いつか大きくなるあなたへ           ~シングルファーザー奮闘中~ -3ページ目

いつか大きくなるあなたへ           ~シングルファーザー奮闘中~

シンブルファザーとなってはや5年
娘と一緒に楽しくも格闘しながら
毎日を送っています

はるかへ



昨日はお泊りで知り合いのところにいっていました。

パパはその間仕事をしにいって、夜も遅くまで活動していました。

お泊りができるのは本当に助かります。

はじめてのときは心配もしたのですが、すんなりとなれたようです。

いまは全然、平気でパパのもとを離れていきます。

きっとこれからもっともっと離れる時間が増えていくのだろうと思います。




【やさしさについて】


 その後、余興がありました。北区の劇団の方や、つかさんの知り合いにお願いして楽しい余興が続きました。シャンソンあり、ダンスあり。

 つかさんの舞台ではいつも華麗なる歌声を披露してくれる方が、「二人の幸せを願って、『マイ・ウェイ』を歌います」と、甘い声で優しく包むこむように歌い始めました。それにあわせて、彼の友人のダンサーが踊ります。みんなうっとりとその歌声に聞きほれています。歌い終え、万雷の拍手が起こる中、「どうぞ幸せになってください」と、彼が座ると、つかさんの目がすわっています。

 みんなの興奮とは裏腹に、つかさんだけは、それまでの酔いがさめたように、パパをにらみつけていました。

 やばい……と思ったそのときです、「おい!」とパパを手招きしました。

 おそるおそる、高砂席からおり、つかさんのところに向かいました。

「あいつはあの歌じゃねえだろう。おまえまだオレの芝居がわかってねえのか」

「……」

「何年オレのところで芝居作ってきたんだ」

「はい」

 当然、この程度のことは起こるだろうと、想定内。パパはつかさんのご注文にこたえられるよう、彼のつかさんの芝居での持ち歌を用意しておきました。

「『アドロ』だろ。すぐに出せ!」

 と怒りながら指示します。パパは、会場の音響係りにセットさせて、カラオケをかけさせました。

 短調のメロディーが流れ『アドロ』を、彼は歌い出しました。


♪~ アドロ 灰色の街~


 確かに死んでもいいから愛し合うという男と女の歌です。

 短調のメロディーがこれからの二人を暗く祝福してくれます。

 歌う方も不安な顔。

 しかし、歌い終わるとつかさんはご満悦。

 一瞬の静寂のあと、会場から割れんばかりの拍手が起こったのです。いつまでも鳴り止まない拍手。観客と化した親族たちの中には泣き出す人もいて、つかさんの芝居の客席にいるのとまったく同じ興奮が伝わってきました。

 まさに、ひとつのエンターテインメントの型をみせてくれました。

 決まりはない、とにかく、人を喜ばせること、どんなやり方でも、目の前にいる人を喜ばせることができるなら、禁じる手はないということ、それがエンターテインメントなんだということを実感したのです。


 次から次につかさんの関係者が、芸を披露してくれます。

 それをうれしそうに見つめながらつかさんは、「うちの劇団は実力があるなあ」とうなっていました。

 つかさんはお芝居の本番を、客席で見ることはありません。いつも舞台の袖に立って、隙間から、役者たちの姿をあたたかな目で見つめています。

 つかさんの芝居は毎日のように、口でたてながら変わっていきます。舞台の初日がきて、本番の公演がはじまっても、開演前の時間を使って稽古をして、なにかしらセリフを変更していきます。たとえ現場にいけなくても、この芝居がよくなるならと思いつけば、電話をかけて、携帯電話を役者に握らせて、セリフをつけていきます。そうやって、毎日役者たちは独特の緊張感の中で、本番の舞台に立ちます。

 96年に上演した「ロマンス」という芝居の本番初日には、本番中、主役2人だけで延々と50分くらいのシーンを舞台上でやっている間に、楽屋でほかの役者たちを集め、次のシーンの稽古をしていたということもありました。

