植民開拓と先住民① 英国はいかにして北米インディアンから土地を奪ったのか | 蝦夷之風/EZO no KAZE

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武蔵の国から移り住んで以来、日増しに高まる「北海道」への思いを、かつて「蝦夷」といわれたこの地の道筋をたどりながら、つれづれに書き留めてみます。

時のジェームズ1世に謁見し、「インディアン・プリンセス」

と呼ばれた盛装したポカホンタス

 

和人による蝦夷島(=北海道)への植民が始まるのとほぼ時を同じくして、欧州人による北米大陸への植民が始まります。気候のよく似た北米での植民開拓の経緯を知ることは、「北海道」を世界史視点から見直すうえで参考になります。特に主導権を握った英国人(のちに米国人)と先住民である北米インディアン(この呼称については脚注を参照)との関わりを通して、日本人とアイヌとの対比を考えてみたいと思います。

(1707年のスコットランドとの合邦により”グレートブリテン王国”となる以前は「イングランド」、それ以後は「英国」と表記します)

 

「ポカホンタス」のロマンスの裏側にあるもの

 

ディズニーのアニメ映画『ポカホンタス』は、アメリカ・インディアンの女性を主役に描いた物語で、ご覧になった方も多いでしょう。舞台となったのは、イングランドから大西洋を横断して北米大陸沿岸に初めて植民を行った現在のヴァージニア州チェサピーク湾です。あの「ピルグリム・ファザーズ」より13年も早い1607年5月のことでした。

 

突然の侵入者である英国植民団と先住民との間で小競り合いが起きますが、植民者たちを苦しめたのは寒さと食糧難で、翌年1月に本国から補給船が着いたころには飢餓と病気のために入植者105人のうち67人がなくなり、第2陣約120人も同じく寒さと飢餓に襲われます。そこで救いの手を差し伸べたのがパウハタンと呼ばれる部族連合体を率いる族長ワハンソナコクで、その娘こそポカホンタスでした。

 

当時、インディアンたちの狩猟場だったこの一帯には2万4000人が暮らしていて、ワハンソナコクは100人程度の白人を殲滅するより、金属製品や武器などの交易の利を考え、同盟者として扱おうと思ったようです。まさか、その後、何万人もの植民者がやってきて、自分たちの土地を奪い、追いやられるとも知らずに・・・。

 

その後、ポカホンタスは植民団のリーダーのひとりであるジョン・ロルフと結婚し、植民者とインディアンの間に一時的な平和が訪れます。しかし、1616年にポカホンタスはイングランドに渡り、翌年、帰る船の中で病気のため亡くなり、またその翌年にはワハンソナコクが死ぬと、両者の関係は一気に悪化していきます。

 

ポカホンタスの夫ジョンが植民先のヴァージニアでタバコ栽培に成功したことで、イングランド人はタバコの作付けを拡大するため次々に用地を広げ、隣接するメリーランドにもタバコのプランテーションを開拓していきます。本国へのタバコ輸出額は1624年に20万ポンド、1638年には300万ポンド、1660年代末には年に1000万ポンドと急増。その代わり、土地を奪われたインディアンたちとの衝突が繰り返され、入植者による虐殺とインディアンの報復は20年以上も続きます。

 

イングランド人が姑息だったのは、「インディアンの主要作物だったトウモロコシの収穫直前まで待ってから攻撃し、先住民の集落と作物を破壊して、生き残った者が冬から春と飢えるに任せる」という作戦を行い、「1632年には大規模な土地の割譲を含む厳しい和平を受け入れざるを得なくさせた」(『興亡のアメリカ史』アラン・テイラー著)といい、このやり方はその後の英国の植民地戦争に受け継がれていきます。

 

こうした陰険な戦争の結果だけでなく、欧州から持ち込まれた病気に免疫のなかったインディアンたちは、天然痘や腺ペスト、結核、マラリア、黄熱病、流行感染症のほか、風疹や耳下腺炎、百日咳などでも命を落としました。そのため、当初2万4000人いたこの地区のインディアンの人口は、1669年には2000人まで減少したそうです。ちなみに、17世紀後半までのおよそ100年の間に、中南米の先住民の80%がこうした伝染病で亡くなったと言われています。

 

そしてインディアンとイングランド人植民団との争いは、北部のニューイングランドにも波及し、1636年には毛皮交易をめぐってピーコート族との大規模な戦闘が起き、大敗したピーコートは奴隷として西インド諸島の砂糖畑に送られました。その後も1675年のワンパノアグ率いる部族連合の叛乱や1676年のインディアン討伐作戦など、各地で戦いは激化し、イングランド人はインディアンを駆逐し、入植地を次々に拡大。植民したイングランド人は1650年には1万3000人、1670年には約5万人と急増し、先住民を圧倒していきます。

(ちなみに、アイヌ最大の戦いとなる「シャクシャインの乱」が起きたのは、まさにこれらと同時期の1669年です)

 

