ハルカへ
昨日、パパに「学童やめてよかった」といってきました。なんでと聞くと「だって、お友達といっぱい約束できて、遊べるんだもん」と。
やがてこうやってひとつずつ成長して、手をはなれていくんだろうなあ。
毎年恒例のお願いが「お友達がふえますように」だったのに、それもかわっていったことに感心しています。
こりゃ「パパ、いらない・・」みたいにいう反抗期も近づいてきたんだなあと実感する日々です。
女の子の男親ですから、覚悟はしとかないとですね。
(人は人と摩擦しながら生きている④)
パパがつかさんと出会ったのは、もう20年ほど前のことになります。
高校時代から演劇だけを志していたパパは、すでにその存在こそが社会現象といわれていたつかさんの、衝撃的な舞台と高校時代に出会います。
90年代に入ってから上演されたつかさんのすべての作品を見てきたパパは、あまりにも自分の胸をついてくるセリフにいちいち客席でうならされていました。
たとえどんなに世の中から、ダメといわれる人間でも、そこに必ず希望はあるということをつきつけてくるつかさんの芝居。
たとえば顔が不細工だとか、容姿がどうだとかを気にしている人には、その欠点を思いっきりけなしていきながら、その欠点こそ、あなたを好きになる魅力なんだとつきつけていきます。後ろ向きな考え方しかもてなくても、その後ろ向きを逆手にとって、後ろであることを誇ろうと説いていきます。
ダメで、どうしようもなくて、イヤな考え方しかできないと思われる人たちがつかさんの芝居の登場人物たちです。でも、それをつきつめると、そのダメな部分こそ、イヤと思える部分こそ一番いとおしい部分と思えてくるのです。
そこに観客は希望を見出していきました。
大学時代、容姿も悪くて、かっこつけたくてもかっこつかず、運動神経も悪く、とにかく天才的なことはなにもできず、努力努力でやってきたパパは、きわだった才能なんかない、面白くもない男なんだと、ネガティブなことばかり考えていました。そんなパパに、いいんだよ、そのままでいいんだよ、そこで光を見つけていけばいいんだよとつかさんの芝居はいつも教えてくれました。パパはつかさんの芝居にいつか関わりたい、出演したいと思い続けていました。
オーディションも二度受けにいきました。
はじめてのオーディションは見事惨敗。
二度目のとき、ようやくつかさんの気にとめてもらえることができたのです。
しかし、もともと、演劇だけをやりたくて大学に入ったようなもの。胸にポッカリと穴があいたように目的を失いました。
普通に授業に出て、普通にアルバイトして、ただ、芝居がないというむなしさの中で、大学生らしく大学生をしようと、友達と遊んでいました。
一番の友達がいました。いつもバカ話ばかりしているような仲で、芝居をやめたあと、その友達と話すことが一番の楽しみでした。
しかし、ある日突然、その友達は、自宅のマンションから飛び降りて亡くなりました。
理由はまったくわかりませんでした。その日も昼間はバカ話ばっかりしていました。
パパはそれから人間不信に陥りました。誰とも話せなくなり、夜になるとお酒を飲んで泣いていました。なぜかわからず、ほかの友達ともあうことさえ怖くなりました。
演劇もなく親友も失い、生きていることが本当に辛かった時期でした。
ひと月が経ち、友達に誘われて、その子の家に線香をあげにいくことになりました。家に入るまではそれまでとまったく同じ気持ちだったのですが、迎え入れてくれたお父さん、お母さん、お姉さん、お兄さん、そしてほとんど寝たきりだったおばあちゃんの顔を見たとき、パパの中で、それまでとはまったく違う思いが押し寄せてきました。
涙も枯れ果てた家族のみなさんは、パパたちが大学で話していたバカ話を、彼がいつもうれしそうに話していたんだよと教えてくれました。
パパはそれから、ひと月黙っていたすべてを吐き出すように、くだらない話を延々とし続けました。なんでかわからないのですが、ずっと話していました。
