19世紀の東アジアをめぐる「海の地政学」 | 蝦夷之風/EZO no KAZE

蝦夷之風/EZO no KAZE

武蔵の国から移り住んで以来、日増しに高まる「北海道」への思いを、かつて「蝦夷」といわれたこの地の道筋をたどりながら、つれづれに書き留めてみます。

 

鯨を追って太平洋に進出したアメリカ

 

嘉永6(1853)年の黒船来航の目的が、米国の捕鯨船の燃料や食料の補給地を求めてのものであったことは今では良く知られています。当時、日本近海では米国の捕鯨船の操業が急増しており、ペリーの来る8年前にはクーパー船長率いるマンハッタン号が鳥島沖に停泊中に日本人漂流民11人を発見し、これを好機と見たクーパーは彼らを江戸まで送り、幕府と交渉して十分な「返礼」を得たことが記録されています。その後も日本人と接触するケースが相次ぎ、米国にとって日本での寄港先(狙っていたのは箱館)確保は急務の課題でした。

 

『アメリカ捕鯨全史/クジラとアメリカ』によると、1620年にピルグリム・ファーザーズがアメリカ東海岸のケープコッド沖にたどり着いた時、メイフラワー号の周りをおびただしい数のセミクジラが取り囲んでいたと言います。これが”米国人”とクジラの初めての出会いでした。以来、1920年代半ばまでのおよそ300年にわたり、捕鯨は米国の発展に大きな役割を果たします。今では反捕鯨の先頭に立つ米国こそ、実はかつては一大捕鯨王国だったのです。

 

彼ら移民たちは「ロイヤルフィッシュ」と呼ばれたクジラを食肉用ではなく、厚い皮下脂肪を煮出して鯨油を採取しました。鯨油は灯火用の燃料や機械・ミシンなどの潤滑油に最適で、樽詰めされた鯨油は本国・英国へ送られ、移民たちの大きな収益源となります。その後、ニューヨークなど北東部に次々と建設された都市に鯨油を供給するため、マサチューセッツ州のニューベッドフォードやナンタケット島、ロングアイランド一帯は捕鯨基地としてにぎわいます。北大西洋でクジラを取りつくすと、南米大陸南端のホーン岬からマゼラン海峡を経由し、太平洋へ進出。米西海岸のサンフランシスコ、さらにハワイに捕鯨船の前線基地を設け、日本近海に進出して来ます。これは米国の捕鯨産業のピークとなる1840~50年代で、ペリーはまさにこのころ日本に現れたことになります。

 

ところでペリーは太平洋を渡って日本に来たのではありません。実は大西洋を渡ってセントヘレナ島(英領)、アフリカ南端のケープタウン(英領)に寄港。さらに北上してインド洋のモーリシャス島(英領)、セイロンのコロンボ(英領)からシンガポール(英領)、香港などを経由して琉球(琉球には5回も寄港し、1854年に琉米修好通商条約を結んでいます)、小笠原諸島を経て日本に到着しています。実は寄港先のほとんどは英国領で、海の後進国であった米国の船舶が世界1周しようとすると、必ず英国領の港に立ち寄らなければならなかったのです。19世紀の世界の「海の覇権」を握っていたのはまさに英国でした。

 

英国を「海の覇者」にしたのは女王の力

 

16世紀のエリザベス女王一世から19世紀のヴィクトリア女王にかけて、英国はスペインやオランダを蹴散らし、世界に冠たる海洋帝国の建設を進めていきます。『海の地政学』を著した竹田いさみは、英国が海洋覇権を握った経緯を、

①    海賊や冒険商人を活用してスペインやポルトガルを駆逐

②    英蘭戦争を機に、「海賊」から「海軍」主導に転換

③    帆船が寄港できる島や岬などの戦略的な要衝を整備し、駐屯基地を設置

④    東インド会社のような地域独占による貿易ネットワークを構築

⑤    国益に有利な航海法の制定や廃止

を挙げています。

 

