源義経は生き延びてアイヌの神になった?! | 蝦夷之風/EZO no KAZE

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武蔵の国から移り住んで以来、日増しに高まる「北海道」への思いを、かつて「蝦夷」といわれたこの地の道筋をたどりながら、つれづれに書き留めてみます。

『アイヌ風俗絵巻』(市立函館博物館所蔵)

 

室町時代に流行したお伽草子『御曹司島渡(おんぞうし・しまわたり)』の主役である「御曹司」とは源義経のことで、「島」とは「蝦夷が島」を指し、義経が蝦夷が島にある「千島喜見城」に住む鬼の大王に会うため、途中、さまざまな不思議な島をめぐる、まるで日本版ガリバー旅行記のような内容になっています。室町初期には『義経記(ぎけいき)』も出版され、スーパーヒーローにして悲劇の人であった義経のブームが起き、いつしか義経は生き延びて北海道に渡ったという話が広がりました。

 

一見、荒唐無稽に思われるこの物語には、裏付けとなる「事実」があります。

 

兄頼朝に嫌われ、東北に逃げてきた義経は奥州藤原氏に匿われます。東北蝦夷の血を受け継ぎ、「俘囚之上頭」を名乗っていた藤原氏は、白河の関から陸奥湾に至る奥州一円を支配し、十三湊を拠点に各地の蝦夷や北方民族との交易ルートを持っていました。四代泰衡は頼朝に攻められ、落ち延びる途中で贄柵(にえのさく、秋田・大館)で殺されますが、その行き先は「夷島」だったと思われており、彼の残党がそのまま夷島に逃れた可能性は否定できません。

 

また、鎌倉時代には「夷島」は罪人の流刑地として、頻繁に罪人の護送などが行われていたことが分かっており、「自害したはずの義経は実は生き延びて蝦夷に渡った」という話が出てくる時代状況があったことになります。

 

アイヌの伝承に残る義経のお宝

 

一方、アイヌの人たちの伝承の中にも、「義経」が夷島に渡って来て、農耕や機織り、船の作り方などを伝えたという話が残っています。そのため、アイヌに弓矢や網など、生活に欠かせないものを教えた、アイヌ創世の神「オキクルミ」になぞらえて、義経を崇めるようになったというのです。また、アイヌのお宝として知られる「鍬形(くわがた)」も、義経の兜に似せて作ったものだと、松前氏の書付に残っています。

 

 

 「鍬形」を持つアイヌの酋長

(蠣崎波響「東武画像」より)

 

江戸期に入った寛文7(1667)年には、蝦夷調査に向かった幕府の巡検使の一人、中根宇衛門が、アイヌが「オキクルミ」を「判官殿」と呼び、今も「義経」を信奉しているという話を報告すると、江戸中の話題となったといいます。これを伝え聞いた林羅山や新井白石といった幕府の要人までもが、この義経伝説を書き残しています。

 

さらに寛政11(1799)年に蝦夷地探検に出た近藤重蔵は、アイヌが「義経」の存在を語り継ぎ、神のように崇めていることを知って平取町に「義経神社」を創建しました。この神社創建が「義経伝説」の伝播に拍車をかけたのは間違いないようです。

 

その後、江戸末期から明治になって、義経とアイヌの出会いを描いた絵馬がいくつも描かれましたが、「義経=オキクルミ説は、18世紀末以降、アイヌを日本人に帰属させる政策のために、幕府が利用し、広く流布したものだろう」(元北海道博物館・春木晶子氏「蝦夷地に渡った源義経の伝説」より)のようです。

 

東北の三陸から津軽の三厩にかけて、「義経北行伝説」という逃亡ルートの伝承地が数多く残っており、また北海道にも「義経伝説」が言い伝えられている場所が100カ所以上あるといいます。時代を越えてこれほど逸話の残るヒーローはそうはいませんよね。

 

ちなみに、この義経が大陸に渡り、モンゴルの英雄・チンギスハンになったと唱えたのは、あのシーボルトです。両者の年齢がほぼ一致することから大胆な推論をしたとはいえ、ほとんど証拠はないようです。