いつか大きくなるあなたへ           ~シングルファーザー奮闘中~ -2ページ目

いつか大きくなるあなたへ           ~シングルファーザー奮闘中~

シンブルファザーとなってはや5年
娘と一緒に楽しくも格闘しながら
毎日を送っています

【恋文】



離婚してしばらくの間、引越しだなんだとバタバタしていたこともあり、連絡もとれずにいると、ママはパパに文句を言い出しました。なんで娘にあわせないんだと電話口で怒鳴りちらしてきました。

パパひとりの手では働きながらおまえを育てることは無理なので、おじいちゃんやおばあちゃんにお手伝いをしてもらうため、ママの住んでいるところから離れたところに引越したのですが、そんなのは聞いていないと、また無茶を言い出すようになりました。

離婚協議書には、お金のことなども含め、お互いに条件を出し合いそれを確かめ合い、最後にこれ以上のことはなにも異議申し立てをしないと取り決めていました。しかし、そんなものは関係ないと言い出したのです。

落ち着いた状況ができるまで待ってくれというつもりでいたのですが、そんな時間をとっている余裕もなさそうです。パパは、おまえとママを会わせることにしました。

また、ママが無理難題を言い出さないようにと、パパは協議書を常に持ち歩き、何度もそれを見て、ママとパパが別れた理由、そしてママがいま、そう無理難題を言う理由がなんなのかを検証していました。

そして、行き着いてしまったのです。

ママが大切に思っていた人に。

相手の男の人は、日記をネットに書いていました。それを見てしまったのです。

そして、パパはいろいろなことを知りました。

その人が九州の人だったこと。その人がその年の2月に東京に出てきたこと。ママが離婚を言い出したり、精神的におかしくなったのもちょうどそのころでした。思い返せば、ママが友達と遊びにいくといった日や、場所がその日記に出てくることにも気づきました。そしてなにより、一番根本の、別れたと、だから家族を再生しようといっていたはずなのに、ママとの関係がまだ続いていたんだということに気づいたのです。

相手がふるさとを捨ててママを追って出てきてしまったことから、ママはどうにもこうにもいかなくなって、崩壊していったのでしょう。

ママは必死にその人の思いを受け止めようとしたに違いありません。

またその人がパパよりきっとステキで、ママにとって安心を与えてくれる人だったのでしょう。ママはその人への思いを大切にしたかったのでしょう。でも、おまえとは別れたくなかったのでしょう。その、どうしても折り合わない二つの思いに押しつぶされ、自分自身を見失ってしまったのでしょう。

すべてに合点がいきました。

パパはその瞬間、自分自身の不甲斐なさや、おまえに与えてしまった悲しい思いなど、いろいろなことがいたたまれなくなってきました。

ママとおまえをあわせる日に、そのことを手紙に書きました。

すべてわかったよ。さみしい思い辛い思いをさせてごめんね。ちゃんと落ち着いて、もしママがその男の人と一緒になるならなってもいいんじゃないか。幸せになってもいいんじゃないか。遥花はちゃんと育てるよ、と。

それ以来、ママはあれることもありませんでした。


そのことを、パパがつかさんに報告すると、つかさんは大笑いしながら、

「というかよお、相手のブログにたどりつく、おまえがわからねえよ。その執念がよお」 

と笑っていました。

 そして、「賞も落ちたことだしな、新しい芝居でも書いて上演しろや」と紀伊國屋ホールを押さえて、芝居をするように準備をしてくれました。

 演劇人なら、憧れの紀伊國屋ホール。そこで小さいながらも大きな、うちの話をネチネチとやれというのです。

 パパは、一生懸命におまえのことを思いながら本を書きました。

 

 話はたった一日、離婚届にハンコを押す日のこと。

 相手と続いていたことを知った男が女を責めるという話。

 パパの知った事実、それをフィクションにして描きました。

 書いていく中でパパは、もう、現代において、母性を押し付けることの限界を感じ始めてきたことに行き着いたのです。女だから母親であるという方程式にはならない時代、母性を男が持ってもいいんじゃないかという思いをこめました。

