史実に残るアイヌのルーツとユーカラの真実 | 蝦夷之風/EZO no KAZE

蝦夷之風/EZO no KAZE

武蔵の国から移り住んで以来、日増しに高まる「北海道」への思いを、かつて「蝦夷」といわれたこの地の道筋をたどりながら、つれづれに書き留めてみます。

『諏訪大明神絵詞』(権祝本)/wikipedia

 

『諏訪大明神絵詞(えことば)』は、北海道の歴史に関心のある人なら必ず目にする貴重な史料です。「諏訪大明神」とは、もちろん信州にあるあの諏訪神社のこと。延文元(1356)年に、鎌倉幕府の奉行人だった諏訪円忠が、諏訪大明神の霊験あらたかなることを書き留めた12巻の絵巻物で、現存するのは文字部分の写本のみですが、この中に奥州藤原氏滅亡後、幕府から夷島(北海道)の管理を任されていた蝦夷管領・安藤氏の内紛について書かれた章があり、13~14世紀ころの夷島とアイヌのルーツが描かれています。

 

「蝦夷カ千島」は我が国の東北の大海の中央にあり、

日ノ本(ひのもと)、唐子(からこ)、渡党(わたりとう)の3類が群居している。

日ノ本、唐子は外国に連なり、見た目は夜叉のようで、

禽獣や魚肉を食し、農耕は知らず。また言葉はほとんど通じない。

 

一方、渡党は渡島半島南部にいて、津軽と交易のため往来している。

和国の人と似ているが、髭や髪が長く、ほぼ全身毛だらけ。

ただし、言葉になまりはあるが大半は通じる。

 

男女とも馬には乗らず、山野を飛ぶ鳥や獣のように身軽に動き、

骨鏃に毒を塗った矢を使い、戦いには男は甲冑・弓矢で臨み、

女は後方で木幣(イナウ)をもって天に祈る。

 

「日ノ本」は道東から千島列島に連なる東蝦夷地に住んでいた人々で、この地特有の海獣、水豹(アザラシ)や葦鹿(アシカ)、海虎(ラッコ)を捕獲し、その毛皮を主な交易品としていました。「唐子」は「唐太(カラフト)」の「唐」に通じると思われ、大陸から樺太経由で北海道の日本海側を拠点としていました。海の民として漁労中心の生活を送っており、また海獣などの毛皮を扱うほか、鷲や鷹の多い土地だけに、平安貴族の間で人気の高かった「粛慎羽」といわれる高級な矢羽を交易していたようです。

 

一方、「渡党」はアイヌの特徴と酷似しているため、ほぼ現在のアイヌ民族のルーツだと言われています。その後、「渡党」ことアイヌが夷島に生き残っていく過程で、アイヌを軸とした相互交流により他のグループと混ざり合っていったのか、または勢力争いに負けたグループが追い出され、淘汰されていったのか、どちらかが考えられます。

 

文字を持たないアイヌですが、彼らが口伝えてきた「ユーカラ」の分析を行った知里真志保氏によれば、ユーカラは夷島(北海道)を本拠とする「ヤウンクル ya-un-kur/内の人の意味」と大陸から海を越え、夷島の日本海沿岸からオホーツク沿岸に拠点を築いた北方民族の「レプンクル rep-un-kur/沖の人」との間に起こった争いがモチーフになっていると説明しました。このユーカラの成立に歴史的な背景が反映していると考えれば、「渡党」のアイヌは、北方系の「日ノ本」や「唐子」との争いを経て、彼らを夷島から駆逐したものと考えても不思議ではないでしょう。

 

津軽海峡の往来で力をつける「渡党」

 

ところで、『絵詞』に描かれた蝦夷管領・安藤氏は、奥州藤原氏の滅亡後、幕府執権の北条義時が「東夷の抑えのために津軽に置いた代官」でした。そのため、京都や鎌倉で捕縛した罪人の夷島への移送を担うほか、津軽や渡島の蝦夷が離反しないよう、にらみを利かせる立場にありました。しかし、蝦夷たちのもたらす「北方の富」は大きな利益もたらすため、その利権が一族の内紛を引き起こす原因になります。そして互いに蝦夷を味方につけ、いつしか彼らの富と軍事力に頼らざるを得なくなっていきます。

 

文永5(1268)年に起こった津軽蝦夷の反乱で安藤氏の頭領・五郎が殺されたのを発端に、以後、安藤氏のお家騒動は60年近く続きますが、この騒動に多くの蝦夷が加担していく中で、夷島の蝦夷である「渡党」の組織化に拍車がかかります。彼らの中から力をつけたものがリーダーとなり、「渡党」は次第に無視できない勢力に成長していきます。実際、この騒乱の制圧に手間取ったことにより鎌倉幕府の威信はゆらぎ、元弘3(1333)年の鎌倉幕府滅亡の遠因になったというから、蝦夷おそるべしです。

 

ちなみに、正保3(1646)年にまとめられた松前藩の歴史書『新羅之記録』では、鎌倉時代前後から津軽経由で海を渡って来た和人や流刑人たちのことを「渡党」と呼んでいます。『シャクシャインの戦い』の著者・平山裕人氏は、「渡党」は前期と後期で意味が変わる、としています。となると、前期の「渡党」たるアイヌと、和人の「渡党」の末裔が集団化し、松前藩の成立につながる後期の「渡党」が、以後、対立する図式になります。