北海道は「神の国」足り得たのか② 文明開化はキリストとともに | 蝦夷之風/EZO no KAZE

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武蔵の国から移り住んで以来、日増しに高まる「北海道」への思いを、かつて「蝦夷」といわれたこの地の道筋をたどりながら、つれづれに書き留めてみます。

かつて日本を追い出されたカトリックが、再び日本に再上陸を果たした

最初の教会である箱館の「カトリック元町教会」

 

第二の出遭いの前に、第一の出遭いがあった。だが、二度目の出遭いを迎えたとき、最初の出遭いの記憶はすでに遠い忘却の彼方へ消え去っていた。出遭いとは、日本と西洋の遭遇のことである。(中略)最初の出遭いのとき、両者の関係は対等であった。いや対等というより、遠く母国から数千里を距てて、当時武力充実していたこの国を訪れた彼らは、とくに秀吉・家康の統一政権成立ののちは、政権の意向に阿諛迎合を強いられさえした。だが二世紀半ののち再び出現した彼らは威丈高だった。彼らは幕閣の要人を、まるで丁稚小僧に対するように怒鳴り散らしたのである」

『バテレンの世紀』(渡辺京二)より

 

ペリー来航の翌1854(嘉永7)年に日米和親条約が結ばれ、下田と箱館の開港が決まる。下田に着任したタウンゼント・ハリスは、1858(安政5)年6月に日米修好通商条約を調印。7月にはオランダ、ロシア、英国、9月にはフランスと、続けざまに欧州諸国と修好通商条約(通称「安政の五か国条約」)が結ばれ、1859年には神奈川(横浜)、長崎、箱館の3港(後に神戸、新潟も加わる)が国際貿易港として開港される。西洋との「第二の遭遇」は、こうして一方的な条約のごり押しから始まった。

 

通商条約には居留地での信教の自由が明記され、礼拝堂を建ててキリスト教の行事を行うことが認められた。ローマ法王庁は1831年に極東の宣教をパリ外国宣教会に委託し、マカオに拠点を置いて朝鮮での布教に乗り出していたが、「第一の遭遇」で多くの殉教者を出し、日本から追い出された過去の遺恨を晴らすべく、開国と同時に満を持して日本での布教再開に乗り出していく。その最初の舞台となったのが開港したばかりの3つの港町だった。

 

日本での伝道を担ったのは、日本教区長のジラール、そして3人の宣教師だ。そのひとり、メルメ・デ・カションは箱館での伝道の責任者となり、1859(安政6)年にいち早く「カトリック元町教会」(1877年に現在地に移転)を建てる。ジラールは神奈川に「横浜天主堂」(現在のカトリック山手教会。1862年献堂)、もうひとりの宣教師プティジャンは長崎に「大浦天主堂」(1865年献堂)を建て、この3か所がカトリック再上陸時の活動拠点となる。

 

徳川幕府はしぶしぶ外国人の間での信仰活動は認めたものの、日本人に対しては”神君”家康以来の切支丹御禁制を頑なに守り、また依然として攘夷を叫ぶ武士の中には異教の存在を快く思わないものが多かった。横浜では神奈川奉行の阿部正外が横浜天主堂を見物に来た商人や農民55人を逮捕する「横浜天主堂事件」が起き、フランスとの間で国際問題に発展した。また長崎の大浦天主堂には潜伏キリシタンが現れ、「信者発見」という感動的なドラマが展開されたが、信者として名乗り出た浦上の全村民3000人が「浦上四番崩れ」と呼ばれる一斉検挙に合い、うち100人余りが西国諸藩に送られてむごい拷問を課せられた。

 

