北の「元寇」に立ち向かった戦いの民・アイヌ | 蝦夷之風/EZO no KAZE

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武蔵の国から移り住んで以来、日増しに高まる「北海道」への思いを、かつて「蝦夷」といわれたこの地の道筋をたどりながら、つれづれに書き留めてみます。

  13世紀ころの北方世界の勢力図                    元軍と戦ったカラフトアイヌの軍装

  『樺太アイヌ民族誌』(大塚和義)より          (『蝦夷島』と北方世界』より)

 

「元寇」と言えば、1274年の「文永の役」、1281年の「弘安の役」の2度にわたる元軍の九州来襲を思い浮かべるでしょう。しかし、同じ時期に元軍は北方ルートでも来襲し、アイヌと50年近く壮絶な戦いを繰り広げたことはほとんど知られていません。

最初にこの話を聞いたときは「まさか」と思いましたが、元朝の歴史書『元史』に、はっきりと記録が残っています。

 

中国暦の至元元(1264)年11月、樺太の先住民である「吉里迷(ぎれみ jilimi)」(アムール川下流域から樺太に住んでいたギリヤーク。ニブフとも呼ばれた)は、樺太に進出してきたアイヌ(中国名で「骨嵬(くい ku-yi)」)に攻められたため、元に助けを求め、元は骨嵬を討ったといいます。これが元とアイヌの最初の戦いです。

 

さらに20年後の1284年から3年にわたり、元は2度目の遠征を行い、1286年には1万人(実数は数千人規模か?)の兵と軍船千艘(これも実数は数百艘規模か)の大軍でアイヌと交戦したようです。しかし、アイヌもしぶとく抗戦し、翌1297年以後は、「瓦英(うぁいん)」と「王不廉古(ゆぶれんく)」が率いるアイヌ部隊は大陸まで渡り、元軍と何度か衝突を繰り返した末に、ついに1308年に降伏し、以後、獣皮を毎年、貢ぐことで和解したといいます(『アイヌ 民族の歴史』(関口明ほか編)より)。

 

元軍は多方面での戦闘が足かせとなり、戦線拡大の見直しが「和解」に至った理由かと思いますが、それにしても大国「元」を相手にしたアイヌの奮戦ぶりには驚くばかりです。「交易の民」は、同時に各地の北方民族と勢力争いを繰り広げた「戦いの民」でもありました。『アイヌ学入門』の著者・瀬川拓郎氏が「実はアイヌはヴァイキングだった」と指摘したのも納得ですね。

 

アイヌが樺太へ進出した目的は「鷲と鷹」

 

アイヌの樺太進出が13世紀ころとすると、『諏訪大明神絵詞』に描かれた「夷島三国志的な状況」は、逆算すると11~12世紀ころとみるべきですが、この鼎立状態から抜け出し、樺太まで進出したアイヌの目的は何だったのでしょう。

その答えも『元史』にありました。

 

大陸まで渡ったアイヌは、先住民のニブフの「打鷹人(だようじん)」を捕虜にしたとあります。打鷹人とは、鷲や鷹の捕獲を専門に行う人々のことで、アムール川流域はオオワシやクマタカなどの生息地として知られており、モンゴル人は彼ら専門職を抱えこみ、矢羽の確保と鷹狩り用の鷹の育成を行っていたようです。

 

もちろん、日本国内でも、北方からもたらされる鷲の羽(オオワシの尾羽が最高級品)やクマタカやオオタカの幼鳥は平安貴族から鎌倉武士の間で大変な人気商品だったため、アイヌは貴重な交易品である鷲と鷹の確保が目的で樺太まで進出したのです。その後、千島列島周辺でも捕獲できると知り、さらに交易ネットワークは列島沿いに北上して行くことになります。

 

室町時代中期から末期に若狭国で流行った「商踊り(あきないおどり)」は、当時、夷島からもたらされる「北方の富」がどんなものだったかを示す貴重な「証拠」と言われています。

 

夷が島では夷殿(えぞどの)と商元では何々と

唐の衣や唐糸や じんやじやこうやたかの羽や

商踊りをひと踊り

 

「唐の衣」はアイヌの首長が着ていた「蝦夷錦」と呼ばれた中国緞子、「じん」は沈香(じんこう)、「じやこう」はジャコウジカから採れる麝香で、これらの貴重なお宝と並んで「たかの羽」が謡われていたということは、どれだけ高価な品だったかがわかります。

 

「たかの羽」については面白い話が多いので、章を改めて詳しく書く予定です。