北の交易品② 北の勇者・オオワシを愛した人びと | 蝦夷之風/EZO no KAZE

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武蔵の国から移り住んで以来、日増しに高まる「北海道」への思いを、かつて「蝦夷」といわれたこの地の道筋をたどりながら、つれづれに書き留めてみます。

オオワシは、嘴(くちばし)と趾(あし)が黄色いのが目印。成鳥の尾羽は白い。

 

ワシやタカなど、他の動物を捕食する習性のある鳥類を猛禽類と呼びますが、中でも大型のオオワシやオジロワシは主に魚を主食とする「海鷲類」に分類されます。主な繁殖地は沿海州やアムール川流域、樺太北部からカムチャッカ半島にいたるオホーツク海沿岸部で、冬になると樺太経由で北海道へ渡って越冬し、春になると飛んで来た道をUターンして戻ります(オジロワシは何故か千島経由で来て、時計回りに循環するそうです)。その行動範囲はかつての北方交易の範囲とまったく重なっているのがわかります(下図)。

 

しかし、同じ海鷲類の北米のハクトウワシが国家的な保護政策により今でも12万羽生息しているのに対し、オオワシは現在推定5000~7000羽という希少種で、IUCN(国際自然保護連合)のレッドリストで絶滅危惧種(他はタンチョウヅルとシマフクロウ)に登録されました。これは、過去、オオワシが北方交易を代表する交易品として乱獲され、その後、十分な保護対策がなされなかったことが影響しているのは確かでしょう。こうした事実を踏まえ、オオワシをめぐる交易の歴史を見ていきたいと思います。

 

(最終捕食者であるオオワシを保護することはその地域の生態系の保護につながるため、1989年から日露共同でオオワシの動態調査が行われています。1990年以後、エゾシカの死体を食べて鉛中毒で死亡するケースが増えているため、越冬地の北海道でオオワシをどう保護していくかは重要な課題となっています。日露共同調査資料より)

 

実用性+装飾性が魅力のオオワシの尾羽

 

オオワシは、両翼を広げた翼長が最大2.5mと猛禽類の中で最も大きく、その羽はコシがあり、張りが強かったことから、古来、戦闘用の弓矢の矢羽根に使われてきました。アイヌをはじめ、北方民族の間では、風切(かぜきり)羽と呼ぶ、両翼の先の方の羽(羽先の初列は10枚)を常用していたようですが、オオワシ特有の14枚ある尾羽(ほかのワシやタカはほとんど12枚)が、成長に合わせて模様が変わってゆく装飾性にも優れた羽であったことから、特に貴族や武士の間で破格の人気となりました。

 

なぜか聖徳太子がわずか10歳のころ、蝦夷退治をしたという伝説があり、鎌倉末期に作られた絵伝には、蝦夷が太子に「命と等しい財」である「ワシの名羽」を差し出して命乞いしたシーンが描かれています。この名羽には「切符(きりふ)、中黒(なかぐろ)、妻黒(つまぐろ)、天面(あまのおもて)、遠霞(とおがすみ)、村雲(むらくも)」と、羽の部位や模様の違いにより名前がついていたそうで、それほど「ワシの羽」に価値があったことがわかります(瀬川拓郎『アイヌの歴史』---ワシ羽をもとめる人びと---より)。

 

また、平安中期に源高明がまとめた『西宮記(せいきゅうき)』という儀式書では、伊勢神宮遷宮の際には「神宝」として鷲羽八百枚が必要とされた(簑島栄紀氏『ワシの羽をめぐる日本とアイヌ』」より)そうです。また、奥州藤原氏の二代基衡が毛越寺本尊を京都の雲慶(運慶と同一人物?)に依頼した時の代金が、砂金百両、鷲羽百尻、水豹(アザラシ)皮六十余枚、安達絹千疋などなど、膨大な品を送ったとあります。鷲羽の単位「尻」とは、尾羽14枚セットのことです。

 

北海道経由で交易される北方産のワシの羽は、京都や鎌倉に直接送られたわけではなく、東北の有力者である陸奥の国守や鎮守府将軍、その後は奥州藤原氏の元に集められ、大きな利権となります。源頼朝が奥州藤原氏を攻めたのは、この「ワシの羽」利権を得んがためだったという側面もあったようで、藤原氏殲滅後、ワシの羽を手に入れた頼朝が京都の後白河法皇に「鷲羽一櫃(ひつ)」など、何度も寄進したと、外交の手段として使ったという記述(前記・簑島氏)があるようです。

 

「一櫃」がどのくらいの量かは不明ですが、さすがにこれではワシの乱獲になるのは当然と思うかもしれませんが、実は鳥類には成長とともに羽が生え変わる「換羽」があり、オオタカだと1年に1度生え変わるといい、オオワシでも少なくとも生涯に3~4回は抜け替わるので、若鳥を捕獲すると何度も羽が手に入り効率的となります。

 

ワシ類の捕獲には弓は使えないため、アイヌは草むらなどに隠れて、大きなかぎ針で脚を引っかけて捕まえたとか。大陸では、紐の両端に丸い石を結びつけたボーラと呼ぶ玉つき投げ縄をワシに投げつけて捕獲していたようです(前記・瀬川氏)