 つかさんが「母性養成講座」を訴え、パパはそれに対する考えをこの作品の中で描きました。

 一生懸命がんばっても母親というものになれない女。そのことにちゃんと自分で気づき、あたらしい一歩を互いのために歩み出す、そんな女の話を作ってみたいと思ったのです。

 最後、二人がわかれるシーンでは、こんなシーンをつくりました。




     妻、離婚届にサインをする。

     夫、荷持をまとめにかかる。

     そこで母子手帳を見つける。



 夫  ……これ……。

 妻  母子手帳。最近、すっかり見てなかったから。

 夫  もうボロボロだな。(と、開く)

 妻  ちゃんと書いてたんだんね。

 夫  どれどれ。

……出生届出済証明 

    子の名前  三浦あゆみ

    出生の年月日 平成16年7月28日

 妻  ……。

 夫  生まれたときの状態

    体重2470グラム

    身長48.5センチ

    頭囲 33.0センチ

    胸囲 30.0センチ

 妻  ……。

 夫  ……生まれてすぐ、多呼吸症と診断され、NICUに搬送。保育器へ。一過性の症状のため6日目でNICUを出る。何事もなくホッとした。

 妻  ……。

 夫  平成16年8月28日

    おっぱいの吸い付きが弱く、一度に少量しか飲まないので、授乳感覚が短い。大変!

 妻  ……(微笑み)。

 夫  平成16年11月9日

    夜も沢山眠るようになった。大分育児も楽になった。

    乳児性湿疹がなかなかおさまらず、ちょっと心配。

 妻  ……。

 夫  平成17年3月9日

    寝返りをしますか  はい

 妻  ……(微笑み)。

 夫  平成17年6月8日

    「はいはい」できるようになってから、興味の対象が広がったようで、ひとり遊びできるようになった。よく遊び、よく食べるせいか、夜は夜泣きもせず、グッスリ寝てくれる。

 妻  ……。

 夫  平成17年7月28日

    テレビや人にむかって「バイバイ」といって手を振るように。もう少しでひとり立ちしそうな気がするが……。ご飯はびっくりするほどよく食べる。

 妻  ……。

 夫  平成18年9月14日

    大分、自分の意思がハッキリし、自分なりに頭を使って遊ぶようになった。一度気に入るとのめりこみが激しいのは母親似?

    最近はキティちゃんにご執心。「イヤイヤ」することも多くなり、これが俗に言う「2歳の反抗期」かな。よく食べて、遊んで寝て。おおらかに育っていると思う。

 妻  ……。

 夫  平成19年7月28日

2歳7ヶ月から保育園に入り、それが本人にとっても良い刺激となっているようです。何でも一人でやりたがるようになり、言葉も増え、お友だちとも毎日楽しそうに遊んでいます。

 妻  ……。

 夫  ……ここからはオレの字だな……。

 妻  ……。

 夫  必死に母親になろうとしてたんじゃないか。

 妻  だから、辛いのよ。

 夫  そうか……。

 妻  さっきね、辛くてきつくて、わけわからなくなって、あゆみの首しめたとき、 あゆみ、あたしの顔みて嬉しそうに笑うのね。こんなことしているわたしなのに、あの子、嬉しそうに笑うのね。そう思ったら、力が入らなくなってね。でもあの子、ママ、ママって嬉しそうに笑っててさあ……あたし、この子のこと 本当に好きなんだ、本当に愛しているんだとわかってね。その時、あたしには 勝てないと思った。あたしには無理だと思った……。