明治新政府も徳川幕府の政策を引き継ぎ、キリシタン弾圧を続けていたが、このころ欧米視察に行っていた岩倉使節団は行く先々でこの暴虐に対する非難と抗議の嵐に曝され、このままでは「不平等条約」の改正など覚束ないことを悟り、日本で留守を守る伊藤博文に「浦上のキリシタンを釈放しないと欧米各国と交渉はできない」と伝えてきた。新政府内には西郷隆盛や黒田清隆など「キリシタンは容認すべからず」と絶対反対を唱える一派がいたものの、伊藤は1873(明治6)年2月、ついに切支丹御禁制の高札を撤去する太政官布告を出さざるを得なかった。

 

切支丹御禁制の高札。

「切支丹邪宗門の儀はこれまでの通り堅く御禁制なり、もし不審なるもの有れば

その筋の役所へ申し出れば、ごほうび下さるべき事」

 

一方、江戸中期から千島列島沿いにアイヌへの宣教を行っていたロシアのハリストス正教会は、カトリックに遅れじと1860(安政7)年にロシア領事館の付属聖堂として「箱館ハリストス正教会」を建てる。初代領事・ゴシケビッチとともに赴任したマアホフ司祭は1年ちょっとで帰国するが、代わったニコライは日本での布教に備えて日本研究に没頭していた。その噂を聞いた攘夷派の武士の中には、彼をロシアのスパイと疑い、命を狙わんとするものもいた。その一人が土佐出身の沢辺琢磨だ。彼は大刀を差して怒鳴りこみ、ニコライの真意を探ろうと迫ったが、逆に平然と構えるニコライに引き込まれ、ついには彼に師事することになる。高札撤去前の出来事なのでもちろん処罰覚悟の行動だが、沢辺はその後、ニコライの右腕として、東北や東京での伝道活動を支え、正教会の教勢拡大に大きな功績を遺す。明治初期のキリスト教は当時のインテリ層であるこうした旧武士階級によって担われていく。

 

米国がリードした北海道でのキリスト教伝道

札幌農学校出身者によって「札幌バンド」が組織され、札幌独立教会が創立。

現在の「日本基督教団札幌教会」はその系譜

 

切支丹御禁制の高札が撤去されてから、いよいよキリスト教の布教に拍車がかかる。その推進役となったのは米国系のプロテスタント宣教師だ。明治初期に日本で働いていた外国人宣教師は104人おり、うち87人がプロテスタント(カトリックは15人、ハリストス正教会は2人)で、さらにプロテスタント87人のうち75人が米国の宣教師であり、また彼らの所属した10派の教団のうち7派が米国系教団だった。この米国主導の伝道は、以後、日本でのキリスト教受容を特徴付けていくことになる。

 

北海道でプロテスタントの伝道を始めたのは、1874(明治7)年にやって来た米国メソジスト教会のM・C・ハリスと英国聖公会のW・デニングだ。そして1876(明治9)年に札幌農学校設立とともにやって来たW・S・クラークを加えた3人が北海道でのキリスト教伝道の先駆者となった。

 

ハリスは日本基督教団箱館教会の創立者で、箱館での伝道の開拓者であるとともに米国領事も兼ねていた。フローラ夫人とともに日本文化に対する関心が深く、「アメリカ生まれの日本人」と例えられるほど日本人に愛された。またデニングは北海道初の日本人司祭となる小川淳などを育てる一方、アイヌと出会って彼らの教化を進め、後進のバチェラーに影響を与えた。しかし、学究肌の聖職者であったことから独自の神学思想を唱え、そのために聖公会を辞し、最後は哲学教師として仙台で亡くなっている。

 

札幌農学校に教頭として赴任したクラークは、学生に聖書を配り、キリスト教教育に力を注ぐ。特に第一期生の佐藤昌介(後の北海道帝国大学初代総長)や大島正健など15人に「イエスを信じる者の誓約」に署名させ、キリスト者としての覚悟を迫った。また第二期生の内村鑑三や新渡戸稲造なども加えた学生たちへの洗礼をハリスに依頼した。この時受洗した学生たちは「札幌バンド」と呼ばれ、「札幌独立教会」創立に尽力する。バンドとは熱心な伝道を志す青年グループを指し、「横浜バンド」、「熊本バンド」とともに、札幌バンドは日本プロテスタントの三大源流とされ、多くの指導者がここから生まれている。その後、弘前や静岡でもバンドが形成された。

