日露の思惑に翻弄された樺太・千島アイヌ悲話   | 蝦夷之風/EZO no KAZE

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武蔵の国から移り住んで以来、日増しに高まる「北海道」への思いを、かつて「蝦夷」といわれたこの地の道筋をたどりながら、つれづれに書き留めてみます。

南極探検の成功に功あった樺太アイヌの山辺(左)と花守

(『南極に立った樺太アイヌ』より)

 

対雁(ついしかり)は気の毒だった、とバフンケは続けた。

「八百人以上が一か所に住まわされるなんてな、サハリンでは有り得ぬ」

 樺太のアイヌの村はみんな小さい。ニ十人を超えれば多いほうで、それは疫病の流行を防ぐための知恵だった。反面、統治の都合で言えば一か所に集めたほうが効率はいい。

和人は樺太のアイヌを、彼らの勝手な理屈だが熱心に近代化しようとして、疫病で()(つぶ)してしまった。ロシアは、彼らが持ち込んだ不幸や理不尽も含めてほったらかしにしている。

――『熱源』より

 

第162回直木賞を受賞した川越宗一氏の小説『熱源』は、明治以降の日露の国境交渉によって二転三転させられた樺太アイヌの運命を、ヤヨマネクフこと山辺安之助の人生を通して描いています。

 

山辺安之助は明治維新前年の慶応3(1867)年に樺太南部のアニワ湾に面した()(まん)(べつ)で生まれ、両親を亡くし孤児として育ちます。明治4年(1871)年の戸籍法布告時には「平民」に編入され、出身地にちなみ山辺と名乗りました。8歳の時に「千島・樺太交換条約」が成立、樺太アイヌ2372人のうち、北海道行きを希望した108戸841人とともに山辺も樺太を後にしました。しかし当初、移住先は生地を望む対岸の宗谷と約束していながら、内陸の開拓を急ぐ明治政府は現在の江別市にあたる対雁に強制移住させたのです。そのうえ、生活費は支給したものの、漁猟や狩猟に携わってきた彼らに農地を与え農業を進めるなど、政府の要求は無謀なものでした。結局、明治17(1884)年までにはほとんどのアイヌが石狩川右岸の(らい)(さつ)に移転し、漁業に従事することになります。

 

ところが、移住したアイヌを疫病が襲います。明治12(1879)年にコレラが流行、さらに明治19(1886)~明治20(1887)にはコレラに加え天然痘も発生し、これらの疫病によって300人余りが亡くなりました(冒頭の小説の一文はこのことです)。その後、不漁が続いたことなどもあり、明治38(1905)年のポーツマス条約で南樺太が日本領になると、ほとんどのアイヌは樺太に帰郷しました。

 

山辺は一足早く明治26(1893)年に、墓参を名目に妻子や縁者を連れて帰郷しますが、すでに故郷はロシア人集落になっており、同胞のはずのアイヌにも冷遇され、親戚のいる富内村(トンナイチャ)に落ち着くことになります。その後、日露戦争が始まると南樺太に上陸した日本軍のために村人を組織し、物資輸送や斥候として活躍し、勲八等瑞宝章を授与されますが、賜金70円は村に寄付しています。もともと対雁では学業優秀だったこともあり、山辺はこれを元手にアイヌのための学校建設に尽力することになります。

 

山辺の名を一躍、有名にしたのが、明治43(1910)年、白瀬矗(のぶ)中佐が行った南極探検に、友人のシシラトカこと花守信吉とともに参加したことです。極地探検には寒冷地に住む先住民を連れて行くことがよく行われており、山辺たちは犬ぞりに使うカラフト犬の調教のほか、探検に関わる多くの仕事に従事し、帰国後は南極探検を成功に導いた功績を称えられました。

 

白瀬南極探検隊記念館に勤務した佐藤忠悦氏は、その著『南極に立った樺太アイヌ』(青土社)の中で、「村人からは『アイヌになくてはならない人物だから危険な所にやってはならない』という意見もあったが、同時にアイヌが日本の南極探検に貢献することによって、アイヌが見直され、同族の地位向上につながるのであればと、部落こぞって協力することに決めた。それはある意味では、それまで続いてきた差別や抑圧の苦しみから少しでも逃れるための苦渋の選択でもあった」と述べています。

 

北方領土は先住民族・アイヌのもの

 

アイヌ研究の先達・高倉新一郎氏によれば、樺太最初の民族は北進してきたアイヌと南進してきたギリヤークで、南部に住む樺太アイヌは北海道アイヌの同族と考えられ、またニクブンと自称するギリヤークは、黒竜江流域に分布するオロッコ、キーリン、サンタなどと同じツングース系だそうです。樺太はこれら民族同士、また彼らと満州との間の交易で成り立っていた場所のひとつであり、日本やロシアが直接的に樺太に関わるようになるのは、時代をずーっと下った19世紀になってから本格化します。

