古典も現代文も本当は面白いはずなのに

古典も現代文も本当は面白いはずなのに

Yahoo!知恵袋でのベストアンサー・自選回答集積ブログ(でしたが、最近は21世紀前半の日本の世相の記録とも考えています。個人情報保護のため一部改変あり。)

Q

助動詞の意味はどうやって決めたんですか。たとえばケリはなぜ詠嘆なんですかと聞くと辞書に詠嘆と書いてあるからと答える無能教師がいます。数学はちゃんと証明してくれますよ。

 

A

数学の定理の証明は、教科書に書いてあります。助動詞の意味は、文法テキストに書いてあるが、それ以上(助動詞の意味はどうやって決めたのか)の説明は書いていない。教科書の内容が自力でわからない生徒にその説明を求められたなら、教員ならば、ふつうは答えられる。「ケリはなぜ詠嘆か」という説明は、教科書にもないどころか教師用指導書にもない。そのレベルの説明のできない教員を無能と呼びたいなら、そう呼べばよいだろう(。そうすることで何の利益が得られるのかは知らないが)。
以下回答する。画像参照。
『ポケット古語辞典』(蒼明社1947)には「けり」の意味が「過去」「詠嘆」となっている。これ以前の文典・辞書等に「詠嘆」という用語を私は確認できない。『日本文典』(修文館1908)には、「過去」「余情」となっている。『広日本文典』(1900)には、助動詞「けり」の意味は「過去」「念押し」となっている。
「ケリはなぜ詠嘆なんですか」という中高生の問いに答えるのに、私は当惑する。まずは【「念押し」「余情」と「詠嘆」の区別、差異の有無を、中高生に理解できるだろうか。】と。問題は、質問者がそこまでの知識を欲しているかどうかに移行する。
助動詞の意味は、教科書本文や辞書・文法テキストの例文の意味を精査することで、中高生でもそれを確認することができる。それは、数学における定理の証明を理解することに相当する。数学で問題演習を重ねて各定理を習得することは、古文本文の精読を重ねて各文法知識を習得することに相当する。
語学としての古文学習は、数学の学習と基本同じ行為であることを教員は中高生に教えられなくてはならない。それをしない、それができない教員は確かに無能呼ばわりされても仕方がないだろう。

 

Q

国語科の模擬授業で『大人になれなかった弟たちに・・・・・・』という中1光村図書と教材を扱う予定です。授業では題名に注目してやるつもりです。そこで1点気になった点があります。原作?
の米倉斉加年さんの絵本では『おとなになれなかった弟たち・・・・・』と「大人」が「おとな」に・(点)の数も6から5になっていますが、これは何か意図するものなのでしょうか。
教科書に載せるためにわざとこうしたのか、あるいは何かほかの意図があるのか是非知りたいです。
ご存知の方いらっしゃいましたから是非教えていただきたいです。

 

A

質問に回答します。
出版者(記憶では光村図書。その中学国語教科書担当)へ問い合わせのメール(ないしは電話・手紙)をお出しになれば、確かな情報はおそらくすぐに得られます。かりに「差異に意味がある」と同社が判断しているならば、教師用指導書に何らかの記述があるはずです。
以下は蛇足。
あなたは「授業では題名に注目してやるつもりです」「是非知りたい」と書きますが、一体何目的で、何のためですか。私が指導教官であったなら、「題名を考えることが、この作品を学ぶ上でどんな意味があると考えたのか」と質すでしょう。
あなたはこの作品を読まれましたか。すでに読んでいるなら、この作品の内容に、質問にお書きのそれらの変更が意味を持つかどうか、さらには学習者が読解鑑賞のために考慮する価値があるかどうか、判断ができませんでしたか。
私は今月上旬に、この教材をある生徒に教えるために再読し、生徒とともに精読し、内容をよく覚えています。この作品には、現代の中学生がおよそ気づかない、内容を考えるために知るべき事実が多くあります。たとえば「配給」、あるいは入院した病院へ母と作者が毎日通った意味やその内容、広く言えば、太平洋戦争(15年戦争)末期、1945年春から夏の国内状況です。それらを学習者に共通了解事項として教えることは、この作品の理解には必須です。
「気になったこと」は否定しません。しかし同時に、「気になったことに対する価値判断の根拠及び適否」については、教授者として問われる(べきである)ということは、自覚的であるべきでしょう。かりにこの教材を教える教師が、「題名及びその変更」について授業で触れるとしたら、私はその教授を、学習者の注意を作品の本質からそらせる非本質的行為として評価します。

Q

最近観た映画で、一番「観てよかった!」って思った作品は何?