そして海洋帝国完成の最後のリングとなったのが、東アジアの情勢を一変させたアヘン戦争(1840~42)です。英国に「アヘン」で”毒薬漬け”にされた大清帝国は、そのワナにはまり、取り締まりを強化したことで英国の侵攻を招き、さらに第二次アヘン戦争(1856~60)では英仏連合軍と戦ってボロ負けし、強引に開国させられます。「アヘン戦争の屈辱を忘れるな」というのが、今も中国の対アングロサクソン戦略のベースにあるとよく言われますが、それも納得できます。

 

最近はやりの「地政学」的に言えば、19世紀の東アジアは、島国の英国に象徴される海洋国家=「シーパワー」が、中国などの大陸国家=「ランドパワー」を圧倒した時代といえるでしょう。「地政学」とは、地理的な条件から国家の行動や国と国との関係を説明する方法論で、地球上の位置によってその国の生き残り戦略が規定され、それが国際関係を動かしているというリアリズムに立つ学問です。

 

中国やロシア、ドイツなどの「ランドパワー」を志向する国は、人口に比べ広い領土を持つため、外国と交易するより自分たちの版図を拡大(防衛)することを優先し、国境周辺での紛争が絶えず、攻め込まれれば消耗戦での勝利を目指すので「陸軍」主導となります。一方、外国との商業ネットワークに依存する島国や海洋国家の「シーパワー」は、領土拡大よりも航海の自由を求め、海の覇権を志向するので「海軍」強化が国是となります。英国やオランダ、日本のほか、英国の後を追い、「世界の警察」を目指した米国もシーパワー志向の国と言えるでしょう。

 

興味深いのは、「シーパワー」が経済合理性を重視するのに対し、「ランドパワー」は国内の結束力を求めるためにイデオロギー重視となることで、ロシアや中国が共産圏となり、ドイツがナチズムに傾いたのもなるほどです。そして半島国家は、文字通り、常に他国の侵略にさらされる「通路」として悲劇の舞台になってきました。朝鮮半島やバルカン半島がその典型で、国ではないですがクリミヤ半島なども同じ条件下にあります。(『日本人が知るべき東アジアの地政学』より)

 

対馬を不法占拠したロシアの暴挙

 

第二次アヘン戦争に話を戻すと、清の混乱に乗じてロシアは「沿海州」をもぎ取り、1860年にここに極東の軍事拠点としてウラジオストクを建設します。北海道の歴史からするとこれは一つの転機で、「隙あらば南下」を国是とするロシアの矛先はオホーツク海から日本海へと変わり、ロシアの「圧力」の最前線だった千島や東北海道は一時的な平和を迎えます。しかし、代わって標的となったのが対馬でした。

 

1861年3月、対馬は突然、ロシアにより不法占拠されます。事の発端はその2年前に英国の軍艦アクテイオン号が対馬に強引に上陸したことにありました。これを知った駐日ロシア領事(在箱館)のゴシケッチは、「うわさによると、ロシアが蝦夷島全島を狙っていると英国が日本政府に吹聴した可能性がある。英国は日本をロシアから守ることの見返りに、対馬を英国に譲り渡すよう提案したようだ」と本国に連絡。これを知って、ロシアは機先を制するため、対馬を不法占拠するという強引な手段に出たのです(『ロシア人の見た幕末日本』より)。

 

地政学的には、欧州の覇権を維持するために地中海を抑えたい英国にとって、クリミヤ半島を占拠し、黒海から地中海への道を確保しようとするロシアとは、クリミヤ戦争(1853~56)以来、根深い対立が続いていました。そして東アジアでも、英国はロシアを封じ込めるべく画策していたため、ロシアの暴挙に対し、英国は強硬な抗議と幕府への根回しの末、軍艦2隻を対馬に派遣。これに対し、ロシアは大きな国際問題に発展することを恐れ、半年の不法占拠を解いて撤退するはめになります。

 

このロシアの手痛い勇み足は、本来は「ランドパワー」でこそ実力を発揮するロシアが、無理筋の「シーパワー」作戦を行ったことによる失敗だったとも言えます。自国の「地政学」的本質を外れた行動は失敗につながることは歴史が証明していますが、以後、世界の列強は、日本も含め、無理筋の作戦を展開していくことになります。