北の交易品③ 信長や家康まで魅了した「タカ」 | 蝦夷之風/EZO no KAZE

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武蔵の国から移り住んで以来、日増しに高まる「北海道」への思いを、かつて「蝦夷」といわれたこの地の道筋をたどりながら、つれづれに書き留めてみます。

タカにまつわる秘伝書は数多く残っている            タカの羽の紋章は60種以上あるとか

 

古来、日本人に最も親しまれたタカ科の代表といえば「オオタカ」です。ユーラシア大陸を中心に世界的に広範囲に生息し、1980年代には関東でも繁殖するようになりましたが、宅地造成の影響で激減。希少性動植物種に指定されたものの、その後、急速に生息数が回復し、2006年には絶滅危惧種から解除され、今ではほぼ本州全域で見られるようになりました。

 

かつては北海道や本州以北が主な繁殖地だったオオタカは、ワシの羽と同様、北の代表的な交易品でした。タカの羽は特に武家の間で人気が高く、中世の軍記物には必ず登場します。『平家物語』の屋島合戦で、弓の名手・那須与一が船上の扇を射る名シーンで使う鏑矢は、「うすぎりふに鷹の羽わりあわせてはいだりける、ぬための鏑(薄い色の切斑という紋様の羽2枚に、鷹の羽2枚を互い違いに張り合わせた、鹿の皮模様の鏑矢)」と、凝りに凝った与一自慢の矢羽であったことがわかります(簑島栄紀氏が紹介)。

 

ワシの羽よりは手軽に入手できたうえ、技術の進歩で命中精度が高まり、より戦闘向きになったことで、「タカの羽」は「武」のシンボルとなり、いつしか武家の家紋に使われるようになります。図版化された「鷹羽紋」は、なんと60種類以上あるそうです。でも、なぜ、武士はそれほどタカに惹かれるのでしょう?

 

思うに、「ワシの羽」は、羽根自体の大きさ(オオワシは翼長2~2.5m、オオタカは同1~1.3m)と、特に尾羽の紋様の複雑さから来る希少性や装飾性に価値があるとするならば、「タカの羽」は、タカという鳥が鷹狩の際に見せる「狙った獲物は確実に仕留める」攻撃性と、その一方で鷹師の指示には従う従順さを合わせ持つことに「武士の本分」を重ね合わせ、価値を見出しているのかもしれません。

 

まさに矢羽根としてだけでなく、「鷹狩」に使われる「兵器」としての利用価値がタカのもう一つの魅力でしょう。ちなみに鷹狩の歴史は古くは仁徳天皇にまでさかのぼり、武家ではなく、貴族の間で流儀が受け継がれ、織田信長は元関白の近衛前久を師匠と仰ぎ、前久はさらに秀吉や家康にも伝授しています。

 

鷹狩にはオオタカのほか、ハイタカやハヤブサも使いますが、中でもハイタカは俊敏な故に手なずけるのが難しいこともあり、ハイタカを調教する鷹匠は最も地位の高い鷹匠頭が担当し、将軍家に鷹を献上する「御鷹行列」では、ハイタカを手に載せた鷹匠頭が列の先頭に立ちました。

 

タカを捕獲するプロ「鷹待」の登場

将軍家に鷹を献上した御鷹行列のお祭り/岩槻(埼玉)

 

徳川家康が無類の鷹狩好きだったこともあり、江戸期になって「タカ」需要が急増。そして、「鷹待(たかまち)」という専門職が登場します。当初は松前藩や津軽藩など北方地域が中心だった「タカ」も、鷹狩で使うタカは生まれたばかりの幼鳥を捕獲し、調教する方が効果的とわかり、各藩は独自に「鷹待」という専門部隊を北海道に送り込むようになります。

 

鳥類研究家の若杉稔さんによると、自然の中で捕獲した野生のタカは「網掛け(あがけ)」といい、巣から捕ったヒナのタカは「巣鷹(すたか)」といいます。「網掛け」は野生での生活経験があるため、自分より大きなツルやハクチョウを捕まえるような無茶はしませんが、巣鷹は猛然と大きな鳥に向かっていくそうです。とはいえ、孵ったばかりのヒナは病気になりやすいため、ふ化後20~25日目の、尾羽が伸び、巣立ち前のヒナを捕っていました。

 

ちなみに、満1歳のタカは、換羽を1回したので「かたかえり」と呼び、2歳は「もろかえり」、3歳は「もろかた」、以後は、四つ、五つとなります。3年たつと1人前と言われますが、実際の鷹狩には生後4か月くらいからの若鷹が素直なのでよく使われました。一般的には若鷹を「黄鷹」、成人の鷹を「蒼鷹」とよんでいたようです。また、ワシと同じく、タカもメスの体の方が大きく、メスを「弟(ダイ)」、オスを「兄(ショウ)」と呼び、鷹狩にはメスを使うことが多かったようです。

 

ところで、各地から集まった「鷹待」はその後、大事件を引き起こします。「鷹待」はタカの巣を探しにアイヌの狩猟テリトリーに勝手に入り込み、アイヌの狩猟場を荒らしました。また砂金採りにやって来た和人も多く、彼らも川底を掘り、鮭の産卵場所を荒らし回っていました。当時、鷹の捕獲や砂金採りのために本州からやってきた和人は3~5万人はいたといいます。そのため、彼らがアイヌの怒りに火をつけてしまいます。それが「シャクシャインの乱」(1669年)の原因のひとつでもありました。

 

タカの羽がどれだけの収益を上げていたかというと、この反乱直前の、松前藩による藩主直轄地での「タカ」関係の収益が、なんと藩財政の3分の1を占めたといい、およそ2500両に達していたようです(他藩の鷹待による収益は不明)。