ポカホンタスのラブストーリーの裏面には、こうした悲惨な歴史が覆い隠されているということを私たちは知る必要があります。米国の1ドル硬貨に刻まれたインディアンの少女「サカジャウィア」も同様です。米国人として初めて北米太平洋岸へ探検した「ルイスとクラーク探検隊」の通訳兼ガイドとして彼らの成功の立役者となり、「米国史上で最も偉大な先住民族の女性」と称えられていますが、これも先住民族であるアメリカ・インディアンを抑圧したことに対する免罪符という側面があることは否めません。1960年代の復権運動の中で、これらの「美談」は捏造されたものと痛烈な批判の対象となります。

 

先住民と共闘したフランスに勝った英国だが・・・

フレンチ・インディアン戦争は、『ラスト・オブ・モヒカン』など

の映画の舞台にもなっています

 

「イングランド人が中部大西洋沿岸に進出できたのは、この一帯が温帯地域のため、スペインが必要とした熱帯性の作物には涼しすぎ、フランスが求めた最高級の毛皮採取には暖かすぎるため、この長い海岸線を避けたことで空白地帯になっていたからだ」と前述のアラン・テイラーは指摘します。

 

コロンブスの西インド諸島「発見」以後、スペインは中南米大陸に進出し、先住民から金や銀の簒奪を繰り返していました。鉱石豊かなメキシコやペルーでは、1500年から1650年の150年間で、金181トン、銀1万6000トンがスペイン本国に持ち去られたと言います。さらなる鉱山を見つけようと、今のアメリカとの国境線となるリオグランデ川周辺とフロリダで植民を開始しますが、肝心の鉱山が見つからないうえ、キリスト教への改宗を「武器」に先住民の取り込みを図るものの、各地で叛乱に手を焼き、北米での植民経営は割の合わないものになっていきます。

 

一方、フランスは16世紀に今のカナダとの国境線となるセントローレンス川河口から進出し、ビーバー、キツネ、ラッコ、オオヤマネコなどの大西洋を渡る輸送に引き合う高級毛皮の交易に力を入れます。そしてケベック近辺に住むアルゴンキン族や五大湖地帯に住むヒューロン族などと同盟を結ぶことで毛皮交易の独占をめざしました。とはいえ、フランスが提示した交易商品はインディアン側には魅力が乏しかったため、その後、部族間との戦いのために銃火器や弾薬を要求したことで、インディアン世界の抗争は劇的に変わっていきます。そしてそれが欧米の植民者自身にも向けられることにもなります。

 

1610年代にはハドソン川にオランダが進出し、隣接する2つの河川周辺で2大国が先住民を巻き込んで対立していきます。しかし、フランスの植民者は1663年になってもたった3000人に過ぎず、同時期のオランダでさえ5000人、そしてイングランドは5万8000人を数えていました。1700年にやっとフランスが1万5000人となったころ、イングランドは北米全体で25万人と圧倒していました。

 

英国(スコットランドも植民を本格化)は他国の勢力を駆逐しながら、「残虐な野蛮人」である先住民の土地を奪って、タバコ、砂糖(西インド諸島で黒人奴隷を投入)、コメという3大農産物の大規模経営を確立していきます。片やフランスは毛皮の交易相手であるインディアンをパートナーとし、彼らと共闘してイングランドと対峙。ついに1754~63年に「フレンチ・インディアン戦争」が勃発します。

 

世界各地で英国と衝突していたフランスはここが勝負どころと戦力を北米に集中させ、初期は優位に立ちますが、劣勢の英国が政権交代を機にフランス軍の5倍もの兵力を投入して大規模な反転攻勢を展開したことで戦局は一転。遅れてフランス側で参戦したスペインもろとも蹴散らし、フランスはついに北米大陸から退場し、多くの「占有地」は英国のものとなります・・・。

 

しかし、それは「占有地」と思ってやり取りした英仏の植民者たちの勝手な算段であり、そもそもそこにいた先住民であるインディアンたちは、「贈り物」を渋った英国に対し反旗を翻します。英国の砦の多くは奇襲で攻め落とされ、終戦気分だった英国は「新たに遠征軍を派遣するより、贈り物を渡して敬意を示したほうが安くつく」と和平を結び、懐柔路線に転換します。

 

このインディアンとの協調路線は、西へ西へと土地の拡大を求めていた植民地側(アメリカ植民者)の失望と反発を招き、さらにこの戦争で国力の疲弊した英国が戦費分を取り戻そうと植民地への課税等を強化したことで、ついに両者の対立は避けられなくなり、これがアメリカ独立戦争へとつながっていきます。(後編に続く)

 

脚注)「インディアン」の呼称については、コロンブスが「新大陸」で出会った先住民をインド人と誤認したことに起因する差別用語であり、1960年代に始まる先住民復権運動で「ネイティブ・アメリカン」と呼び変える動きがあったが、「アメリカ生まれのアメリカ人」という意味から、移民排斥運動の担い手がこれを使うようになり、むしろ先住民自身が植民地主義に対する抵抗の象徴として自らに冠せられてきた「インディアン」を自称するようになったという北米先住民研究者の野口久美子さんの指摘に基づき、「インディアン」の呼称を使用しています。