 

19世紀中頃には、北緯50度を境に、南は樺太アイヌが約2600人、北にギリヤーク約1500人とウィルタ約200人が住んでいました。松前藩は宝暦年間(18世紀半ば)に漁場開発に乗り出しますが、樺太アイヌを経由してサンタ=山丹人との交易(これを山丹交易と呼ぶ)により、蝦夷錦や貴重な青玉などを入手していました。しかし、松前藩のアイヌ政策に疑問を感じた江戸幕府が調査したところ、満州勢力を背景にした山丹人との交易ではアイヌに不利が多く、次第に負債が嵩み、借金の代わりに奴隷となる事態もあり、幕府は満州勢力の浸食をおそれ、アイヌの借金を肩代わりするなど、樺太におけるアイヌとの交易を見直し、松前藩に代わって主導権を握ることになります。

 

一方、ロシアは18世紀以降、千島列島を南下し、オホーツク海域を行き来する中で、樺太へも領有のための実績作りとして、囚人(ポーランド独立運動やロシア革命指導者などの政治犯が多かった)や移民の移送を行っていました。そんな日露の「新参者たち」が樺太の主権を争うことになります。

 

ペリー来航をきっかけに米国との通商条約が結ばれると、安政元(1855)年に「日露和親条約」が締結され、日本とロシアは千島列島ではウルップ島とエトロフ島の間を国境とし、樺太は日露の混住の地とします。これ以後、樺太は幕府の直轄地となります。さらに明治新政府となった明治8(1875)年には、遠隔地の樺太は放棄し、北海道開拓に専念すべきとする意見が優勢となり、樺太をロシア領とする代わりに、千島列島すべてを日本領とする領土交換を行います。

 

このあおりを受けたのは山辺たち樺太アイヌだけでなく、クリル人と呼ばれていた千島アイヌも同じ運命に見舞われました。北千島はすでに約1世紀近いロシア支配下にあり、ロシア人のほかアリューシャン列島から連れてきたアレウト人なども居住し、アイヌ自身もロシア語はもちろん、ロシア正教を信仰する者も多かったようです。そこに突如、明日から日本領になるので、ロシアか日本か、どちらに帰属するかと選択を迫られます。

 

当時、占守島や幌筵島を中心に100人以上の千島アイヌがおり、そのうち12名がロシア国籍を希望し、ロシア人たちとカムチャッカに移住しました。しかし、千島に残って生活することを希望した残り97名は、明治17(1884)年に、ロシアとの内通などを恐れる新政府が色丹島に強制移住させ、「斜古丹村」が出現します。しかし、生活の急変や水害などの影響で、移住後4年にして人口の3分の1が死亡。そのため、アイヌたちの希望もあって、政府は明治33(1900)年に北千島での漁業出稼ぎを認めるか検討。その際、彼らが信仰する「キリスト教の排除」が不可欠と判断し、アイヌの「内地人」化を図るため、東本願寺の僧侶を送って仏教への洗脳教育を行いますが、彼らの信仰心は厚く、改宗を断念することになります(「北千島アイヌの改宗政策について」(麓慎一)より)。

 

その後、第二次世界大戦時のソ連の進行により、追放された千島アイヌは各地に移住し、彼らの伝統を受け継ぐものはいなくなったと言われています。北方領土に関する意見はさまざまありますが、樺太にも千島列島にも先住民族がおり、日本もロシアもともに「新参者」であることからすれば、これらの島が帰属すべきは本来、先住民族であるアイヌたちではないかというのが私の解釈です。

 

2007年に採択された「先住民族の権利に関する国際連合宣言」は、日本の国会でも「アイヌ民族を先住民族とすることをもとめる決議」が満場一致で可決されています。その翌年10月の国会で、当時、衆議院議員だった鈴木宗男が「千島列島におけるアイヌ民族の先住性に関する質問」を行い、「政府はアイヌ民族が千島列島、またサハリンの先住民族であるとの認識はあるか」と説いたのに対し、時の内閣総理大臣・麻生太郎は「政府としては、千島列島またはサハリンにおける先住民族であるか否かについては、判断する立場にはない」と回答しています。

 

ソ連の歴史家S・ズメナンスキーは、「アイヌ民族衰亡の責任は、原住民に対する取り扱いや搾取の程度にさほど差のなかったロシア人と日本人が負うべきである」(『ロシア人の日本発見』より)と明言しています。これは傾聴に値する発言だと思います。