者になるのに大きな障害があるとは思われません。なぜなら蝦夷には出家がいないからです」と、蝦夷でも積極的に布教活動をすべきと提言している。

 

後にアンジェリスの報告書で注目されたのが、松前近郊の大千軒岳で見つかった金山に関する情報だ。「蝦夷人は中国人のような利欲を持っていません。その証しに、蝦夷に多数の金山があるのに彼らは採掘もしないので、2年前から松前殿がようやく鉱山を開き始めました。私も金を見ましたが甚だ純良です。極く微量の砂ですが砂金ではなく、小さい粒でも一分はある金の砕片で、ある時には百六十匁もある金塊を見つけました」。

 

金山については、1620(元和6)年に蝦夷に渡ったカルワーリュも詳しく書き残している。彼は関所の取り調べが厳しく津軽へ行けないので、秋田から蝦夷に行く金掘人の名義で乗船し、鉱夫の手形をもらってから津軽へ行く計画を立てる。そして松前に着いた彼はアンジェリスが見た時とは全く違う光景に出くわすことになる。

「4年前ほど前に蝦夷に純良な金を豊産する鉱山が発見され、日本中からおびただしい数の人々が海を渡ってきています。昨年は5万人を超え、本年も3万人以上だろうと言われています。その中には多数のキリスト教信者も交じっています」。この数字は書き写した人の誤写ではないかと疑われているが、だとしても金山を目指してゴールドラッシュが現出していたことは間違いない。

 

松前から行程1日を要する大千軒岳の山麓には、全国から集まる鉱夫を収容するための小屋が軒を連ねた。その中に、南方で伝道士をしていたという2人のキリシタンがいた。彼らはカルワーリュの指示で木の枝で聖堂(後に「マリヤ観音寺」と名付けられたが場所は不明)を建て、信者を集めて礼拝や祈祷をしたという。カルワーリュはここで男女34人に洗礼を授けた。8月15日の聖母被昇天の祝日には、おびただしい信者がミサに集まったという。

 

その後、アンジェリスは1621年、またカルワーリュも1622年に再訪しているので、それぞれ2回づつ蝦夷行きを行っている。この期間、2人は蝦夷や津軽以外にも、秋田や仙台、米沢などの東北各地のほか、越後、佐渡、能登や加賀まで回っており、その精力的な伝道活動には驚くばかりだ。

 

虐殺された「えぞキリシタン」の幻影

江戸の大殉教では50人が火刑に。白馬に乗る原主水の

後ろの馬に乗るのがアンジェリス

 

風向きが変わったのは支倉常長らが帰国した1620(元和6)年だ。幕府のキリスト教禁教政策が厳しさを増してゆく中、伊達政宗は支倉らが成果なく帰国したことを知って、すぐに禁教政策に転じ、領内のキリシタン弾圧を開始する。アンジェリスは東北から江戸に移って潜伏するが、ついに居場所がばれたため自ら奉行所に出頭し、小伝馬町の牢につながれる。そして1623(元和9)年12月4日朝、捕縛された50人の信者とともに札の辻(品川)の刑場まで引き廻され、火刑に処された。(この図は"江戸の大殉教"と呼ばれたこの時の様子を描いたもの。先年この場所を訪ねたところ、高層ビルの建つ敷地内に供養の碑が建っていた)。

 

一方のカルワーリュは見分に向かい、後藤寿庵を南部に逃がした後、信者10数人と下嵐江の銀山に隠れていたが、密告によって潜伏しているところを見つかり仙台に連行され、1624(元和10)年2月(アンジェリスの火刑の翌年)に、極寒の広瀬川で水責めに処され絶命する。

 

その後も大千軒岳の金山には多くのキリシタンが集まっていたが、さすがの松前藩も看過できなくなり、1639(寛永16)年に300人の兵を率いて千軒岳の集会所を襲い、大沢、石崎、金山の3か所で潜伏していたキリシタン106人の首を刎ね、見せしめのために6日間獄門にさらしたという。これは島原の乱が平定された翌年のことだった。

 

近年、松前の研究者・故永田富智氏が、長らく放置されていた金山跡やかつての信仰の場所を丹念に調査したことで、「えぞキリシタン」の軌跡が明らかになった。毎年夏には殉教者を偲んで山中でミサが行われるが、昨年はコロナ禍で中止となったので単独行で現地を目指したものの、途中で熊に遭遇したので、ビビッて下りてきてしまった(笑)。

 

後日談では、金山は閉鎖され、残った鉱夫も東北など本州の鉱山に戻ったが、一部の鉱夫、なかでもキリシタンは道内各地に逃げ延びたとも言われている。のちに当時の看守だった人間がキリシタンであることがわかり処刑されているので、事前に襲撃を知らされ、奥地へと逃げ延びたキリシタンがいてもおかしくはない。瀬棚や静内などにはキリシタンが潜伏していたというウワサがあり、北海道にも潜伏キリシタンがいた可能性は否定できない。