パパはつかさんから言われて書いたこの芝居のタイトルを『恋文』としました。そして、このシーンのタイトルを、『母から娘への恋文』と書きました。

このシーンは本当にママの書いた母子手帳を見ながら書きました。


遥花、ちゃんとしっかりとママの言葉をうけとめてください。ママは立派におまえを育ててくれていたんですよ。

これがママの母性でした。

そして、その母性を抱えたまま、いまでもママはおまえのことを思いひとりで暮しています。

だからいま、おまえがニコニコとママに会いにいくことがなにより、ママにとっての幸せなのかもしれません。

家族のありかた、幸せのあり方にはいろいろな形があります。

ただうちはこの形を選んだのです。そしてこの形をいまは誇りに思います。

この作品は、つかさんが最後にパパに書かせた、つかさんから、パパに対する『恋文』だと思っています。

それから1年半ほど経った後、パパはつかさんが、肺がんにかかっていることを、テレビの報道で知ったのです。


昨日はうちに7、8人トモダチを呼んだようです。

まあ、狭い家だというのに、そんなに・・・・。

しかし、確実に着実にトモダチを増やして遊んでいるようです。

1年生の時も、2年生の時も、「ともだちができますように」と

書かれた短冊が飾られました。

今年はなんと飾るやら。




【スカブラ】




 いまから4年ほど前のことです。

テレビの業界も経費削減のが叫ばれ、そのあおりをうけて、ママも、パパと同じ職場での仕事がなくなることがわかりました。

そのころからです。ママは少しずつおかしくなっていきました。

 毎日、家に閉じこもり、寝込んだりするようになりました。

 好きな人ができていったん別居してたものの、その人と別れたということで、再びパパたちと暮らし始め、3ヶ月ほど経ったときのことでした。

 まさにその症状は、鬱でした。

 ネットで知り合った友達たちと情報を交換し合い、ママは病院に通い、薬をもらってきました。ちょうど、鬱病という言葉がかなり大きくマスコミでも取り上げられるようになって、病院によっては、薬漬けにされてしまうことが問題視されていました。

 ママも安定剤、抗鬱剤、睡眠剤などを大量に処方されました。

 ある日、パパが仕事で遅くなって家に帰ると、まだ3歳のおまえが裸になって、玄関まで出てきました。

「どうしたの?」

 奥の部屋をのぞくと、ママは寝ていました。

 どうやら、お風呂に入ろうと声をかけたまではよかったのですが、その前に飲んだ薬が急に効き始めたようで、眠りについてしまったのです。

 おまえはそんなことなどわかるはずもなく、お風呂に入れるものだと思って裸になって、パパの帰りを一時間ほど待っていたらしいのです。

  

これは、この環境では、どうにもならないし、娘のためにも、こんな母親の姿を見せておくのはよくないと、ママの親がママを連れて帰りました。

 再び別居生活が始まりました。

 そんな生活も2週間ほど経った頃、正式に離婚の話し合いが始まりました。

 両方の親を交えての話し合い。パパもママもほかのみんなも離婚はもう仕方ないという結論に達しました。

問題は、おまえのことでした。

 パパは絶対におまえの手を放したくない。

 ママもおまえの手を放したくないと主張しました。

 それはそうです。ママのお腹の中で命を育んだ娘です。

 その手を放したくない、離れたくないという思いは、ママだって果てしなく大きかったと思います。

 パパもママもおまえのことを愛していました。

 だから、その手を放さないために必死になっていたのです。

 それはそれは本当に苦しい話し合いでした。どこまでいっても平行線の、本当に長い苦しい、誰も気持ちのいいことひとつない話し合いでした。

 

