世界を変えた砂糖の歴史③ 砂糖という甘い夢を追いかけた日本人 | 蝦夷之風/EZO no KAZE

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武蔵の国から移り住んで以来、日増しに高まる「北海道」への思いを、かつて「蝦夷」といわれたこの地の道筋をたどりながら、つれづれに書き留めてみます。

長崎街道=シュガーロードは美味しいお菓子の宝庫です

(北九州市観光情報サイトより)

 

日本の砂糖文化は長崎から始まった

 

昨年6月、長崎・佐賀・福岡の3県が進める共同プロジェクト「砂糖文化を広めた長崎街道/シュガーロード」が文化庁認定の「日本遺産」に選ばれました。長崎街道とは、長崎と福岡・小倉を結ぶ全長228kmの山越えルートで、室町末期から江戸期を通じ海外交易の窓口だった長崎から西洋や中国の主要産品を運んだ幹線道路です。当時、輸入品だった砂糖もこの街道を通って大阪や江戸に運ばれ、また街道筋にはその砂糖を使った南蛮菓子などが独自な進化を遂げ、カステラやぼうろ、鶏卵素麺などのご当地銘菓として残っていることも今回の「シュガーロード」認定の理由となりました。ちなみに、日本を代表する大手菓子メーカーの森永製菓と江崎グリコの創業者がこの沿道(ともに佐賀県出身)で生まれており、この街道が「日本の菓子文化発祥の地」だといっても過言ではないでしょう。

 

そもそも日本に砂糖が入って来たのは8世紀の鑑真和尚の来日が最初と言われ、その積み荷の中に「のどの薬」として甘蔗の名が記されていました。本格的に砂糖が輸入されるのはポルトガルがやって来た15世紀以降で、当初は積み荷を安定させるためのバラスト(おもり)として運んできた砂糖が交易対象になることが分かり、ジャワやインドで砂糖の製造が始まると、中国や東南アジアから来航する唐船とオランダ船によって大量に輸入されていきます。

 

ちなみに17世紀ころの長崎での砂糖の取引価格は1kg=1600円前後(現在の砂糖価格は1kg=200~300円)でしたが、「元禄10年(1697)に幕府直営の長崎会所が設立されると、輸入商品に関税が課せられるようになり、砂糖にはおよそ200%の課税、商人への落札価格は元値の300%、大阪での小売り価格は500%になり、小売価格は1kg=5000円を超えることもあった」(八百啓介著『砂糖の通った道』より)高価な商品でした。

 

奄美大島の砂糖が明治維新の原動力

奄美大島に流された西郷は、大久保利通あてに、

「奄美の砂糖で軍艦を買え」と進言した

 

日本でサトウキビ栽培が始まったのは江戸期の奄美大島です。慶長15年(1610)に直川智(すなお・かわち)が中国からサトウキビの苗を持ち帰り、奄美大島大和浜で栽培し、約百斤の黒糖を得たのが端緒といわれています。また1623年には琉球王国の儀間真常(ぎま・しんじょう)が中国福建省に人を遣わし、黒砂糖の製法を学ばせたとの記録があります。ただし、「砂糖あるところに奴隷あり」という法則は、ここでも生きていました。

 

慶長14年(1609)、薩摩藩は幕府から「琉球出兵」の許しを得ると、琉球の支配下にあった奄美諸島を制圧。さらに琉球王朝の尚寧王を屈服させ、事実上の支配権を握ったうえ、奄美割譲を認めさせて直轄地とします。薩摩藩は奄美大島に代官を置き、地元有力者による間接統治を行いますが、問題は島民にサトウキビ栽培を強制し、それ以外の作付けを禁止したことです。島民は作った砂糖を年貢として薩摩藩へ一括納入(密輸をしないよう、大船の建造も禁止)したうえ、砂糖以外は作っていないため、自分たちの食料(米や野菜)や生活用品、家財道具まで、残った砂糖を貨幣代わりにその購入(その相手も薩摩藩)に充てざるを得ませんでした。つまり、手元に残った砂糖もほとんどが薩摩藩に吸い上げられる仕組みになっていたのです。

 

奄美大島の名族・田畑家の係累でもある大江修造氏は、著書『明治維新のカギは奄美の砂糖にあり』(アスキー新書)のなかで、「薩摩藩は奄美の砂糖で得た莫大な収益で軍備強化のため軍艦などを購入したが、その時期(幕末期の約20年間)は”黒糖地獄”と呼ばれる、奄美で砂糖製造による収奪がもっとも激しかった時期と重なっている」ことを明らかにしました。大江の引用した資料では、奄美での砂糖製造量は、嘉永4年(1851)に年間約500万斤に達し、そのわずか10年後の文久3年(1863)には1000万斤、明治2年(1867)には1100万斤と急増しており、この事実が”黒糖地獄”の存在を裏付けています。

 

奄美の黒砂糖の販売価格は当初は1斤あたり約2匁(1匁は1両の60分の1)で、幕末期は1両=5万円と推定されるので、現在の価格で1斤およそ1670円前後と思われます。薩摩藩は天保2年(1831)以後は大阪の砂糖問屋を通さず、自分の蔵屋敷で独占的な販売を始めたため、文久3年ころの奄美の砂糖価格は1斤あたり17.5匁(推定14,580円)に急騰しており、砂糖による収益はおよそ1458億円程度と推定され、大江の見立てでも、少なく見積もって年間2000億円以上の収益があっただろうとしています。司馬遼太郎も「薩摩藩の財政の半分は奄美の砂糖によっている」と書いており、その収益が莫大な金額だったのは間違いないようです。

 

