蒸気船の時代でも英国は帆船に美を求めた | 蝦夷之風/EZO no KAZE

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武蔵の国から移り住んで以来、日増しに高まる「北海道」への思いを、かつて「蝦夷」といわれたこの地の道筋をたどりながら、つれづれに書き留めてみます。

黒船来航はまさにモンスターの出現だった

 

アヘン戦争での活躍が蒸気船を主役に

 

「泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん) たった四はいで夜も寝られず」

 

一時、明治期の作ではないかと疑われ、教科書から記述が消えていた「黒船来航」時の狂歌(後に新資料が見つかり、当時のものと判明)のせいで、ペリーが率いてきた「黒船」は4隻とも蒸気船と思っていましたが、実はペリーが乗っていた旗艦「サスケハナ」と「ミシシッピー」の2隻が外輪駆動の蒸気船で、あとの「サラトガ」と「プリマス」は大きな帆で走るスループ船という帆船でした。ペリーは「日本人は蒸気船の存在は知っているが、実際に見たことはないので、本物を見せて驚かせたい」と、さらに4隻の蒸気船を要求していましたが、政府からは金がかかりすぎると拒否されます。とはいえ、ペリーの思惑通り、初めて見た蒸気船の迫力に日本中は大騒ぎとなります。

 

蒸気船の発明には諸説あるようですが、1807年にロバート・フルトンが木造外輪船クラーモント号をハドソン川で定期船として就航したことが商業的利用の端緒と言われています。英国に先んじて米国で蒸気船が走ったのは、道路・運河などの陸上交通が立ち遅れていたため汽船の導入に積極的だったからで、1820年代初頭には国内で300隻を数えていました。一方、英国では海洋帝国の象徴でもある帆船へのこだわりが強く、特に外洋航路への蒸気船の導入はなかなか進まなかったようです。

 

『アジアの海の大英帝国』(横井勝彦著)によると、「船の進路を決めるコンパスが鉄でかく乱される」「船底にフジツボなどが付きやすく、速度が落ちる」「戦時で損傷した時にすぐに修理できない」など、反対の理由はさまざまでしたが、海軍にとっての問題は、①動力源である外輪が波浪などにより壊れやすく、また戦時には攻撃目標とされ、破損すると動けなくなる、②外輪が邪魔をして砲門を設置できず、その分、攻撃力が弱くなる、ことにあったようです。

 

しかし、その後に起こった2つの「事件」と技術革新が、帆船から蒸気船への切り替えを進めるきっかけとなります。ひとつ目の「事件」は1840~42年の「アヘン戦争」です。英国海軍は中国沿岸部から主要都市の内陸河川へと侵攻し、海戦で圧倒的な勝利を収めましたが、もっとも戦果を上げたのは70門という巨砲が自慢の大型帆船ではなく、搭載10門に満たない16隻の汽走砲艦と呼ばれた小型の蒸気船でした。

 

河川の内奥を進むほど水深が浅くなるため、吃水の深い大型帆船では動きが取れなくなり、代わって浅瀬でも自由に動ける汽走砲艦が艦隊を先導し、機動力に優れた攻撃を展開しました。実は本国政府や海軍首脳部はこの汽船の導入には関知しておらず、植民地だったインド総督(アジア方面の司令部)以下が、中国方面の経営を担った東インド会社の所属と言う形で独自に小型汽船を手配し、秘かに準備していたのです。蒸気船に理解のない本国上層部に業を煮やしていた現地の判断により作戦は見事に成功。本国政府もこの結果を認めざるをえず、これを機に外洋航路での蒸気船の導入が進むことになります。

 

そもそも蒸気船は建造費や運航費が高く、特に石炭を大量に積むために積載力が劣るうえ、頻繁な石炭の補給が必要でした。そのため、燃料の石炭は本国から各地の補給基地に大量輸送して備えました。さらに、欠点だったいくつかの課題には、造船技術の3大改革で応えました。解決に取り組んだのは、いままでの木造船建造とは無縁な技術者たちです。