ちょうどその頃、パパとママの出来事を面白がったつかさんは、毎晩のようにパパに電話をかけてきていました。

「おう、どうなった? いま、役者と飲んでるんだけど、ちょっとかわるな」

 と次々といろいろな役者にかわられたり、また、飲みに誘われたり。挙句には、

「しかしそこまでになったら、おまえがカミさんといまやっていること全てを芝居にしろ。その問題は日本の問題だからなあ」

 といわれ、次の日には、つかさんは、北区の劇団で公演日程とキャストを決めて、これでやってくれと電話してきました。

相変わらずつかさんに対して「ノー」の言えないパパは、言われるままに、自分の身の回りの出来事を芝居に書く決心をしました。

パパとママが別居をしたこと、なぜそうなったのか、ママはそのときなにを思っていたのか、作品を通して見つめてごらんとつかさんは言いました。

つかさんはその芝居の進行具合が気になるらしく、稽古期間中も、しょっちゅう電話をかけてきて、どうなったどうなったと聞いてきました。稽古もそうですが、なにより、現在進行形で進んでいるパパたちの離婚がどうなったのか知りたくて仕方なかったのです。

「いやあ、親権のことがあってなかなか」と、日本での男親が親権を得られる可能性の薄いことを話しました。

「おまえ、つまりよお、カミさんが男と浮気して出ていった場合でも、子どもはとられるわ、養育費は払い続けなければならないわ、金も子もとられるわけだろう。そりゃおかしいわなあ。犯罪もおこるぜ」

 と、真剣に怒ってくれました。

 

 つかさんはとにかくこの離婚騒動の間、常に明るく接してくれました。パパが予想できないような様々なやり方で。携帯電話の全てのアドレスにメールを送ったことも、芝居を作らせたことも、全部、暗い顔をさせないように、いつも笑いが起こるように、接してくれました。

「だってよお、おまえ、オレが無茶苦茶やらねえとよお、おまえ自殺するしかねえだろう」

 そういって笑い話にしながらお酒を飲んだこともありました。

 そのときパパはお腹の底から笑って、笑いながら、先のことを考えて丸まってばかりだった背中を伸ばし、希望を持ったものでした。

 そんなつかさんはいつも『スカブラ』でした。『スカブラ』……。

 これはつかさんの小説にも出てくる話なのですが、昔、炭鉱で作業をするときに、たとえば10人で入って作業するところを、11人入るというところがあったそうです。この員数外の一人が『スカブラ』というのです。終業時間になって、炭鉱から出てくるとき、みんな真っ黒な顔をしているのに、この員数外の一人だけは、きれいな顔をして出てくるのです。

 彼の仕事は、みんなが仕事をしている間、近所の噂話やら、下のゲスな話などをえんえんと面白おかしくしているだけ。そんな人間、会社にとっては無駄だろうと思うのですが、この人がいなくなると、作業効率がテキメンに落ちていく。その員数外の一人、無用の長物、それこそが『スカブラ』というのだそうです。

 つかさんは芝居を志すものこそ、この『スカブラ』でなくてはいけないと言っていました。パパたちの離婚のときも、常につかさんは『スカブラ』であり続けてくれたのです。

 遥花、パパはおまえにとってそんな存在になれていますか。おまえにとっての『スカブラ』に。



 

 2時間のはずの披露宴がすでに3時間を越え、ようやく新郎新婦が両家の親に花束を渡すというお決まりの儀式が終わり、最期の挨拶となりました。

 本来は新郎の父親が挨拶するものなのですが、おじいちゃんは本当に無口な人で、パパでさえ、パパが大学にはいるまで、ちゃんと話などしたことがなかったほど。これは任せられないと、パパとママが、それぞれ式に出てくれた人たちへの感謝の言葉を一言ずつ言おうという企画を考えました。

 披露宴というのは、意外と恥ずかしいもので、親戚でも何年ぶりにあった親戚や、友人などもまったく知らない同士、席を同じにしなくちゃならないときなどもあり、居心地の悪い思いをしたりします。