 

A

「私はあなたを知らない、」
「主人公(ゆうへい)はあの時の私自身だ。」と初めてそう感じた映画。最初の週で3回観た。ムビチケを送ってきてくれた友人が、監督のサイン入りのパンフも送ってきてくれた。一生の中で特別な映画になった。

 

 

Q

こちらの古筆にくずし字で書かれている内容は何かの文学作品の内容でしょうか?由緒がわかる方、解読お願いします。

 

 

A

と思いますが、マイナーな作品です。
高師直が吉野を攻めた時、滝口長しげが聞き落ちしたのを、源やす村が嘲弄する歌を詠んだ。それを聞いた長しげが、何とか返歌を詠みたいと思い云々という内容です。
あるいは『吉野拾遺』などに見える話の一部の写本かと思いますが、存じません。たいへん読みやすい字で書いてある、よい写本断簡と思います。
やはり吉野拾遺です。画像参照。画像2行目の歌から、左ページ和歌の次の行「此返しをせんと」までの個所の写本の一部です。

 

 

質問者からのお礼コメント
自分で読んで見ても納得の当てはまり度でした、ありがとうございます!

 

Q

最近、言語文化で「筒井筒」を習ったんですが、何を伝えたいのでしょうか。男最低すぎませんか?女の親が死んでより所が無くなったからって違う女のとこに通うのクズすぎませんか?
そんな暇あったら働けよって思うし、幼なじみでこの女と結婚するんだって思ってたんですよね?浮気相手とはいえ、高安の女のとこに行くよって言ってたのに行かなくなったのも相手が可哀想だし、自分勝手すぎませんか?妻の女が嫌がらずに送り出してるのも疑問に思います。女が軽視されてるように感じます。昔は女の身分が低かったし一夫多妻制が基本だったからしょうがないんですか?

 

A

物語は、その物語を伝えたいので、それを物語ったのです。物語の他に伝えたいものなどありません。
物語が文学すなわち言語芸術であるのは、他の芸術同様に、それを享受する人が共感し感動して初めて、享受者の心の中に美が現出します。あなたも一享受者です。あなたという享受者がこの物語を否定するなら、そこまでの縁です。
文学作品を理解するには一定の知識教養が必要です。「より所が無くなったからって…そんな暇あったら働けよ」とありますが、当時の社会で、働いて対価を得られる有報酬労働が、一定以上の身分のある人が探して得られたのですか。得られるような社会であったのならば、あなたの感想にも意味があります。
王朝文学作品では、現在では是認しがたい性差別が標準装備されています。2014年センター国語は満点者が0人でしたが、その一因は、平均点が10点台だった古文「源氏物語」にありました。夫夕霧の浮気に怒り実家に帰った正妻玉鬘に、夫夕霧が「そんな態度はよくない」と説教を垂れる場面が、受験生には想像の外であったのです。筒井筒を現代人の倫理観で読めば、あなたの感想は至極当然です。王朝文学は、現代人が共感しにくいのです。しかしそれを学び知ることは、現代日本社会を知る上で有益です。なぜなら現代日本は今も世界有数の性差別社会であり、ジェンダーギャップ指数は3桁の順位だからです。

 

 

質問者からのお礼コメント

現代の感覚で呼んでいたので、昔の人達の常識に非常に驚きました。時代が違う物語を読む時は、その当時の時代背景などをきちんと調べながら読み進めていきたいと思います。ご回答ありがとうございました!

Q

昔の映画は二本立て、全席自由席、入れ替えなしが当たり前でした。
皆さんの思い出に残る作品はなんですか?
私は「東映まんがまつり」です!なんと六本立て朝入館して最終回まで
三回位見てました。次に「夜明けのランナー」と「逃がれの街」これも良かったです。

 

A

「ジョーズ」(1975年)。
当時は二本立てが普通だった時代に、生意気にも一本立てだった。それでも観に連れて行ってもらったら、中途半端な時間につき、館内は押すな押すなの盛況で、「次の回は座って観られるから。」と途中入場し、最初は立ち見だった。計画通り、次の回は最初から座れたが、後半は一度観ていたので興ざめし、途中で出てきた。その時、「映画は最初から観るものだ。」ということを学んだ気がする。

地方は洋画でも二本立てが普通だった。忘れられないのは「ブルベイカー」(1980年)と「ローズ」(1979年)の二本立て。映画好きの親友と観に行き、彼は「ローズ」を酷評し、私は内心、彼に愛想を尽かした。
主題歌The Roseは今でもスマホに入れてよく聴く。歌詞もすべて覚えている。高畑勲が「思ひ出ぽろぽろ」(1991年)のエンディング曲に採用してくれたのは、嬉しかった。訳詞もよかった。歌唱が演歌歌手の都はるみだったのが意外で、おそらくあれは高畑の趣味なんだろうと思う。