 もちろんできあがったシーンにも主役の2人は登場します。いざ、そのシーンになると、聞いたこともないセリフの中で2人はドギマギしているリアルな反応が、ちょうどつかさんの描こうとしていた2人の気持ちにはまり、演技とも素とも思えない独特の瞬間を生み出したのです。

 つかさんはそんなとき、必ず、袖に立って、客席の反応と、舞台上の役者たちの姿を優しいまなざしで見つめています。

 貧乏ゆすりをしながら、役者が上手にできるだろうかと、本人が一番緊張しながら、じっとみつめ、役者の芝居が、観客にうけいれられ、大きな笑いや大きな涙を生み出したとき、本当にうれしそうに、笑みを浮かべるのです。

 パパはその瞬間に何度も立ち合わせてもらいました。

 披露宴での、劇団のみんなの芸を見ているつかさんは、まさにそのときの優しい目をしていました。

「バカだなあ、あいつは」

 などと言いながら、うれしそうに笑っていました。

 あのあたたかな目は役者を愛する目でした。

 当然、当日に大量のセリフを与えて、それを完璧にこなせるとはつかさんは思っていなかったと思います。つたないながらも誠意をもってそのセリフを伝えよう、このシーンを完成させようと、役者たちが必死になっていく瞬間をつかさんは一生懸命に作っていいたのだと思います。観客はその誠意の中に技量を超えた感動をみていくのだということを教えていたのだと思うのです。

 だから真剣に怒り、開演直前までの稽古ではギリギリまで役者を追い込んで、崖から突き落とすように放っていきます。そして舞台で輝く姿を、まるで親が子の成長を楽しむように、あたたかく見守り続けるのです。

 そのために厳しい時もありました。

 当たり前のやさしさなんかつかさんには恥ずかしくて表現できなかったのです。

ハルカへ



昨日はパパが帰ってくるまでの間トモダチとうちで遊んでいました。

パパに電話がかかってきて、定規をトモダチが忘れていったからどうしたらいいだろう。

うちに帰ってきて、連絡網からその子の電話番号を教えてあげて、自分でかけていました。

「もしもし、ハルカですけど、定規を忘れたので月曜日にもっていきます」

お母さんにお話して、その後お友達がでて。

そんなこともできるようになったんだなあと感心しました。

でも

「ねえ、きっていい」

ときるタイミングをつかめないのはまだまだ子供です。





【やさしさはときに暴力だったりします①】


 最近、おまえは「なんでママと3人で暮らせないの」と、なんの悪気もなく聞いてきますね。そのたびにパパは困ってしまいます。パパだってそれが一番いいと思うこともあります。しかしあの時はあの選択しかありませんでした。なぜなら、ママはすでにそのとき、パパよりも、その好きになった人を選んでいたからです。なかなかうまくいきません、結婚というものは。

 思えば、冠婚葬祭、そんなものは面倒なだけで出たくないと言っていた、つかさんでした。

 劇団員の親が死んでも、花を出すだけでお葬式などには出ないつかさんでした。

結婚式にいたっては、

「おまえなあ、結婚式なんてよお、たまらんぞ。ほれ、オレなんかそこそこ名前が通っているからよお、そこそこの主賓になるだろう。たまらん、席さえたてないんだからよお。田舎の結婚式なんかまだまだ、えげつない結婚式が多いんだよ。飯なんか、伊勢海老をメインにしたフルコースですなんて出てきたもんみたら、殻ばっかりで身が、ほんのちょっとしか入ってねえの。食べてみたら、こりゃカニカマだぜと思うようなもんばっかだぞ。

 『友人代表の歌です』

 とかいってよお、『てんとう虫のサンバ』とか歌い出すんだよ。いつの歌、歌ってんだよ!