 最初から最後まで、ほとんど新郎新婦とも話すこともなく、ただ席に座っているだけで、辛い思いをしたことは1度や2度ではありません。

 そんなこともあって、一人一人にせめて一言でもかけられないだろうかと思い、挨拶をさせてもらいました。

 仕事でつきあった人、友人、親戚と挨拶をし、つかさんへの番となりました。

「僕はつかさんにあこがれて演劇をしてきました。僕にとってはつかさんが演劇であり、演劇がつかさんでした。大学を卒業してつかさんのもとに入り、つかさんに公私ともに、本当に多くのことを教えてもらいました。すべて感謝しています。つかさんは、僕にとって第二のお父さんだと勝手ながら思っています。これからもどうぞよろしくお願いいたします」

 つかさんの顔は遠く離れた席で見えなかったのですが、そのときまわしていたビデオカメラには、つかさんが照れながら目をうるませている姿がうつっていました。

 式が終わり、「二次会に出る」と最初は言っていたのに、「またな」とそそくさと照れくさそうに式場を出ていきました。

 次の日、パパはつかさんから飲み屋に呼び出されました。飲みながら、

「しかし面白かったなあ、おまえの結婚式……オレが……」と。

 すべてを自分の手柄にしていました。

 あれだけ盛り上げてくれて、あれだけ楽しんでくれたのに、パパとママは4年と続かず別れることになってしまいました。

 でも、あの瞬間の、あの輝きだけは忘れられません。

 あのときすでに、おまえはママのお腹の中にいました。

 あの明るい雰囲気、振り回されるパパ、おまえはきっとそれを楽しんで見てくれましたか。

「オレはよお、うれしいんだよ。みんなでくだらないことに必死になるっていうのがよお」

 とあのときもつかさんは言っていました。

 遥花、どんなことでもいいんです。人間、誰かのため、なにかのために一生懸命になってください。それがつかさんがパパに教えてくれた一番大きなことだったのかもしれません。


 パパは、95年から96年にかけての冬を大分での劇団の稽古であかしました。

 つかこうへいが地方から文化を発信すると、新聞でも大きく取り上げられてきた大分市つかこうへい劇団ですが、そのころになると最初の意気込みがだんだんしぼんできて、20人ほどいた劇団員が次々とやめていきました。

 稽古が思ったより辛いとか、もっと楽しいだけのものかと思ったなどという劇団員もいました。でも一番大きな原因は、最初からつかさんが全部見てくれると思っていたところに、パパが演出家ですとあらわれたことだったと思います。

 それはまったく話が違うぞということでした。

 みんなつかこうへいに指導を受けたくてきているのです。それがいきなりどこの馬の骨だかわからない人間が芝居を教えるといわれても納得いきません。それはパパが逆の立場だったらよくわかることなので、仕方ないことだと思っていました。

 それでもパパは一生懸命に、自分の全てを注げば、いつかわかってくれるときがくるだろうと、走り続けました。

 考えてみれば、素人の役者たちを全国でも活躍できる役者にしたいというつかさんの志から誕生した劇団です。役者たちは、誰だこいつらという偏見の目でみられる中で、実力があるんだというところを見せる強さをもたなければなりません。だからつかさんは役者に要求していることと同じことを、パパにも要求していたのです。

 誰だこいつはという偏見の中で、いい作品を作れば、役者の力を最大限にのばすことができれば、そのとき評価はついてくる。そこまで歯を食いしばってやれという思いだったのだろう。おまえを信じるからやってごらんという、場と機会を与えてくれたのです。

 つかさん自身も、芝居をはじめた70年代の頭は、まだまだ無名で、客席もまばらだったといいます。それでも明日を信じ、芝居をやっていける場所があったからこそ、いまがあるといっていました。

若い子たちに芝居ができる場を提供しつづけたいという思いは亡くなるまで持っていました。

 つかさんが一番不安だったはずです。失敗はすべてつかさんが背負わなければならないのですから。でもそんな不安は微塵も見せず、「まあ、ダメなら、おまえをおろせばいいんだからなあ」と、パパをチクチクいじめながら、エールを送ってくれました。