真相究明に300年かかった海の疫病「壊血病」 | 蝦夷之風/EZO no KAZE

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武蔵の国から移り住んで以来、日増しに高まる「北海道」への思いを、かつて「蝦夷」といわれたこの地の道筋をたどりながら、つれづれに書き留めてみます。

コロンブス以来、200万人が命を落とす

 

初めて世界一周を目指したマゼラン一行250人のうち、3年後にスペインに帰り着いたのはわずか18人でした。そのひとりが書き残した日誌によると、彼らを襲った最大の苦難は「壊血病」で、乗員の半数の命を奪ったといいます。

 

「(主食だった)堅パンが無くなるとパンくずを食べた。それにはウジがいっぱいでネズミの尿の臭いがした。すでに傷んで何日もたった悪臭のする黄色い水も飲んだ。――中略――ひどい欠乏と苦しみの中でも、溺死、事故死、原住民との戦いでの戦死は日常だった。しかし、最も恐ろしいのは壊血病だった。男たちの歯茎は上下とも歯が隠れてしまうほど腫れ上がり、何も食べられずに死んだ」

 

壊血病にかかると身体の結合組織の細胞が変性し、歯茎が腫れて出血し、歯がぐらつき、口臭が酷くなる。また無気力、倦怠感、そして衰弱が始まり、古い傷口が開き、接骨した骨が外れるなどの症状が現れ、放っておけば苦しみながらゆっくりと死を待つしかなかったといいます。

 

喜望峰を発見したヴァスコ・ダ・ガマや海賊フランシス・ドレーク、アラスカとシベリアの間の海峡を見つけたヴィトウス・ベーリングなどの冒険家はもちろん、遠くアジアまでやって来た東インド会社の商人や宣教師、そして世界各地で領土獲得のための争いを繰り返した欧州列強の海軍も、この病気の恐ろしさに怯えていました(漫画の『ワンピース』でもよく出てきますね)。

 

北海道周辺を含む北太平洋にも、17~18世紀になると多くの探検家がやってきましたが、彼らの探検は博物学者や測量技師、また画家なども参加する大掛かりな国家プロジェクトだったため、船も大型帆船が主流となり、数年にわたる長期航海も珍しくありませんでした。船の構造は強化され、遭難することは少なくなりましたが、1船に数百人が乗り込むと、彼らの食料だけでも大変な量になります。もちろん冷蔵庫のない時代、食料の多くは保存の効くものばかり。

 

「新鮮な食べ物はなく、いつも湿った船倉で何カ月も海に浮かんでいるのは人間が生活する環境としては最も過酷だった。船が大型化し、航海が長期化したことで、壊血病は深刻になっていった」(『壊血病――医学の謎に挑んだ男たち』ステイーブン・R・バウン著)

 

「壊血病」の解明に至る長い歴史を、まるで海洋冒険小説のように描いたバウンは、「コロンブスの初航海から19世紀の蒸気船登場までの、帆船による航海が主流だった時代には、少なく見積もっても200万人を超える船員が壊血病で亡くなった」と推測しています。今では新鮮な果物や野菜不足による恒常的なビタミンCの欠乏によって起きる病気であることが分かっていますが、この病気の原因にたどり着くまでに、実に300年近い試行錯誤の歴史を経なければならなかったのです。

 

解決への道を阻んだ「権威」と「忖度」

16世紀のスペインの無敵艦隊の時代から18世紀のナポレオン戦争の時代にいたるまで、各国海軍の基本的な食事は数百年間ほとんど変わらず、共通するのは「数カ月間保存可能という条件を満たす塩漬け肉、乾燥豆、穀物、堅パンがあっただけ」でした。それも、貯蔵庫は湿気の多い船倉にあったので、「腐った牛肉、悪臭を放つ豚肉、かびの生えた堅パン」と、マゼラン時代と大差ない状態にありました。

 

さらに、海軍勤務は苛酷であることが知られ、乗員募集もままならなかったので、街中にたむろする浮浪者などを拉致して船に乗せるといった無茶もしたので、もともと健康とはいえない人間にこうした食事ばかりを与えていれば病気になるのは当たり前です。

 

1763年のイギリス軍の年報によると、フランス軍との7年戦争による水兵の死者は、兵員総数約18万5000人のうち13万3700人(なんと約72%)が病死で、その大半が壊血病による死者であり、戦死者はわずか1512人だったという驚くべき記録を残しています。

 

こんな悲惨な状態でありながら、壊血病の原因を追究する糸口さえ見つけられなかった一つの理由は、「多くの船員がさまざまな病気の合併症や栄養失調を併発して死んだので、医師は壊血病の症状と原因や治療法を特定することが難しかった」からだとバウンは説明します。

 

一方、そのはるか昔の商船隊や探検隊の中には、壊血病を予防し、無事に帰国した人々がいました。1601年に香料諸島へ航海に出た東インド会社のランカスター卿は、船員に毎朝スプーン3杯のレモン果汁を与え、その後は正午まで何も食べさせない、という方法で壊血病予防し、見事に効果を上げました。しかし、当時のイギリス商船では定石だったレモン果汁の利用は、なぜその後、普及しなかったのでしょう。

