児童扶養手当ての申請 | いつか大きくなるあなたへ           ~シングルファーザー奮闘中~

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夏場にパパはとっても忙しくなりそうで、朝から晩までいられないことが多いので、あなたにさみしい思いをさせてしまいます。

そんな中、必ずあるのが児童扶養手当の継続申請。必ず8月にくるので。

で、昨日役所に、電話して、この時期必ず忙しくなるので、そういう人はどうすれば・・・、と聞くと、まあ、9月に継続申請を事前に把握しておけば対応しますよとはいってくれるのですが、ただ、その時期になったら電話くださいと。その時期、役所があいてる時間に電話かけられるかどうかわからないほどだからいま電話してるんですけど、といっても、お時間をつくって・・・と言われたので、いやいやそりゃないっしょ、とにかくこっちの名前聞くなり、履歴を残せないんですかといったら、電話に出ていた担当が上司に聞いたらしく、しぶしぶ、連絡先ほか、把握してもらいました。

毎回毎回この手のことで腹を立てるのですが、ここで履歴を残して訴えた歴史にしとかないと、あとで不備がむこうにあっても文句が言えないので、戦ってみました。役所ってどうしていっつもこんな感じなんだろうとイヤな思いになります。

後ろでは女性職員がケタケタ笑っている声が聞こえてきていたので、余計にいらついたのも事実です。

うーん、まいった。

まあ、なんとか今年もがんばらねばと思ったのです。




(人は人と摩擦しながら生きていきく⑤)



 パパはつかさんに命じられたその日から、事務所で、ただひたすら、ワープロの勉強をしていました。

 パソコンがあたりまえにある時代に生まれたおまえにはワープロなんていってもピンとこないかもしれないのですが、当時は、文章を作成するためだけのコンピューターのようなものがあったのです。それをいじったこともなかったパパは、ひたすらキーボードに慣れる練習をすることになりました。

 ようやく、文字が滞りなく打てるようになったのは、ひと月ほど経ったころでした。

 ある朝、事務所にいつものように出勤すると、待っていたように電話がなりました。

 荷物をおろすのもそこそこに出ると、

「おう、オレだけど」

「どちらさまでしょうか」

「いや、オレだよ」

「すみません、お名前は」

「バカ! つかだよ!」

「す、すみません」

 いきなり怒鳴られました。

「おまえなあ、2時に羽田を出る飛行機があるから、それに乗って大分へ来てくれや。空港降りたらタクシーに乗って、トキワデパートの前に、こっちの事務の女を待たせておくから、そいつと一緒に来てくれや」

と、若干、不機嫌そうな声で、つかさんがいいました。

「わかりました!」

受話器を置くなり、そのまま、羽田空港へ向かいました。

つかさんが、大分県で「大分市つかこうへい劇団」を結成し、活動を始めていたことはわかっていたので、おそらく、事務的な作業か、立ち上げの手伝いでもするんだろうなあと、羽田に向かう電車の中で思っていました。

お芝居に対してはまったくの素人が多いけど、魅力ある人間がそろったぞとつかさんは言っていました。とにかく現場にいって、最初の稽古を観て、つかさんのセリフを書き取ってワープロうちでもするんだろうなあくらいに思っていたのです。

空港に着き、チケットをとって、飛行機に乗り、大分へ。初めていく九州、大分。右も左もわからずに、景色さえ見る余裕もなく、大分の地に足を踏み入れました。事前に調べる余裕もなかったので、とにかく、つかさんに言われた通り、空港から、タクシーに乗って大分市内へと向かいます。

「すみません、運転手さん、トキワってデパートまで」

「ああ、市内のね」

「は、はい」

タクシーで山道を抜けている間も自分がどこにいるのかさっぱりわからず、いったいいつまで、このタクシーに乗っているんだろうと不安になりながら、市内を目指していきました。

