文楽や歌舞伎必見の五十演目の一題に
『冥途の飛脚』があります。
大和・新口村の百姓・四兵衛の息子・清八が、大坂・淡路町の飛脚屋に
養子に出て、亀屋忠兵衛と名乗っていました。忠兵衛は新町の遊女
梅川に通い詰めで、見受けをするため公金に手を付け新口村へ
逃亡します。が新口村で御用となり刑場の露に 。・゚・(ノД`)・゚・。
産湯稲荷参拝の後、神社前の道を北にむかうと (-ω-)/
味原幼稚園前の交差点に出てきます。
この先に大正6年(1919)まで味原池がありました。
寛政8年(1796)刊行の攝津名所図会によれば、
『味原池 小橋村の西に在り 一名比賣許曾神の
御池という 土人溜池とよぶ』と記しています。
画像は早稲田大学図書館蔵から借用しました。
大小橋命誕生の際に産湯に使ったと言われるほど、
味原の地は名水の地だったようです。
またこの近辺一帯は一面桃畑が広がっていたそうです。
『弥生の初句 花の頃は老若男女うち群れて
野径に充満す』と難波の賑いに
記されています。
画像は大阪府立中之島図書館から借用しました。
明治から大正にかけて住宅開発が進み味原池は
その容姿を変え、大正6年(1919)に完全に
埋め立てられてしまいました。
跡地は帝国陸軍の騎兵第四連隊兵舎が( ^ω^)・・・
画像はWeb上から借用しました。
味原幼稚園前を左に曲がって次の角を右に曲がると (・・?
彌榮神社があります。
彌榮神社の境内に味原池を含む味原町の
区画整理をした記念碑が設けられています。
『風化して何て書いてあるか読めません』
彌榮神社から元の道に戻り西に向かって進みます。
直ぐに味原本町の交差点に出てきます。
ここを右(北)に曲がると真田丸があった空堀へ、
南に下れば元の小橋町の交差点に、
出ますが、今日は
西へ
大阪南郵便局城南寺町分室西隣の
専門学校の一角に
工エエェェ(´д`)ェェエエ工
専門学校舎の一角にせいぜい20㎡足らずのコーナーに、
中央に地蔵菩薩、その右隣に江戸時代の数学者・
福田理軒の墓碑、左横の小さな墓碑が ❔
右に忠兵衛左に梅川の墓碑が並んでいます。
元々はこの地にあった伝光寺境内に祀られていたのですが、
昭和20年(1945)の大阪大空襲で寺は全焼し、
再建されたのですが、
何故か地蔵菩薩像と福田理軒、忠兵衛・梅川の
墓碑だけが・・・・・(´ε`;)ウーン…
取り残されてます。
ちゃんと供養したれへんかったら祟るで
藤十郎さんの封印切りを頭に浮かべながら、
次の角を右(北)に向かいます。
ほな又此の辺で