Q

徒然草最終段に付いて貴台の評価をお願いします。(某大学院博士課程課題)

 

A

森鴎外が「寒山拾得縁起」でこの段を引き、ほぼこの段を反復再現している。それは鴎外がこの話に与えた一つの明白な答えであるように思う。
人間が問い、人間が答える。問答は人間間でなされる。問答が成立する時、智慧の授受が行われる。問う人間が納得しない時、そこには問う人間の問題が生起する。問う人間の不納得は、答えの真実性を毀損しない。
「人間は仏の教えにより仏になる。」そこに「最初」も「最後」もない。その「最初」を問うのは意味がない。「最初」は個人である必要はない。

以上は私の考えです。文句を付けないように。納得するしないはあなたの問題です。

Q

共通テストの古文・漢文の勉強方法を教えてください。現在高校2年生なのですが、苦手分野で何も勉強してきませんでした。今更ですが焦っています。
今持っている教材は学校で買ったものです。
・精選 言語文化、その問題集
・古典の手引き、その定着ノート
・新編言語文化
・Keypoint古文単語 300
この教材でできる勉強とおすすめの問題集などを教えてください。

 

A

何をするかよりも、どう取り組むかが、英語や国語と言った語学では決定的に重要だ。進学校の生徒なら、30編余りの文章と設問を載せた傍用問題集も、年度ごとに渡されるはずだ。それがリストにないのはどうしてか。 故意に載せなかったのなら、その意識こそが、あなたが「苦手」だという原因だろう。それは「苦手」なのではなく、おそらくは学力が弱いだけだ。語学は数学などとは性質が違う。とにかく馴れることがその要諦だ。小利口にその分野をクリアしていく発想の人間は伸びない。 傍用問題集の本文を一年通して緻密に精読する者が結局は伸びる。その差は何をどう使おうと埋まりはしない。「○○でわかる古文」などは愚かで怠惰な人間を騙す宣伝文句にすぎない。それに飛びついては空しく受験を終わる者は無数にいる。いつの世にも狡猾な者に騙される愚か者は絶えない。精神が怠惰で愚かで貪欲な者は騙されるべくして騙されるのだ。

 

返信A

私は別に先の回答を読んで回答してはいない。もう半世紀近く国語を教えてきたものとして、ただ経験知を返したまでだ。気を悪くしないでほしい。

Q

左衛門佐にあひぬれば、梨壺の五人が計らひもものならず。
なぜ、左衛門佐にかかってしまうと、梨壺の五人が取り決めた「後撰集」もものの数ではない。という訳になるのですか?

 

A

「梨壺の五人」は、第二の勅撰和歌集『後撰和歌集』(950年代成立)の編者です。「左衛門佐」は、藤原基俊を指します。「ものの数ではない」とは、「劣っていて、取るに足りない」という意味です。
回答)藤原基俊が、梨壺の五人が優れた歌として『後撰和歌集』に選んだ歌ニ十首を批判し、それぞれの歌の欠点を指摘したことは、【藤原基俊にとっては『後撰和歌集』の歌も評価するに値しないことを意味する。】ということ。
画像は池田富蔵氏によるこの話の要約と解説(「藤原基俊における初期歌論の特質」)。

 

Q

「また、これぞあればよく食ふ日」が、「これこれがあればよく食べる日」と訳されてるのですが、このように仮定条件を表すなら、「これぞあらば」、じゃないですか?

 

 

A

仮名暦とは、二十四節季や六曜、寺社の祭礼や年中行事など、「必ず誰にでも到来し該当する事項」が書かれているものです。内容的には江戸時代の伊勢暦、近代以降も神宮暦として、今も冊子体で作成されています。
「これぞあればよく食ふ日」は、たとえば端午の節句(5月5日)には柏餅や粽など、年中行事などで習慣的に食べる物を書いたと考えられます。
回答ですが、それは語訳です。「ば」は已然形「あれ」に接続しているので、確定条件です。未然形「あら」+「ば」ではないので、「これこれがあれば」と訳すのは誤りです。確定条件がなぜここで必要なのかは不審です。年中行事につきものの食物なら、確定恒常条件などは必要なく、「これをよく食ふ日」でよいのです。実はこの辺りからその先の、明らかに奇妙な内容(はこすべからず)が予告されているのです。訳作成者は訳に困ったのでしょうが、文意を正確にとらえられなかったのです。文意さえ理解できていれば、「そもそもここには条件節自体が不要であるはず」とわかり、「(この日には)これがある(ものな)ので十分に食べる日」などと訳すのが正しいのです。