父と娘  -45ページ目

「大腸の腫瘍は悪性でした」

今日こそ父は、腫瘍が悪性であったことを確実に聞いている。

仕事中、こっそりネットでがんについてのサイトを見たりして、悪性であっても治癒に向かった事例や方法を探ってみた。さすがに仕事中だし、忙しいので見たうちにも入らなかったが。


病院へ向かう車内で、今までの家族の思い出が色々思い浮かんできた。

母に暴力をふるい、子供が止めて、大声でぎゃーぎゃー騒いだ次の日に、涙を流して謝ってきたこと。(その涙の理由は自己憐憫の塊だったので、驚くほど冷めた思いでいっぱいになった)

母と別居中、毎日飲んでばかりの日が数ヶ月続いた後、調子悪くなったのを感じて母に連絡とって欲しいと頼んできたこと。

情けなくて、弱い父の思い出ばかりが。



顔を見てほっとした。

思ったより落ち込んでないように見えた。

娘にはなるべく弱い部分を見せまいと必死に気をはっていたのかもしれないが、私が見る分には大丈夫そうに思えた。先生がうまく言ってくれたのだろうか。

そして、父から腫瘍のことなどを聞いた。耳慣れない事柄は理解に時間がかかる。


落ち込んでるのかと聞くと

「そら落ち込むで」と言う。

まあそりゃそうだろう。下手にこれからの治療や手術の話はせずに、新しくプロバイダ契約をした話などをした。1年間はフレッツが半額なのだという話をすると、1年後にはお父さんもパソコンを再開しようかな、とか、メールアドレスを私の名前でしか取っていないから、それを変更したりもうひとつとればいいとか、1年後の話を色々した。そんな話も出来る。思い出話より未来の話をたくさんしたい。


父からの言伝で、土曜日の午後に担当医と2回目の面談をすることになった。

手術をするのは、木曜日になりそうだということ。

手術後、父は今みたいな状態をキープできるのだろうか。

年内厳しいと言うが、いつから弱りだすのだろうか。

肝臓の腫瘍が転移したものと、予測もつかないような父ではないはずだ。


帰宅して、祖母に連絡。

今週末に、父の妹と2人でお見舞いにくる予定になっている。

「このまま会わなかったら、おばあちゃん一生の心残りになる。」と言っていたから。

父が不審がらないように、口裏あわせをしようということにしている。

祖母も10年以上、良性の腫瘍が肝臓にあるらしい。その話は、父にもしているらしいので、そういう身近な事例を聞いて希望を持って生きて欲しい。


もっと色々話したのに。一日の終わりに日記をつける時、どうしてこんなに頭がまとまらなくなるのだろう。


癌告知日

今日ほど病院へ行く前に緊張したことはない。

幼い頃のピアノの発表会や受験、就職の面接、今まで経験した様々な場面とは全く異質な緊張。


仕事へ行っても、今日告知されるのだと思ったら集中力がなくなった。

先生はなんて言うのだろうか、それより父がどんな反応を示して、今後どういう気持ちになり、どう行動するのか。

予測がつかず怖かった。


先日先生と決めたのは、大腸癌は告知するが、肝臓の腫瘍はそれが転移したものであることは伏せるということだ。もちろん余命のことも。

しかし、勘のいい父にいつまで隠していられるかが一番の問題。


先生は、今晩言うと言っていたが、もう済んだのかどうかわからず不安な気持ち一杯で病室へ向かう。


「お父さん。」と声をかけ、顔をみてすぐに、まだだということが判った。

今日の検査は、自転車に乗って心臓の状態を調べると言うものだったそうだ。

検査検査で元気の無い父。元気ないねと言うと、”そらそうやで”とうつむいて言う。

病院では、入院の患者の検査はいつでもできるからという理由で、外来の患者の検査が優先される。だから、父の検査も時間が不確定で、外来の患者の前だったり、その後になり、しかも時間がどんどん遅くなることもある。そんなことですらきっと、もうひと月になる入院生活の中では気持ちを滅入らせるものになるのだ。

最近は特に少しでも長めに話をしようと思っているので、そこそこ話をした。

去り際に、「検査ばっかりやし、手術控えてナーバスにもなるやろうけど、今辛抱してきっちり治したらええやん。あんまり暗い気持ちにならんとね。笑う門には福来るやで!」と言った。

”笑う門には~”を聞いた瞬間、父の横顔が笑顔でくしゃっとなった。

それを見ただけで、なぜか涙がこぼれそうになったので慌てて”おやすみ”と言い残して出た。


病室を出て、ナースステーション横を通って帰るのだが、中に担当の外科医の姿を見つけた。

一応ご挨拶だけでもしようと思い、声をかけた。

今から面会ですか?と聞かれ、もう終わりましたと言うと、これから父に告知をするところだと言う。

父には、”娘さんの方には、明日電話でお知らせしておきます”と言ってもらうことになっているので、その口裏合わせの最終確認をして、「よろしくお願いします」と深々とお辞儀をして帰った。