 

そもそも札幌農学校は、開拓使次官の黒田清隆が米国の農務局長だったケプロンを顧問として招き、彼の建策で創立された学校だ。すべては米国をモデルとし、実質的な教育方針は米国マサチューセッツ出身のクラークに委ねられた。マサチューセッツは「ピルグリム・ファザーズ」によって開拓された地であり、クラークの先祖はメイ・フラワー号の舵手だった。つまりクラークは米国の礎を作った「良きピューリタン」の精神を受け継いだ人物であり、北海道は「米国人が開拓した新天地」を再現するよう運命づけられていたといっても過言ではないだろう。

 

アイヌへの伝道に人生を賭けたバチェラー

バチェラーが寝起きをともにしてアイヌ語を

学んだ平取の酋長・ペンリウク(左)と

 

北海道開拓の精神的バックボーンとして米国型プロテスタンティズムが「官」主導で採用されたのに対し、民衆に寄り添う形の信仰活動を展開したのが英国聖公会であった。デニングの跡を継いだJ・バチェラーはその典型といえる。

 

そもそも明治になって「蝦夷」が「北海道」に切り替わったことには3つの意味があった。

①    明治政府にとっては「植民地」であり、

②    移住者にとっては「新天地」であり

③    元々居たアイヌにとっては「奪われた地」だった

そしてこの3つの意味を最も良く理解していた人物こそ、バチェラーではなかったか。

 

バチェラーがアイヌへの教化に力を注ぎ、「アイヌの父」と崇められたことはよく知られている。これは前任のデニング以来の聖公会の伝道の特徴でもある。宗教史家の福島恒雄はこう解説する。

「北海道のキリスト教史は聖公会を抜きにしては考えられない。それほど精力的に、また特徴的な伝道をしている。かつては講義所も含めて110有余を数え、その地域も全道に渡っている。時に先住民族であるアイヌのために教育、医療、社会福祉の領域までこれほど真正面に取り組んだ教派は他に例をみない。この働きは一つの光を放つものである」(『北海道キリスト教史』より)

 

バチェラーは「日本人に伝道するなら日本人によってなされるべき。またアイヌへの伝道もアイヌの伝道者によってなされるべき」と主張し続けた。そのため、日本人伝道者の育成を進めたのはもちろん、アイヌの伝道者を育成するためにアイヌ語を学び、アイヌ語で聖書を翻訳し、アイヌのための学校を創った。そして金成太郎や金成マツ、そして養女として彼を支えたバチェラー八重子などのアイヌ人伝道者を育てた。また彼のアイヌ語研究の成果は「蝦・和・英三対辞書」という辞書の編纂にまで結実する。後にアイヌ文化研究者の知里真志保にそのアイヌ語研究は痛烈に批判されるが、それでも日本人の誰も取り組まなかった事業を成し遂げた功績は評価されていい。

 

バチェラー以後、アイヌは日本人への同化政策の下で次第に自主性を喪失していくが、彼が和人からアイヌを守る「北海道旧土人保護法」の制定に関わるなど、終生、アイヌの立場に立って活動していたことは記憶されるべきだろう。

 

バチェラー研究者の仁多見巌は、「バチラーはアイヌを単なる研究の対象とする学者でなかった。またアイヌにキリストの教えを説くだけの宣教師でもなかった。彼はアイヌたちとともに笑い、喜び、悩み、苦しみ、解決できるものは独力ででも行動を起こし、ことに当たった実践家であった。英国人気質のバチラーはその人柄と実践力で多くのアイヌたちの信頼を得て、アイヌ伝道にも驚異的な成果を上げたのである」(J・バチラー伝『異教の使徒』より)。