「北海道」は世界地図で最後に残された空白地帯だった | 蝦夷之風/EZO no KAZE

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武蔵の国から移り住んで以来、日増しに高まる「北海道」への思いを、かつて「蝦夷」といわれたこの地の道筋をたどりながら、つれづれに書き留めてみます。

図1)アンジェリスがイエズス会本部に送った日本地図 図2)松前藩が幕府に提出した「正保国絵図」

 

「北海道」を最初に地図に描いたのは実は日本人ではありません。嘉吉3(1443)年に朝鮮通信使として来日した申叔舟が、その著『海東諸国紀』(1471年刊)で、蝦夷を初めて「島」として描きました。その次は松前藩が作った地図かと思いきや、実は「蝦夷」を世界に知らしめたのは、1618年に外国人として初めて北海道に渡ったイエズス会宣教師のジェロニモ・デ・アンジェリスです。彼は2回来道していますが、1621年にイエズス会本部に送った報告書で、アイヌたちからの聞き取りを元に、日本列島の数倍大きな「蝦夷島」の地図(図1)を描いています。

 

松前藩が製作した蝦夷図は、正保元(1641)年に幕府から提出を命じられて作成した「正保国絵図」(図2)です。対岸の青森と比べると、これが北海道なの? と驚くほど小さく、松前周辺の和人地以外はコンパクトにまとめられたいびつな形ですが、それでも藩命により「島めぐり」を行った村上掃部左衛門の成果が反映され、千島列島(右端のゴチャとした島々)や樺太(中央上端)まで描かれているのは画期的です。とはいえ、松前藩にすれば米が採れないので検地の必要もなく、アイヌが住む土地は「領地」でもないため、これで用が足りると思ったのか。実際、幕府も他藩のように正確な地図は求めておらず、これがしばらく公式文書として通用していました。

 

そもそも幕府には「蝦夷」は自国の領土(いわゆる”日ノ本”)という意識がなく、また松前藩にしても、道南周辺や直轄地以外は「アイヌ居留地」とみなし、占領して領地化しようという意志もなかったと思われます。実際、松前藩はその土地に住むアイヌとの交易権を「知行」として家臣に与えただけで、アイヌに貢租は課してはおらず、少なくとも「シャクシャインの戦い」までは対等な関係に近かったのは確かです。「蝦夷」は和人とアイヌの「あいまいな共存」が成り立っていた場所であり、そのために各地を詳しく調べる必要もなかったのでしょう。

 

探検家がさまよった濃霧の千島列島

17世紀中ごろは、北海道とカムチャッカは合体してシベリアでした(笑)

 

一方、「外」の人々からすると、日本北方の海域は、南北極を除くと、長らく世界地図に残された「最後の空白地帯」でした。世界の冒険家たちはこの「白紙」の海域を目指し、謎の島「エゾ」を探し求めにやって来ます。

 

「鎖国」状態の日本と唯一、関わりのあったオランダでさえ「北海道」は未知の国でした。1643年、オランダ東インド会社のフリース船長は、日本の北東海域の探検調査を命じられます。その使命とは、

①    エゾはアジア大陸と地続きなのか、それとも島なのか

②    日本、エゾ、中国、タターリア(沿海州)沿岸の測量

③    「金銀島」(日本の東方343マイル付近にあるとされた)の調査

④    発見した土地の領有化のために記念の石を置き、オランダの旗を建てる

ことでした。

バタヴィア(ジャカルタ)を出帆したフリースの乗ったカストリクム号は八丈島沖で僚船を見失うものの、十勝川河口に到着し、初めてアイヌと遭遇。その後、北上してウルップ島に上陸し、木製の十字架を建てて領有を宣言しますが、彼らはここをアメリカ大陸の一部と思い込みます。さらにエトロフ、クナシリを回り、カラフトに到達するのですが、濃霧の中をさまよったため、北海道とカラフトを地続きの土地と見誤ってしまいます。皮肉なことに最新の測量技術で調べたからこそ、途切れ途切れの地形情報はかえって後の人々に混乱を与える結果となりました。

 

一方、東方進出を図るロシアにとっても、日本周辺の海域は魅力的な目標でした。しかし、本来ならアムール川流域から沿海州に出られれば、日本海を越えて直接、日本にアプローチできたのですが、南から攻め上がって来た清の康熙帝に阻まれ、強力な清軍に敗れたロシアは、1689年に「ネルチンスク条約」を締結。清との毛皮交易の権利を得た代わりに、アムール川流域から締め出されたため、カムチャッカ半島を迂回するルートを取らざるを得なくなります。

 

カムチャッカ半島南端から千島列島を経て北海道・根室へは距離にして約1200km、これはほぼ東京-博多間に匹敵します。この間に30以上の島が連なっており、秋から冬にかけては島々の間の潮流が激しく、夏は濃霧に覆われて容易に渡航出来ません。しかし、ロシアはカムチャッカ半島に拠点を築くと、1713年にまずコズイレフスキーが日本人漂流民を含む60人の一団を率いて探検に踏み出し、パラムシル島に住む千島アイヌから千島列島すべての島の情報を手に入れます。

 

さらに1738年には、アメリカ大陸を目指した総勢570人という空前の調査団を率いた第二次ベーリング探検隊の別動隊として、シュパンベルクが3隻の船隊でウルップ島まで南下。翌年は千島列島を縦断し、なんと仙台沖までやってきて、仙台藩の役人と交易交渉まで行っています。この「元文の黒船」と呼ばれたロシアの探検隊の測量によって、千島列島の全容はほぼ明らかになります。