薩英戦争後、薩摩藩が海軍力の強化に邁進し、倒幕に成功できたのは、まさに奄美の人々の血と汗と涙の結晶である砂糖のおかげであり、これは英国がカリブ海の奴隷たちのおかげで産業革命を達成できたことと同じ構図であることが分かります。

 

てんさい糖は”人道的”な砂糖として普及

てんさい糖の普及はナポレオンのおかげ

 

19世紀になるとサトウキビはカリブ海やブラジルに留まらず、アフリカのモーリシャスや南太平洋のフィジー、さらにはジャワやフィリピン、ハワイなどへと生産地が広がっていきます。すでに奴隷制は廃止されていたため、英領植民地へは多くのインド人が送り込まれました。ただし、砂糖の供給量が大幅に拡大したことで砂糖価格も下がり、ラテンアメリカで砂糖プランテーションを展開していた生産者への本国政府による優遇措置は見直され、砂糖の生産は自由化されて行きます。この流れに輪をかけたのが、もうひとつの砂糖である「てんさい糖」です。開発したのは”砂糖植民地”を持たないドイツ(当時はプロイセン)でした。

 

1747年にドイツの化学者アンドレアス・マルクグラーフが家畜の飼料だった砂糖ダイコン(ビート)から砂糖の分離に成功。その弟子のフランツ・アシャールが1802年に製糖工場の建設にこぎつけ、生産を開始します。普及に拍車をかけたのはナポレオンです。産業革命後の英国に「大陸封鎖(1806~1813年)」で対抗したフランスは、そのために砂糖の供給が止まってしまい、ビートの生産増強に方向転換します。

 

さらに「てんさい糖は甘蔗糖(サトウキビ)のように奴隷労働と結びつくマイナスイメージがない”人道的”な砂糖であるとされ、技術革新によって生産コストが下がったことで次第に普及」(南直人『歴史における”甘み”の役割』より)し、欧州各地や米国でビートの栽培が広がり、1840年ころの世界シェアはわずか5%だったものの、1880年代にはサトウキビを上回るほどに。とはいえ、もともとサトウキビに比べてコスト高のうえ、サトウキビの生産地が世界中に広がって価格が下がったためふたたびシェアは逆転。現在のてんさい糖の世界生産量シェアは35%(主な生産国は欧州とロシア)に落ち着いています。

 

ビートが日本で栽培されたのは明治3年(1870)の東京で、翌10年に北海道開拓使の札幌官園で試作栽培が行われますが、これは失敗に終わります。翌11年には札幌農学校に試作を依頼し、20トンの生産に成功。同じ年、松方正義がフランスから技術者を招き、製糖機械を購入して今の伊達市に官営工場を建設します。しかし、その後工場は道庁、さらに民間(伊達邦成ら)に移管されますが、明治29年(1896)には民営事業も解散。また明治23年(1890)にドイツ人技師を招いて札幌に建設した官営工場もやはり明治34年(1901)に解散しています。

 

再び事業化に着手したのは、第一次世界大戦でビートの主産地である欧州が戦乱によって砂糖不足になったためで、大正8年(1919)に帯広に北海道製糖(現・日本甜菜製糖)が設立され、大正9年から10年(1920~21)にかけ、帯広と清水に製糖工場が建設され、ビートの栽培も始まります。しかし、それでも事業収支はなかなか黒字化せず、ようやく事業化の目途が立ったのは、第二次世界大戦後の昭和20年代後半に起こった「三白景気」(製紙、セメント、砂糖)を待たなければなりませんでした。

 

台湾を砂糖王国にしたのは新渡戸稲造

台湾総督府の後藤新平は同じ岩手出身のよしみで

新渡戸に開発の後押しを依頼した

 

この間、日本の砂糖需要を賄ったのが占領地だった台湾です。日清戦争(1897)の勝利で台湾を得た日本は、台湾総督府を置いて製糖業を中心とした開発を始めます。そして、その開発を主導した中心的人物こそ、あの新渡戸稲造でした。古川勝三氏の歴史コラム「台湾を変えた日本人シリーズ/砂糖王国を築いた新渡戸稲造」(https://www.nippon.com/ja/column/g00624/?pnum=1)によると、台湾総督府の民政長官だった後藤新平の依頼を受けた新渡戸は、世界各地の生産地の実地調査を基に、オランダ統治時代から続く台湾の製糖業の問題点を解明し、台湾の風土に向くサトウキビの品種改良と1年を通して収穫できるための栽培方法を確立し、年間稼働して増産できる体制を作り上げます。新渡戸自身は1903年に帰国しますが、1902年に5万5000トンだった生産量は1925年には約8倍の48万トン、1936年の最盛期には年産100万トンに達します。日本の敗戦後、台湾に残った4社の製糖会社は接収され、1946年に合併して「台湾糖業公司」という大企業となりますが、台湾製糖業に貢献した新渡戸の功績は今も語り継がれているそうです。

 

そしてもうひとり、日本の砂糖事業を語る上で忘れられない人物が、南洋諸島を舞台に「砂糖王(シュガーキング)」として知られた松江春次です。会津出身の松江は米国で製糖業を学び、明治40年(1907)に大日本製糖の大阪工場長となり、日本で初めて角砂糖を製造します。その後、台湾の新高製糖などを経て、大正10年(1921)にサイパン島やテニアン島を拠点とする「南洋興発」という製糖会社を立ち上げ、わずか3年で軌道に乗せ、テニアンに製糖工場を作ります。その後は製糖以外にも事業を拡張するのですが、南洋で花開いた一代の成功物語は人々を魅了するに余りあります。

 

今や私たちの生活に欠かせないものとなった「砂糖」には、こんなロマンに満ちた歴史も秘められていました。