エレベータに乗る。涙が出そう。

何に対してなのかわからない。父を亡くすその日までまだ泣くことはないと言うのに今からこんなメソメソしてどうするのか、といつも自分に言い聞かすが、自然と目の奥が熱くなる。

1階に着いて、駐車場まで猛然と走った。

誰かに泣いてるところを見られたくない。


車に乗ると、どこかで落ちないように頑張っていた涙が膝の上に落ちた。


明日、父はどんな様子だろうか。

癌を宣告された人の気持ちなんて簡単に推し量れるものじゃない。


妹帰る

今日は妹が帰る日。

私も家でひとりなので、寂しかった。


2時から病院へ。

今日はミスドとピオーネと梨を持って行った。

病室へ行くと、美人インターンと何やら話していた。

カロリーのことやら、血糖値のことらしかった。

父が、娘ですと紹介した。”こんにちは。お世話になっています。”と挨拶。

「二人ともべっぴんさんやな」と言われると、ちゃっかりインターンのことを指差し”あんたもやで~”の合図。


その後、持ってきたものを3人で食べた。

父はよく食べる。ドーナツふたつペロリ。


家を売る売らないの話になる。

父は、私が出た後、ひとりきりであの家にいる必要がないから、祖母の家へ行きたい思っている。

以前からそういう希望はあったのだが、祖母に断られていた。

4年前くらいに、私と弟がふたりで祖母の家へ行き、アル中でどうしようもなくなった父をどうか引き取ってくれまいか、と祖母に懇願したことがあったのだが、その時も、父がいるとあれこれしてあげなければいけない気持ちになり、しんどいので、と言う理由で断られていた。

その時は、本当の親子なら断らないのに・・と悔しくなった。

祖母のひとりで気楽に過ごしたい気持ち、子供に迷惑をかけたくない気持ち、理解はできるが。

とにかく、これから何年か先の話をすることがとてつもなく悲しかった。

途中普通に話すのも難しい一瞬があった。

家具の処分の算段が難しいと言う。おばあちゃんの面倒をみたいと言う。


私たちの実家がなくなってしまうことも、それだけで悲しい。

これから、帰る家を永遠になくしてしまう。

父は、今まで私が家にいつまでもいるから、家を売れずにいたのかもしれない。


せっかく優秀な大学まで出て、仕事して、結婚して、子供も3人出来たのに、たくさんのものを失ってしまう。

アルコールにさえ溺れなければ、まだどうにかなったかもしれない。

親の情けない姿を見ることは、幼い頃はつらかった。

不安になったし、怒り、憎しみを膨れ上がらせた。

死ぬと全て消えるのだろうか。私のつらかった記憶も浄化されるのだろうか。


妹は最後、手術をがんばれと言って去った。


妹に、”あと3ヶ月なんて、なんか信じられない。短いね。”と寂しげにもらすと、”なに!?暗いなぁ。まだ3ヵ月あるやん”と言われた。短いことには変わりないが、妹なりに私を励ましてくれたのだ。

父の死を思えば悲しいが、その時まで、くよくよめそめそする必要なんてないんだ。

今、一生懸命父のサポートをすればいいだけだ。

だって、お金をかけて育ててくれたんだし。



3人の休日

昨日、病室で3人でケーキを食べた。父が欲しがったから買いにいったのだ。

だから今日も、父と家族みんなが好きだったケーキ屋さんのケーキを買っていった。

妹がいると、会話も弾むので明るくなった気がする。

実際、父は疲れているのか会話に入れないのか、ただ横で寝転がって聞いている(?)だけだったが。

3人でケーキを食べ、ゆっくりして帰った。


妹は、家では父のことに関して無関心で、悲しんでる様子など微塵も見せないが、父と対面した時は優しく(今まででは考えられないくらい)している。重いものを持ってあげたり。


父を図書館に連れて行ってあげ、病院に送り返した時、妹だけ荷物を持ってあげて、父と病室に戻ったのだが、二人の後姿を見て涙が滲んだ。


今朝は、目が覚めると同時に”余命3、4ヶ月”という言葉が頭を駆け巡った。

告知以後、父が頑張っていこうという気になりますように!!!!