 お色直しですってゴンドラから出てきたり、スモークガンガンにたかれて出てきたり、アホじゃねえかと思うよ。

 仮にもオレは演出家だぞ。読売文学賞も直木賞も、紫綬褒章もとった男だぞ。

 よく恥ずかしげもなくそんなことができるなあと思うよ。

 フランス料理っていったってよお、熱いんだかさめてんだかわかんねえ、中途半端なヤツ食わされてよお。

 新郎新婦のお色直し中は、オレなんか写真撮影されまくってて、まったく飯もろくに食えねえよ。たまらん、あんなもんは」

 と言っていました。

 こんなうらみ話をいつも聞かされていので、パパが結婚するときも、絶対に来るわけがないだろう、でも結婚のお知らせぐらいはしなくてはの気持ちでした。しかし、つかさんは「出席」の返事を一番最初にくれました。

 うれしい反面、こりゃ大変だという気持ちになったのも事実です。

 それまで、つかさんが出席した結婚式に同席したことがあるのは、大分の市長まで列席した結婚式だけでした。

 地元の名士、市長、市会議員などの格式高いスピーチが続いたあとで、つかさんが挨拶をし、まずは会場をわかします。

 お色直しで新郎新婦がひっこむとつかさんがマイクを持ち、これからカラオケをはじめると宣言。

 次から次に関係者が舞台にあがらされ、カラオケ大会が始まりました。

 結婚式なんだか、のど自慢大会なんだかわからないままに、式が行われたのをパパは覚えています。

 だからつかさんが出席するとなにが起こるかわからない。うれしいの反面、不安も同じように大きくなっていました。

 ありとあらゆることを想定して、準備万端に望まないとと、あらゆる事態をシュミレーションをしていました。

 式場は、九段会館。

 いろいろ探したところ、劇団員のお母さんがそこで働いていたこともあって、つかさんも乗り気になっていました。

 パパとママの仕事の関係で、大変にお世話になった方から、「人生はキャッチボール。投げること受け取ること、それが大切なんです」と、大変ありがたいご挨拶をいただいたあとが、主賓であるつかさんのスピーチ。

みんな、あの直木賞作家が、どんな挨拶をするのだろうと、緊張しながら見守る中、

「ええ、彼は僕の劇団にいたころ、うちの劇団員に手を出しまして。いまもその女が扉をあけてやってくるんじゃないかと思って気が気じゃないんですよねえ」

 きたか……と心のうちで思いました。このくらいのことは想定内の発言ではありました。でも、うちはまだしも、相手の家庭は一般人です。呆気にとられた顔をしていました。

 そこからはつかさんの独壇場。

「こいつは、まだその女の携帯の電話番号を自分の携帯にいれているんですねえ。もう別れて7、8年経つわけですよ。でも、、まだ消せない。その思いが演劇なんだと思うわけですねえ。ただねえ、いつまでもそういうわけにもいかんわけですよ。たとえばね、奥さんが、こいつが持ってきたフライパンを見たときに、このフライパンでその女とご飯作ってたのかと思うと、頭にくるわけじゃないですか。その一途な思いをわかってあげるということが夫婦というもんだと思うわけですね」

 もはや結婚式の、たとえば、こわれる、われる、などの言葉を使っちゃいけないというようなわかりやすいモラルは崩壊していました。常識的な配慮などどこにもありません。

 普段の講演会でもそうでしたが、つかさんは、必ず人が笑い楽しむまで、もともとの演題とはまったく関係ない話をしつづけていました。いま、目の前にいる人を喜ばせること。そのことだけに異常に執着してきたつかさんはこのときも遺憾なくその能力を発揮していました。

 5分の挨拶が10分以上あったように感じていましたが、つかさんのペースに乗せられ、披露宴会場は、万雷の拍手と笑いが渦巻き、まさに一体感が生まれました。

 結婚披露宴とはつまりは両家の家と家が団結するための儀式でもあります。つかさんはまさにその役を買って出てくれたのだと、勝手に感動すらしていました。

 まあ、つかさんにそのつもりはまったくなかったに違いないのですが。

 そのあと式は、上司たちの挨拶があり、乾杯があり、そしてパパたちはお色直しに入ります。

 その間、パパは緊張から解き放たれてホッとしていましたが、つかさんは本当に楽しんでくれているのだろうか、式場に戻ったら、もういなくなっているんじゃないかと、気が気ではありませんでした。

