芥川龍之介「羅生門」 下人は犯罪を犯してもなお生きるべきか? | 古典も現代文も本当は面白いはずなのに

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Yahoo!知恵袋でのベストアンサー・自選回答集積ブログ(でしたが、最近は21世紀前半の日本の世相の記録とも考えています。個人情報保護のため一部改変あり。)

Q

羅生門の下人は犯罪を犯してもなお生きるべきでしょうか?
それとも犯罪を犯したら死ぬべきでしょうか?
どちらの意見も根拠を交えて教えて欲しいです。(なるべく後者の質問の方を答えていただきたいです。)
よろしくお願い致します。

 

A

そもそも、いかなる犯罪を犯したとしても、「死ぬべき人」という人がこの世にいるのですか?
他者に対して「あなたは死ぬべきだ」と判断してよい立場というのが、この世に存在する(存在してよいも)のですか?
いったい誰が考えた疑問か存じませんが、今の学校は恐ろしい教育をするものですね
私には信じられません

現在、いまだ死刑を廃止していない国家は、人権意識のまともな水準にある先進各国にはほとんどありません
その数少ない中に日本がありますが、「あなたは国法に照らして死ぬべき人だ」と判断する人としては、刑事裁判の裁判官だけが存在します
そうした特殊な職業に就いている人を除き、「死ぬべき人」を決められる人は、日本にもいないはずです
文学作品を考える前に、現代社会を最低限知る必要があるのではないか、それを教えた上で文学作品を考えさせるべきでしょう
恐ろしい教育ですが、同時にお粗末な教育です
貴方は恐らく高校生でしょうが、羅生門云々以前に、ご自分の受けてみえる教育について、その質をお考えになられた方がよろしいかと存じます
私も元は高校で国語を教えた経験がありますが、このご質問が公教育の国語の学習課題であるならば、全く考えられない質の悪さです

あまり驚いたので、ご質問に回答する事を忘れてしまいました
以下、極力シンプルにお答えします
この世に生を受けた人で、「生きるべきでない人」など存在しません
これは、年齢、性別、民族、病気や障害の有無、能力等々に関係ありません
いわゆる基本的人権です
それを自明の前提としていない点で、「犯罪を犯したら死ぬべき」という立場は、国家レベルでわずかに死刑制度がその立場ですが、該当する犯罪も極めて限定され、手続きも厳格です
個人レベルではあり得ません
したがって、「羅生門」という文学作品の学習課題として、学習者に考えさせるのは、基本的人権を自明の前提としない教育です
たとえフィクション中の架空の人物であれ、その基本的人権を「その認否が個人に委ねられている理念」と扱う点で、日本国憲法・教育基本法に抵触する疑いの強い学習課題です

なお、作品で下人が犯した悪は強盗、暴行等ですが、下人の事情「生きるためには盗むしかない」を考えれば、先進諸国では「死ぬべき」どころか、緊急避難が認められて無罪(基本的人権>生存権を国家がすべての人に保障していない時点で、国家は被告を有罪とする資格がない)とされる可能性もあります
老婆(死体損壊)は、たとえ逮捕起訴されたとしても、まず無罪となるでしょう
以下は同種の刑事裁判における2016イタリア最高裁の判例です
空腹の「万引き」に逆転無罪、イタリア最高裁「必要に迫られた」…日本でもありえる?

 

 

返信Q

御丁寧に回答してくださりありがとうございます。学校の討論にて否定意見を述べる際に必要だったため質問させていただきました。とても参考になりました。