みんな笑顔になって、お腹を抱えて笑っていました。
3時間ほど話をし、さよならを言って、玄関を背にしたとき、パパは、もう一度、芝居を自分の力でやろうと思ったのです。
この笑顔、この人が幸せになれる笑顔をつくれることをやりたいと、強く思ったのです。
それからパパは狂ったようにアルバイトをしてお金をため、芝居をしていました。大学時代だけでも30本くらい自分で作って、自分で演じていたと思います。
彼に励まされ続けているように、見守ってくれているように思いながら、パパは必死に芝居を続けました。
自分にはなんにもなく、器用に物を考えることもできない、自分ができること、芝居で書けることとはなんだろう、考え続けたときに見えたのが、いまの自分をそのまんまぶつけること、その自分のいやな部分も全部いとおしく思って見せること、書くこと、そうだつかさんの芝居だ、ああいうのをやりたいんだと思ったのです。
だから大学を卒業した直後のオーディションでつかさんに気に留めてもらい、劇団に入れたときはうれしくてたまりませんでした。
およそ一年、延々と授業をうける日々。
つかさんの台本は、その人の生きてきた歴史を反映してはじめて輝きに満ちていきます。そのことに気づかず、ただ、セリフだけをしゃべっていた自分に気づいたのです。大学も芝居のことしか考えていなかった自分に、そのセリフを背負えるほどの人間的な厚みがなかったのも事実です。なんでいえないんだろう、なんで気持ちよくならないんだろう、その理由がそこにあると気づくのは、それから数年後です。自分は必死になってやっているのに、なんにもできていかないことに苛立ち、落ち込む日々でした。
そんなことを多分見抜いていたのでしょう。
つかさんは、養成期間を終えたあるとき、「明日から事務所にきてください」と、パパに言いました。パパは言われるまま、流れるように事務所に行くと、その日から「事務所で事務の仕事をしてください」といわれました。わけもわからず、事務員として働くことになったのです。
もちろん役者の夢はそこでばっさり断ち切られました。
つかさんは、よく雑誌の取材などで、
「夢を持ってオーディションに来るようなやつらに、才能がないからやめろというのもオレの仕事なんだよ」
と言っていました。
つかさんは、売れよう、売れようとがんばってもなかなか抜け出せずに、40歳、50歳になっても役者をやっている人たちをたくさんみてきました。お嫁さんにいく機会を逃して、演劇にしがみつき、演劇からも捨てられてしまうような女優さんたちもいっぱいみてきました。だからこそつかさんは、心を鬼にして、最初から、演劇の世界で生きていける才能のかけらもないのなら、役者にしがみつこうという夢などみないで、着実な道を歩みなさいと諭していたのです。
「人間には、男と女とサルがいる。このサルこそが役者なんだ。歌えない、踊れない、会社では働けない、そんな人間としてどこか欠陥があるけど、でもこの人にはひきつけられてしまう、そういう存在が『サル』なんだよな。まさに役者はこういう『サル』じゃなくちゃいけないんだよ。踊りなんか振り付けができなくてもいいんだよ。顔で踊ればいいんだ、顔で。そういう存在なんだって。だいたいよお、普通の男や女を観るために金払うか? 自分を日常から連れ去ってもらいたいから金払って劇場にくるんだって。舞台に出てる俳優が、家に帰ったら隣にいる旦那とおんなじ程度だったら金なんて払わねえだろう。この人は普通の人と違う。ひきつけられてしまう。なんでかわからないけど、ひきつけられてしまう。辛い日常もすべて忘れらさせてくれる。そういう存在にならないとダメなんだって、役者なんてもんは。流し目ひとつで、楽屋口に女たちが押し寄せるくらい、ゲスな『サル』じゃなくちゃいけないんだ」
そんなことも言っていました。
だから、パパは結局、『サル』になりきれなかったみたいです。