 

この時期、ロシアは千島の経営に並々ならぬ意欲を示し、「ロシア人はクナシリ島民が日本人と交易していること、しかしウルップ、エトロフ、クナシリの島民は、自分たちにはいかなる支配者もいない、と言っていることは知っていた。それだけに、この3島にロシアと日本のどちらが先に手を付けるかが焦眉の的となった」と、渡辺京二氏はその著『黒船前夜』で指摘。「工藤平助や林子平(ともに「蝦夷地開発」は急務と老中・田沼意次に進言した知識人)はロシア人がアイヌを手なずける前に手を打たねばならぬと考えた。北方問題とはアイヌを自分側に取り込もうとする日露民族主義同士の相克に他ならなかった」と解説します。

 

樺太が「島」だとは知っていたけれど・・

図3)「皇與全覧図」には樺太は島と描かれていた 図4)ラ・ペルーズが調べた地図はかなり正確

 

ロシアと日本の間には、交易を求めるだけの欧米諸国と違い、「国境策定」という、より複雑な問題が存在します。そのため、北海道はもちろん、千島列島や樺太などの隣接地域の正確な姿を明らかにする必要がありました。同時に「領土」と主張するためにはそこに住む「住民」の存在がカギを握ります。それが千島や樺太に先住していたアイヌ民族でした。

 

田沼は工藤の進言を受け、天明5(1785)年に蝦夷地調査のため、探検隊の派遣を決定。千島班と樺太班の2つの調査隊を向かわせます。翌年には最上徳内がエトロフ島に滞在していたロシア人イジュヨと遭遇し、ロシア側の事情を聞き出します。その後、探検隊の成果として、1786年に「蝦夷輿地之全図」が描かれ、ようやく日本人も千島列島と樺太の姿を知ることになります。

 

そして3年後の寛政元(1789)年、幕府にとって「蝦夷地政策」を見直す転機となるアイヌの武装蜂起「クナシリ・メナシの戦い」が起きます。実はこの事件の背後にロシア勢力がいるという噂があり、時の老中・松平定信が調査しますが、真偽は不明ながら、アイヌに対する苛酷な収奪がアイヌをロシア側に引き寄せるとの恐れを感じ、寛政11(1799)年、幕府は東蝦夷地の直轄(当初は7年間の予定)を公示し、①アイヌとの交易の見直し、②風俗の和風化を進める、③農耕の奨励といった、アイヌの懐柔政策を打ち出しますが、②と③は反発が強く、据え置きとなります。

 

ではもう一つのルート・樺太ですが、実は「島」であることは以前から知られていました。17世紀半ばに建国した「清」の康熙帝は、10年がかりで中国全土の実測調査を行い、1717年に「皇與全覧図」を作成しますが、元は満州民族だけに黒竜江流域も明確に描かれており、樺太は「く」の字の形の「島」として描かれています(図3)。この地図は宣教師の手で欧州に伝わり、1745年に刊行された「ロシア帝国全図」(ロシア科学アカデミー)にも引用されたので、以後のロシア探検隊には知られた知識ではありました。

 

ただし、実際にこの海域を測量して確認するという、詰めの証明を各国の探検家が争っていました。1787年にフランスのルイ16世が派遣したラ・ペルーズは、最新の測量器具を備え、地理学や博物学などの学者と画家を乗せた2隻の探検船で日本海を北上し、樺太らしき島に上陸。島の住民の話から樺太であることを確信し、大陸との間の海峡を進みますが、水深が急に浅くなり、ボートに乗り換えて進んだものの、天候が悪化したために水路を確認できずに引き返しています(図4)。とはいえ、その後、宗谷海峡を「発見」しているため、欧米では宗谷海峡は「ラ・ペルーズ海峡」と呼ばれています。

 

また1804年に日本との交易交渉のため、長崎を訪れたロシア使節レザノフの乗ったナジェジダ号艦長のクルーゼンシュテルンは、カムチャッカへの帰途、北海道西岸を回り、稚内に上陸。さらに樺太東側を測量してから、翌年、出直して樺太西岸へ回り、大陸との近接地点まで迫りますが、樺太は大陸とは砂洲でつながった半島であると確信して帰国することになります。後にシーボルトがもたらした間宮林蔵の地図を見て、クルーゼンシュテルンは「これは日本人の勝ちだ!」と叫んだそうです。

 

文化5(1808)年、松田伝十郎と間宮林蔵が樺太に派遣され、樺太西岸を探索した松田がついに大陸との間が海峡であることを確認。翌年、間宮は現地人の船で海峡を渡って大陸に上陸し、アムール川をさかのぼってデレンまで調査しました。この結果、実地調査で正確な測量も行った間宮が発見者の名誉を得て、ついに「間宮海峡」と呼ばれることになります。ちなみに、ロシア人は1848年にこの海峡を「船舶」で通航したネヴェリスコイにちなんで「ネヴェリスコイ海峡」と呼ぶようですが。

 

樺太と千島列島をめぐる日露の国境問題は、その後も二転三転し、そこに住むアイヌたちの運命を翻弄します。これについては、稿をまたいで解説します。

 

参考(文・地図)/『日本北辺の探検と地図の歴史』(秋月俊幸)/『黒船前夜』(渡辺京二)/『アイヌ研究』(高倉新一郎)