Q
平家は美少年が多かったのでしょうか?
A
特に「多かった」ということは「平家物語」にも書かれてはいません
ただ、全体に貴族として見た時に、京都貴族としての洗練度が高かったということは書かれています
【今日は、九郎大夫の判官義経、先陣を供奉す。これは木曽などには似ず、以ての外に京慣れたりしかども、平家の中の選り屑よりもなほ劣れり。】(巻十「大嘗会の沙汰」)
京での儀式での見物人の評判で、源義経は木曽義仲に比べれば都慣れして洗練されているようにみえるが、平家の公達に比較すれば、その最低よりも劣ると書かれています
平家の公達の一番の美男子は、清盛の嫡孫の維盛です
【大将軍、小松の権の亮維盛は、生年二十三、容儀帯佩、絵にかくとも筆も及び難し。】(巻五「富士川」)
後白河院の五十御賀で「青海波」を舞った維盛は、光源氏を彷彿とさせる書き方です
【一門の公卿殿上人、今日を晴れと時めき、垣代に立ち給ひし中より、この三位の中将(維盛)殿、桜の花をかざいて青海波を舞うて出でられたりしかば、露に媚びたる花の御姿、風に翻る舞の袖、地を照らし、天も輝くばかりなり。女院より、関白殿を御使にて、御衣を掛けられしかば、父の大臣(重盛:清盛の嫡子)殿、座を立ち、これを賜はつて、右の肩にかけ、院を拝し奉り給ふ。面目、たぐひ少なうぞ見えし。かたへの殿上人も、いかばかりうらやましうや思はれけん。内裏の女房たちの中には「深山木の中の楊梅とこそ覚ゆれ。」なんどいはれ給ひし人ぞかし。】(巻十「熊野参詣」)
この時の維盛の美しさは、目撃した他の貴族や女房の日記等にも書かれていて、信ぴょう性があります