 しかし、それはまったくの杞憂でした。

 お色直しを終えて戻ってくると、つかさんが陣頭指揮をとってみんなにお酒をすすめていたこともあって、すでに酔っ払いの宴会。

 みんな赤い顔をして、大きな声が飛び交っています。

パパたちがドアをあけて入ると、ヒューヒューなどの声がかかるのは当たり前。

 それを一番,扇動していたのはつかさんでした。

 はるかへ


最近いようにあなたはいい子です。

帰ってきたら宿題をすぐやるし、いえばすなおにきいてくれるし。

それは単純に、いい子にしていれば、ゲームができるという。

やることを全部終えればゲームができると。

うーん、玉子が先かにわとりが先かの気持ですが、まあ、やることやってんだからいいか。ほめてあげるか。




【東京の事務所】




 あるときつかさんは大人向けの小説の依頼をうけました。

「オレはこの作品、純愛エロ小説を書きたいんだ! 谷崎潤一郎だってありゃエロ小説なのに純文学だろう。渡辺淳一の小説なんてアサヒ芸能で出したらポルノって言われるのに、日経新聞で連載しているから純文学だぞ。オレは純文学を書くんだ!」

 とパパに豪語していました。

 執筆補助としてつかさんの原稿に、卑猥な描写を加えてくれと言われて、毎朝、駅売りのスポーツ新聞を買い込み、その部分を研究し、描写を書いていきました。

 それをファックスで東京の事務所に送り、つかさんが読んで、添削していく。もっと過激に、もっとインパクトをつけてとつかさんが要求する日々が1週間も2週間も繰り返されました。

 もちろん寝ているひまもなく、その描写に取り組みました。

 しかしつかさんからの連絡がある日から突然途絶えました。

 どうしたんだろう、気に入ってもらえなかったんだろうか、さらに描写を深めんと、それ相応の雑誌にまで手を伸ばして、必死にがんばって、ファックスを送り続けました。

 そんなある日の夜、東京の事務員から電話がありました。事務員は、その日のお昼にあった話を切り出しました。つかさんがやってきて、

「いやあ、オレは純文学を書きたいのによお、大分であいつが一生懸命書いてくるからよお。あいつはこういうのが好きで、こればっかり書いてくるんだよ」

 とえんえんとパパが調べ、努力してきた、その描写を読み上げたそうです。

「しかし使えないんだなあ」

と、うれしそうに笑いながら、原稿にバツをいれていったそうです。

 つかさん、僕は好きで書いていたんじゃないんです……。

 つかさんが書こうといって、リサーチ程度の原稿を下書きし、それを見てつかさんが発想をめぐらせて、つかさんの物語を書いていくというやり方を何度かさせてもらったことがあります。ボツになった企画は数知れず。また、パパを鍛えるため、原稿用紙100枚ほど書いたものを、全てバツをつけていって、たった一言にマルをつけ、ここを伸ばしてごらんと言ったこともありました。

 つかさんの執筆を補助させてもらうことは、自分自身の力を常にためされている場でもありました。いつもダメだといわれ、バツをつけられ、つかさんに添削してもらっていました。卑猥な描写も、哲学的な言葉も、面白がりながら、多くのことを語りすぎずに、大切な言葉だけを残していくという、根本的なことを教えてもらいました。

 あのときバツになった言葉は本当に大切な言葉になれば残っていたはずなんです。あの東京の事務所で笑いものにされた言葉も……、といまは振り返れますが、当時は顔から火が出るほどの恥ずかしさと、つかさん待ってくださいよという思いばかりが先行していました。

 つかさんは全身全霊で、文章ひとつ書くことさえも教えてくれていたのだと思います。 

 弟子などとはとてもいえないほどダメなパパでしたが、ひとつひとつ手取り足取り教えてくれました。

 演劇も、本も、生き方も。

 まさに親のように全てを教えてくれたのです。

 失われたかもしれない母性を持って、子どもを育てるように……。