「鷹」は茶器のような武士の贈答品だった | 蝦夷之風/EZO no KAZE

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武蔵の国から移り住んで以来、日増しに高まる「北海道」への思いを、かつて「蝦夷」といわれたこの地の道筋をたどりながら、つれづれに書き留めてみます。

鷹狩は家康の健康法でもあった

 

徳川家康の鷹狩好きの影響で、何事も「先例重視」の将軍家では、その後、幕末まで「鷹狩」の伝統が引き継がれてゆきます。その経緯は好著『鷹と将軍』(岡崎寛徳)に詳しく、これをもとに江戸期の「鷹」事情を見ていきましょう。

 

慶長12(1607)年、将軍職を息子・秀忠に譲って駿府に隠居してからの家康(当時66歳)は、鷹狩三昧の日々を送ります。関東・東海地方のお気に入りの「御鷹場」に出かけ、雁や鴨を捕獲しては、その場で料理して近習衆にご馳走しました。中でも白鳥や鶴は最大の獲物で、ご自慢の鷹で捕獲した「御鷹之鶴」は、豊臣秀頼や前田利常などの有力大名のほか、「主上」である後水尾天皇にも贈られました。

 

そんな家康に各地から「大鷹」が献上されましたが、遠方から運ばれることによる疲労やストレスなどが原因で亡くなる鷹も多かったようです。慶長9(1604)年には所持していた大鷹60~70居(もと。鷹の単位。連(れん)を使うことも)が大量死。その3年後、高麗から運ばれた大鷹50居のほとんどが道中で死亡。慶長15(1610)年には松前藩が献上した大鷹16居のうち13居が死んだという記録があり、鷹が死ぬと家康は落胆して、嘆き悲しんだそうです。また幕府管理の「鳥屋(鷹部屋)」内で「愛鷹」が死んだ時には、激怒した家康から担当した鷹匠はきついお咎めを受けたとも。

 

将軍家では、常時、鷹を補充する必要があり、繁殖地である北国の大名から、毎年、多くの鷹が献上されるようになります。江戸中期の記録では、各藩の献上鷹の割り当て数は、最も多いのが松前藩で15居、仙台藩7居、弘前藩5居、盛岡藩5居、米沢藩1居、越後長岡藩3居、伊予松山藩5居、出羽新庄藩1居、信濃松本藩4居、尾張藩4居、信濃高島藩1居などと決められていました。東北以北が多いのは分かりますが、松山や尾張は意外ですね。

 

各藩では、毎年春から夏に捕獲した大鷹のヒナである「若黄鷹」を、健康状態や見た目の姿の良さなどで選別したうえで、秋に「御鷹行列」を仕立て、道中で事故が起きないよう注意しながら運びました。無事に献上鷹を届けられればひと安心ですが、それまでの費用はかなりかさみます。そのため、余った予備の鷹を幕閣や親しい大名家に進呈したり、鷹狩好きな大名に贈った際はそれなりの見返りもありました。ちなみに市井の商人が買った時の相場は若黄鷹2居20両(享保10年時)だったようです。

 

松前藩は供給量はもちろん、さまざまな種類を捕獲できる優位性があり、それを武器に盛んに「鷹」外交を展開します。同藩の歴史書『新羅之記録』によると、慶長18(1613)年、松前藩2代藩主の公広は、江戸にいる秀忠に拝謁したついでに、鷹狩に出かけていた家康にも謁見し、鷹を献上してご機嫌取りに成功。また寛永2(1625)年には「羽の色が異なった珍しい大鷹」を秀忠に献上し、「そのお喜びはひと通りではなかった」と聞き、さらに5年後の慶長7(1630)年11月、今度は真っ白の白鷹が見つかり、翌春に秀忠に献上します。もちろん秀忠は「逸物無類」の白鷹に大層な喜びようだったとか。

 

ところが、翌慶長9(1632)年正月に秀忠が逝去。お見舞いに来た公広に対し、秀忠側近の長井信濃守から、「往古より一色の白鷹は天下を掌握した人には不吉なものである。もし今後、白鷹が見つかっても上納すべきでない」と言われ、以後、同藩の申し送り事項となりました。

 

綱吉が中断した鷹狩を吉宗が復活

徳川10代家治の『将軍家駒場鷹狩図』

 

家康は鷹狩で使った「御鷹(将軍家所持の鷹)」を身内の徳川御三家や領地に帰る譜代大名などに譲渡することが多く、以後、この「鷹の拝領」は制度化され、幕府の権威付けに利用されていきます。

 

「拝領鷹」にはランクがあり、最上は鶴を捕獲したことのある「鶴捉」、次いで「雁捉」、「鴨捉」と名付けられ、相手の格に応じてこれらの「御鷹」が下賜されました。その際、鷹を送り届ける使者の格までランクを付けるなど、差別化を徹底しました。また、「御鷹」を拝領した大名は、帰国すると自らの鷹場で鷹狩を行い、捕獲した獲物を将軍家に贈る「帰国御礼」をすることが義務となっていました。

 

秀忠以後、家光、家綱までは「鷹狩」の伝統は続きますが、5代綱吉は「生類憐みの令」を出した将軍だけに鷹狩の中止命令を出しています。以後、家宜、家継も自身で鷹狩は行わなかったため、元禄6(1693)~正徳2(1712)年の20年間は鷹狩は中断され、各藩からの鷹の献上も行われませんでした。ただ、面白いのは、綱吉は鷹狩こそしなかったものの、鷹の絵を描いて側近の柳沢吉保に贈っています。

 

綱吉の死後、各藩では鷹狩復活を期待して鷹の確保・育成を準備していましたが、ようやく再開となったのは、家康以来の権威復権を目指した8代吉宗になってからです。吉宗は期待に違わず、将軍就任のわずか2日後に「鷹献上の命令」を発します。各藩では20年ぶりの再開とあって、どんな段取りで行うべきかひそかに打診。すると、幕閣からは「今回は命令を聞いて急ぎ鷹を手配した、という演出が必要なので、運んできた時のまま、つまり鷹も容れ物の箱も洗わずに汚れた状態で届けよ」との申し出があったそうです。

 

紀州育ちの吉宗だけに、鷹狩の回数も多く、また自らの手に鷹を載せて狩りを行うこともあったため、将軍の拳に載せた鷹が捕獲した獲物を「御拳之鳥」と名付け、特別な獲物であることをアピールして天皇家や有力大名への贈答品として使いました。その獲物はやはり鶴が最高級なため、以後、将軍自ら鷹狩に行くときは鶴の捕獲を目的とした「鶴御成」が重要なイベントとなりました。

 

鷹狩のフィールドとなる鷹場では、常に鶴や雁、鴨などが渡ってこられる環境を維持するために専任の「鳥見役」という役人がおり、彼らが各地の鷹場の環境保護に目配りしているおかげで、江戸中期から後期になっても、関東周辺で鶴が捕獲できました。また鷹の手配や管理・育成を担当する鷹匠は旗本で、城下町に集団で住んでいたため、今でも「鷹匠町」の名が残っています。こうした「鷹」に関わるすべての仕事は、専任の若年寄が担当していました。

 

ちなみに、鷹狩を引退した鷹は山に返されましたが、その山は「御巣鷹山」(聞いたことがありますよね)とよばれ、鷹の繁殖や育成も行われました。実は「鷹狩」はサステイナブルな事業で、そのおかげで里山が保全され、生態系も維持されていたといえますね。