繁華街らしきところに出たのが、1時間ほど乗り続けてのこと。

トキワデパート前で、待っていた、大分の劇団の女性事務員に合流しました。

「はじめまして」

「あ、はじめまして」

「じゃあ、いきましょうか。ここまでこれで来たんですよねえ」

「はい、先生に言われた通り」

「……ここまでって、空港からここまで?」

彼女の顔が一瞬曇りました。

近くのマンションの一室にいくと、つかさんがいました。

東京で見るのとは違った優しい笑顔で、

「おう、すまなかったなあ。どうだったホーバーは?」

と聞いてきます。

「ホーバー?」

困った顔をしていると、

「おまえここまでなにできたんだよ」

「言われた通りにタクシーで」

「なに!」

つかさんの表情が鬼の形相になりました。

「バカ使ってると金がかかって仕方ねえよ!」

と、いまにも殴りかかってきそうな勢いです。

どうやら大分空港では、ホーバーという空港から市内へ向かう、船のようなものが出ていて、それに乗って市内まできて、そこからタクシーに乗れという指示だったらしいのです。しかし大分なんて来たことのないパパにはまったくわけのわからないことでした。

つかさんは今にも木刀を持ち出さんというような形相でパパをにらみつけていました。

「いくらかかった」

「はい、1万5千円ほど」

 おそるおそる言うと、

「キエー!」

 つかさんは謎の奇声をはりあげて、パパをにらみつけ、

「おまえ、覚えておけよ」

 といいました。それまでつかさんと話らしい話をしたことなんてありませんでした。はじめてつかさんの感情がもろにパパにむかったこの瞬間に、パパは茫然としました。

ただただ落ち込んだのを覚えています。もう一刻も早く、東京に戻りたかったのも。いや、戻れると思っていたんです、まだ、このときは。

「しゃあねえなあ、まあとりあえず、食え」

と、すっかりさめて、油ができったから揚げ弁当を渡され、さあ食べようと箸をのばした瞬間、

「おせえなあ、よし、稽古いくぞ」

と、食べることも許されずに、そのまま、車に押し込まれ、稽古場へ。車で5分ほどいったところにある稽古場には、すでに、20人ほどの大分の役者さんたちが集まっていました。

「じゃあ、やるぞ」

と、そこからつかさんは、集められた役者たちを見ながら、お芝居のセリフをあてはめていきます。

普通、お芝居を作るときは、台本があって、テーブルに座って、その台本の読み合わせをして、読みなれたところで立って稽古をするというのが一般的な作り方です。

しかし、つかさんの稽古は、本読みなどしている暇がもったいないというほどに、すぐに立っての稽古になります。

また、台本も、あるにはあるのですが、ないようなもので、その場で、その人の立ち方、声の出し方、言葉の選び方、すべてをみて、一瞬にして、その人にあったセリフをつかさんが作っていきます。ですから、もとからあった台本はすべてといっていいほど、ひとつの稽古を通して、口で書き換えられていくのです。

つかさんがセリフをいう、それを役者がオウム返しで繰り返していく。その積み重ねで作品がどんどん出来上がっていくのです。これが世にいう「口立て」という作り方です。

そうすることで、その人が自然と生きてくる物語が生まれてくるのです。

つかさんの稽古では、こういう風にセリフをいえとか、発声をどうだとか、手の位置はどうだこうだとかを細かく指示することがほとんどありません。むしろ怒られるのは、「人間としてダメだ、おまえは」ということばかりです。

人間、芝居なんかで人をだませるのは15分くらいで限界だ、じゃあ、2時間ある芝居を最後まで見せきる役者の力とはなにかといえば、その人間がいかに生きてきたか、その品性のあり方を見るんだよ、とよく言っていました。

そしてその品性を惜しむことなくすべての芝居の中に盛り込んでいくものなんだということも言っていました。


人間としてすべてをさらけだして、さらけだした人間は同じくさらけだした人間とつきあっていく中で、その品性(生き様)を最大限にぶつけあって、生きていくものなのです。それが合うか合わないかでつきあいはきまるでしょう。ただ大切なことは、自分が精一杯生きていること、下品なことをせずに精一杯生きて、精一杯に人とぶつかりあっていくこと、そのことが一番大切なことなのだとつかさんは言っていました。

芝居は摩擦熱でできている、これもつかさんがよくいっていたことです。

人間は人間と摩擦しながら生きていく。骨がきしむほどにいとおしい思いにふれたり、憎しみあったりしながら、それでも摩擦しあい、生きていく。その摩擦する力強さを信じて描いていくことが芝居の力なんだと。それはつかさんの根幹をなす理念でした。