 

ひとつには、レモンにそれほどの効果がある理由を誰も説明できなかったこと。そして、当時はレモンがとても高価だったので、ケチな船主が使い渋るために効果が薄れてしまうこともあり、むしろもっと安い代替品を求めていたことにありました。

 

状況をさらに悪化させたのは、せっかく経験を通じて得られた予防や治療の知識が、当時の権威ある医学界の重鎮たちの唱えた「異論(=暴論)」に押しつぶされてしまったからです。今から見れば馬鹿げた学説やとんでもない治療法であっても、「正解」を知らない人々には「権威」が有効であることは、新型コロナウィルスが登場した今の時代にも通じます。結果、「レモン」に取って代わったのは、お偉い先生がお墨付きを与えた、安価に製造できる「麦芽汁」で、船主や軍の関係者もこれに飛びつきました。

 

真相解明のきっかけにつながったのは、1739年に船医助手としてイギリス海軍に入ったジェームズ・リンドです。ただし、彼は有力な後ろ盾のない若い医師であったため、その真価が認められたのはずっと後の事でしたがーー。

 

リンドは船内の病人がかび臭い小部屋にすし詰めに吊るされたハンモックに寝かされ、隣の病人の病気が簡単に感染し、いろいろな病気を併発してしまう状態を改善することから手を付けます。そのうえで、壊血病の患者をグループ分けし、それぞれに別々の薬や食事を与えて効果を調べました。「これは臨床栄養学的に管理された医学史上で最初の実験だった」とバウンが評価する画期的な試みとなりました。

 

オレンジとレモンを与えられた2人の患者は6日後に完全に回復。またリンゴジュースを発酵して作ったサイダーを飲んだ2人は回復とはいえないものの、病気の進行は弱まり、ほかの患者より長生きしました。代わりに「有効」と思われていた治療法の効果はなく、それもあってこの実験結果を公表するには6年という歳月を得なければなりませんでした。

 

その後、オーストラリアを発見したジェームス・クックがザワークラウトや塩漬けキャベツなどを大量に持ち込んで長期航海を行い、壊血病対策に効果があることを「証明」したのですが、まるで「忖度」官僚のように政府高官や権威ある医者たちに都合よく解釈できる説明を行ったことで、せっかくの成果はあいまいになってしまいます。

 

大英帝国の隆盛はレモンのおかげ

そうして、ついに壊血病解明の栄誉を担うことになるのが、イギリス海軍の船医に取り立てられた青年貴族のギルバート・ブレインです。彼の成功は、最大の障害であった「権威」の象徴・王立協会会長が退いていたこと、そして上流階級出身であり、海軍提督との個人的なつながりを有効に利用できたことにありました。

 

アメリカ独立戦争に従軍したブレインは、リンドやクックの成果を踏まえて、「船員の健康を守るための最も効果的な手段は、船内を掃除して清潔を保つこと、病気の水兵を船内から出し病院に収容すること、そして最も重要なのは柑橘類のジュース毎日補給すること」を勧めます。そのうえで全艦隊の船ごとの水兵の健康状態を調べ、壊血病も含めたさまざまな病気の発生状況を分析し、効果的な対策を行っていきます。

 

こうして確信を得たブレインは「健康で働ける十分な戦力が無ければ金があっても防衛に役立たない。健康で働ける戦力こそ国家の資源である」という信念のもと、水兵の健康改善のための施策をまとめ、海軍本部に請願書を提出。その中には、

「壊血病は船乗りが罹る主な病気のひとつだが、この病気は野菜、とくにオレンジ、レモンあるいはライムなどの果物の摂取で必ず予防や治療が可能である。強制徴募に2倍の費用をかけるよりも、各人が50個のレモンかオレンジを持って船に乗り込めば、健康と生命を救うことができる」と指摘します。

 

ブレインの請願は後ろ盾の海軍提督の後押しもあり、ブレインの管理する艦隊で取り入れられ、1782年のセインツの海戦でイギリス軍がフランス軍に大勝したのは、彼の艦隊の船乗りのほとんどがすこぶる健康であったからだと評価されました。

 

ナポレオンを封じ込めるためにイギリス海軍が長期間の海上封鎖を敢行できたのも、1805年のトラファルガーの海戦で大勝利を収めることができたのも、イギリス海軍が壊血病を克服できたことが大きな要因と言われています。本来、柑橘類が豊富に採れる地中海沿岸に面したフランスやスペインがその効能に気付かないうちに、イギリス軍はマルタの海軍基地から年間5万ガロン(1万1000ℓ)のレモン果汁を海軍の船に支給していたそうです。

 

その後、イギリス海軍は世界の海を制し、海の覇者の道を進むことになりますが、「大英帝国は柑橘類の種から花開いたと言えるかもしれない」とある歴史家は述べています。