告知へ

待ちに待った妹との訪問日。

忙しい日だったような気がする。
正午に外科の先生と面会。父は、面会するのは知っていたが時間までは言ってなかったので、父に隠れて先生とお話をした。
父の病状をもう一度説明してくれた。今日は妹も一緒だ。


細胞の検査結果が出ていた。悪性のがん。大腸がんであると正式に言われた。
肝臓に腫瘍みっつ。大腸にひとつ。大腸のものは、肛門から30センチのところに、内壁をぐるりと囲むように腫瘍ができている。手術で取り除く必要がある。取り除けばとりあえず大腸はOKだが、次は肝臓に取り掛かることになる。肝臓には、管のようなものを通しておいて、集中的に抗がん剤を投与。そうすることで、全身に抗がん剤を投与するより副作用が抑えられ、なおかつ肝臓に効率的に投与できるとのことだった。ただ、これは全く初耳だったのだが、父は小さい頃から心臓があまり丈夫なほうではなかったらしく、心臓の強度が不安要素のひとつで、更に長年の糖尿病のおかげで心臓が弱く細ってしまっている。下手すれば、手術に耐えられるだけの身体ではないということだ。来週はその辺を調べる検査が父を待ち受けている。本当に全身ボロボロなのだ。


そして、告知うんぬんの話になる。こちらは、父はアルコール依存症になってしまうような弱い人間なので、告知に耐えられるだけの精神の持ち主ではない。しかも、家族の支えも全く十分ではないので、隠せるものなら隠したいと言った。
すると、先生の意見はこうだった。
”父は理論派で、インテリジェンスな人である。担当になって色々話をしたが、ひとつひとつじっくりと話を聞き、ひとつひとつに自分自身で納得して承服しないと次の話をしない。鋭いことも言うし、理にかなった回答を求める。”
という父の性格分析(当たっている)を言って
”父にはすでに大腸にも肝臓にも腫瘍があることは言ってある。ここで、大腸の腫瘍がガンではなかったと嘘をついても、いずれどこかでボロがでるだろうし(父の性格を考慮して)、嘘をついていた事が父にわかれば、先生と患者の信頼関係まで失われかねない。今後の治療を踏まえても、大腸の方の腫瘍は悪性のものであったと告げるのがベターである。”とのこと。
もちろん、家族の意見も取り入れながらと言うことだが。


告知はなし、と決めていたが、そうなったら仕方ない。先生の治療に差し支えるようなら止められない。しかも、父が先生に色々聞いてくることも容易に予想できる。
今、担当医は外科の先生で、決断するしかない。とりあえず、20日に告知するということなので、一旦OKを出しておいて、気が変わったら待ってもらおうと思う。


しかし、家に帰って妹と相談し、弟に電話し、母に電話し、(ようやく話を聞いた)父方の祖母にも電話をして外科の先生に言われたことを伝えたら、先生に従おうということだった。私も気持ちは傾いていたが、そうしてもらおうと決めた。その代わり、私が父をおもいっきり励ます必要がある。最終決断はいつも側にいる私だ。

大腸は切除したから大丈夫。肝臓はがんばって治していこう!

と励ますしかない。しかし、実は、外科の後内科の先生とも話をしたのだが、内科の先生は、告知はしない方が・・という意見だった。というのも、告知によってたくさんの人が、ガクっと元気がなくなり、血圧なんかもものすごく下がってしまうらしい。”でももう外科の方に移ってしまったんで”と言っていた。
少し不安になったが、もう父の担当は外科医なのだ。そしてまた、どちらの意見もアリで、こんなことに答えなんかないのだ。これまでも散々考えたように。
とにかく外科の先生を信頼しよう。


夜は、早速父の長兄から連絡を受けた祖母と電話。
祖母ももう気持ちを落ち着けていた。父と病気の話を色々してきた経緯もあるので、すでに仏さんに”どうか安らかに最期まで過ごせますように”と祈ってくれているらしい。
私たち子供もそうなのだが、やはり祖母も”もしかしてもっと生きるかも”という可能性を全く考えていない。
夢を見る必要はないが、そう思われないのも可哀相だ。


これまで散々酒を飲み続け、入退院の繰り返しだったので、自然な発想ではあるが。
再来週の手術前に、父の妹と二人でこちらにお見舞いに来てくれるらしい。身体もしんどくて、新幹線利用してもトータルで5時間はかかるだろうところまで。
”会わなければ一生の心残りになる”と言っていた。
今日は先生に改めて【年内厳しい】と言われた。だから、父の反応気にして、父に会いたいといってくれる人々の動きを止められない。時間がない。
心臓自体が弱く手術できない可能性もあるが、手術で死んでしまう可能性だって十二分にある。
祖母には来て欲しい。血は繋がっていないが、長く一緒に暮らし、父のことを気遣ってくれたし、私たち孫も気にかけてくれた。しかも今回のことで、またもや金銭的な援助をしてくれる。
祖母は、両親のことで子供に負担がいってしまうことを嘆き、以前も100万円を預けてくれていた。父に何かあった時のためにだ。本当にありがたい。これで、お金の心配までしなければならなかったとしたら今よりももっとつらかったと思う。

もっと今日あったことや感じたことを記しておきたいが、頭が痛くて疲れた。
休もう。