 

改革の第1は、鉄で建造した船体の軽量化に成功したことで、船底用の防汚塗料が開発されたこともあり、速力の上昇が可能となり、木造船より積載能力は6分の1高くなりました。2つ目はスクリュー・プロペラの開発で、船尾に動力を設置できたことで外輪が不要になりました。周到なことに、1845年に英国海軍はスクリュー船と外輪船の実力テストをし、互いに綱引きしてスクリュー船が圧倒したことで、政府の説得まで試みています。3番目が高圧機関の開発で、高圧に耐え、真水が使える円形ボイラーを装備したことで、蒸気圧を高め、燃費の向上に成功しました。こうして1866年にはこれら3つの改革の成果となる新世代蒸気船が登場します。

 

スエズ運河が「カテイサーク」を悲劇の帆船に

 

スコッチ「カテイサーク」を飲みながら、海の話をするとかっこいいかも

 

海軍での蒸気船の普及は進みましたが、輸送船では依然、帆船優位が続いていました。中でも、中国茶の貿易が自由化されると、高値で取引される一番茶をいち早く輸送するための快速帆船・クリッパー船が開発され、ロンドンまでの速さを競う「テイーレース」には多額の賞金と名誉が与えられました。これが海洋レースの原型と思われます。

 

1866年5月には、英国の3本マストのクリッパー船「テイーピング号」が、中国・福州からロンドンまで、喜望峰回りでノンストップでひた走り、99日間で一番茶を届けて優勝しています。ところが同じ年、スクリューを付けた蒸気船が、途中、各地に寄港しながらの航海でありながら、同じルートを80日足らずで航行に成功しました。とはいえ、「鉄はお茶を劣化させる」と信じられていたこともあり、帆船の牙城はまだ簡単には崩れそうになかったはずでした。

 

世代交代の決定打となったのが、もう一つの「事件」であるスエズ運河の開通です。フランス人レセップスにより、1869年に開通したスエズ運河は、欧州と中国との距離を6000km近く短縮します。問題なのは、この運河に続く紅海では突風や長い凪、突然の嵐などの自然の障害があり、帆船には危険が多いため、通過できるのは蒸気船のみとされたからです。となれば勝負は明らかでした。

 

テイーレースでの勝利を目的に建造された大型クリッパー船「カテイサーク」が進水したのは1869年11月22日。なんとその前週の11月17日にスエズ運河が開通しています。まさにカテイサークは帆船時代の終焉を告げる最後のクリッパー船となり、以後、「悲劇の帆船」と呼ばれるようになるのです。

 

カテイサークはその後、何度かテイーレースに出場はしたものの優勝はなく、当初の役割を終えて中国から豪州に行き先を変えて羊毛輸送に従事。さらに船主が次々に変わり、船名まで変わった末に、1922年に英国人に買い戻され、1954年にはテムズ川沿いに永久展示されました。今はスコッチウイスキーのブランドに名を残しているこの最後の帆船の悲運に思いを寄せ、英国のバーに行かれた時には、ぜひ悲劇の酒「カテイサーク」を頼んでみてください。日本にも「戦艦大和」があったと言えば、共感してくれるはずです。

 

ついでに、黒船に驚いた江戸幕府が最初に購入した蒸気船は、1855年にオランダから寄贈された外輪式の「スンビン」改め「観光丸」で、1857年にはスクリュー式の「咸臨丸」(オランダ製)を購入しています。また薩摩藩が1855年に建造した「雲行丸」が国産初の蒸気船となります。その後、幕末期間に幕府ほか19藩が取得した蒸気船は80隻以上に上り、黒船ショックの大きさを思い知らされます。幕府がオランダで建造した最新鋭艦「開陽丸」は1867年に日本に届き、榎本武揚が率いて函館戦争に参加しますが、たった1年で沈没。1990年に引き揚げられ、今も江差町に復元展示されているので、江差観光するなら必見です。