北海道の歴史を塗り替えた男・米村喜男衛 | 蝦夷之風/EZO no KAZE

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武蔵の国から移り住んで以来、日増しに高まる「北海道」への思いを、かつて「蝦夷」といわれたこの地の道筋をたどりながら、つれづれに書き留めてみます。

北海道の歴史区分は本州とは大きく異なります。「稲作」が普及しなかった北海道には「弥生文化」がなく、代わりに縄文に続く「続縄文文化」と呼び、次の7世紀から12世紀ころ、刷毛目で擦ったような文様の土器が登場する「擦文文化」へと続きます。

 

正直言うと、北海道に来るまで、江戸時代より以前は、なべて「アイヌ文化」なのかと思っていましたが(笑)、「アイヌ文化」はその後の13世紀以降に成立したというのが今の定説です。ただし、正確には「アイヌ」のルーツは未だ解明されておらず、「アイヌ文化」成立の過程は依然、研究途上というのが実際のようです。

 

近年、北海道でも考古学的な発見が相次ぎ(一時、世間を騒がせた捏造事件もありましたが)、北海道の古代史が次第に解明されつつありますが、その先駆けとなったのが、「オホーツク文化」の存在を世に知らしめた網走のモヨロ貝塚であり、その発見者である「米村喜男衛(きおえ)」でした。

 

「オホーツク文化」は、続縄文文化と擦文文化の2つの時代と重なる5世紀から10世紀にかけ、オホーツク沿岸に展開した北方系海洋民族による独自文化です。今では「オホーツク文化」やそれを担った「オホーツク人」について、誰もが当たり前のように語っていますが、肝心の発見者である米村喜男衛の功績の大きさに比べ、いまひとつ評価が低いように思えてなりません。それは彼がアカデミズム出身でないからとは思いたくはありませんがーー。

 

先日、久しぶりに網走の「モヨロ貝塚跡」を訪ねました。行かれた方はご存じでしょうが、こんなに町の近く? と思うくらい、その場所は町の中心部にほど近い、網走川の河口にあります。貝塚跡とは言いながら辺りには竪穴住居跡も多く見つかり、独自な文様の土器や人骨など、さまざまなものが発掘され、戦後、静岡の野呂遺跡とともに、大規模な古代遺跡として注目されました。発掘現場周辺は復元され、その横に記念館があり、この遺跡の全容を知ることができます。

 

朝の散歩で見つけた大発見

 

明治25(1892)年、岩木山を望む津軽の農家の長男として生まれた米村さんは、幼少時に近くの裏山で偶然、古代の石器のかけらを見つけます。生家の近くに田舎館遺跡や亀ヶ岡遺跡があったことから、興味は自然と考古学へと向いていきます。青森市内の高等小学校に進むものの、日露戦争が勃発した明治37(1904)年に、実家の経済的な都合により退学し、弘前の理髪店に修行に出ます。それから6年の年期明けまで、休日には近くの遺跡に出かけたり、考古学の専門誌などで学んでいたそうです。

 

18歳で長年の夢であった上京を決意し、古書店街に隣接した神田の理髪店で働き始めます。数々の読書遍歴の中で、鳥居龍蔵の書いた『千島アイヌ』に感化され、アイヌ文化への関心を深めた米村さんは、当時、東京大学人類学教室の教授だった鳥居と出会い、以後、生涯の師としてその指導を受けることとなります。

 

そしてアイヌを知るなら北海道を目指すべきと、ついに函館に上陸。ここで1年働いた後、さらに網走を目指し、21歳になったばかりの大正2(1913)年9月3日夜に網走駅に降り立ちます。当時の網走は人口わずか3000人ほどの寒村に過ぎません。ところが、網走に着いた翌朝、宿から散歩に出た米村さんは、網走川の河口辺りをさまよううちに、大きく露出した土手の中に、貝が堆積していることに目が留まります。これが「モヨロ貝塚」でした。なんという僥倖!!

 

この発見から2か月後には空き家を借りて「米村理髪店」を開店させ、バリカン片手の発掘作業が始まります。話を聞いた鳥居も駆けつけ、ここが並々ならぬ遺跡であることが分かると、専門家集団も訪れて本格的な発掘調査へと発展してゆきます。

 

モヨロ遺跡が「オホーツク文化」と認定されることになったのは、

①    土器の外側に紐を張り付けたような「貼付文」という、縄文や擦文時代の土器とはまったく別種の文様などが見られたこと

②    大量に見つかった人骨が、手足を折り曲げた屈葬の上に、頭に逆さにした壺をかぶせて埋葬している(アイヌは手足を伸ばした伸展葬)という独自のスタイル

③    アザラシやトドなどを捕獲するための独自の工夫が凝らされた漁労具やクジラなどの骨で作った骨角器などが大量に見つかった

④    その後、根室半島から千島列島、さらにオホーツク沿岸を北上し、宗谷地方や礼文・利尻島でも同種の遺物が見つかった

以上のことから、北方系海洋民族が移り住んだ痕跡と判断され、「オホーツク文化」の遺跡として北海道の古代史を大きく塗り替える大発見となりました。そして、この文化の系譜は樺太から大陸のアムール川流域ともつながることが分かってきたのです。

 

米村さんの功績は、ただの発見者・研究者には終わりません。第二次大戦が始まり、進駐してきた軍部はこの一帯を海軍基地にしようと計画。しかし、それを知った米村さんは、周囲の意見を振り切り、身を賭して軍部と掛け合い、ついに計画は変更を迫られました。常に先頭でこの遺跡を調査してきた米村さんの執念には頭が下がる思いです。

 

参考資料/『北方の海の民』(新泉社)