Q

中学3年生、魯迅の故郷について質問です。
回想にある「紺碧の空に金色の丸い月がかかっている。その下は海辺の砂地で、見渡す限り緑の西瓜が植わっている〜…」と
二回目の「海辺の広い緑の砂地が浮かんでくる。 その上の紺碧の空には、金色の丸い月がかかっている〜…」
この二つには同じような表現が使われています。どの様な意図があるのでしょうか?
という問題に対し私は
回想ではルントウがいるが二回目にはルントウが出てこない。ここから私にとっての英雄であったルントウの変わり果てた姿を見て美しい故郷は消えてしまった、と書きました。
そな答えに先生が「変化しない所にも目を向けて考えてみましょう」とおっしゃりました。
ですが私はどれだけ考えてもなぜ情景描写に変化がないのかが分かりません。
どなたか教えてください。

 

A

ご質問に対する回答としては、ごくごく普通な解釈ですが、「自然(ないしは世界)は変わらない(。変わったのは人(ルントウと自分の心)である)。」という語り手(主人公)の思いを、ほぼ同じ二つの情景描写が象徴的に表していると読むところだと思います
以下は補足です
それは、中国的、東洋的なごくごくふつうの考え方で、たとえば「不易流行(時とともに変化しないもの(自然やさまざまな原理)と変化するもの(人の栄枯盛衰や心))」という言葉で表されたりします
松尾芭蕉「奥の細道」の「平泉」を学習したかと思いますが、あそこの芭蕉の感慨もほぼ同じです
ただし、魯迅の生きた時代にはまだ核兵器や原発がありませんでした
核の時代は地球上に生きる全ての人から「明日も今日と同じ世界が続く」という素朴な安心感を奪ってまったということは、随分以前から指摘され、周知されています
たとえば、2011年の福島第一原発事故以降、地球(環境)は変わったと感じている人は少なからずいますし、核兵器が使用されれば、世界は何もかもが変わってしまう事を、たいていの人がうすうす知っています
「不易流行」も、20世紀後半以降は通用しない真理となりました
けれども魯迅の時代は、芭蕉と同じく、「人は変わるが自然は変わらない」と、素朴に信じる事ができました
そういう時代には成立し得た、ごくごくありきたりの象徴的表現です

 

質問者からのお礼コメント

ありがとうございます。自然は変わらないが人は変わる。故郷が変わってしまったのは環境ではなく人だった、というのを伝えたかったのかなと回答をきいて理解できました。