三人が寺に戻ると、丁度中食どきで炊出しの真っ最中だった。早くも子連れの母親や老人たちが並んでいる。銀角が両袖を奴凧のように広げて、はたはた振りながら戯けた。


「我ら、全身伽羅香焚きしめたような有様にござりまするぞ。」


金角も己の根結垂髪の裾を嗅いで、鼻に皺寄せている。


「飯や汁の匂いより遥かに強いことは確かでございますな。」


「あれだけの香木で、まさかここまで物凄い薫り立つとは思いもよらなんだ。」


袖で鼻先仰ぎながら顔顰められる桃豹殿に、金角は溜息まじりに申し上げる。


「お方様が焚べられたのは阿南産の緑油伽羅でござりまするよ。大層珍かなるお品にて、あれだけで10両は下らないかと…。」


「…左様か。」


桃豹殿は少し狼狽えて目を逸らされた。若君や影武者どもに知れたら事である。実質はどうあれ建前上は質素倹約を旨とする武家ゆえ、10石もの価値あるものを一瞬で煙にしてしまったなど、到底大っぴらにできぬ所業という他はないからである。10石の米あらば、大人10人を1年養うことができる。


錦蝶に惑わされた訳でもなかろうが、何故香木を手向けようという気になったのか、全くもって腑に落ちぬ。せめてもの救いは、若君のお扶持米で贖うたものに非ず、先の札差の寄合いにて伊勢屋が挨拶代わりに寄越したものということぐらいだ。


とにかく一旦着替えに帰らねばならぬということで、3人は降りて来たばかりの竹林への小径手前から右手に延びる石段に廻った。中天の陽のもと、緩やかとは言え雛壇のような墓地の中を足早に登ったせいで、館に通じる坂道に辿り着いた頃には、桃豹殿は常にもなく息切らせる羽目となった。

坂上から吹き下ろす風が、汗で濡れた額に心地よい。懐紙で汗を押さえようとして数枚抜き取ったが、それからも強烈な薫りが立ち昇る。竹林の中では然程と思わなんだ薫りが、炎天下では益々甘ったるく思われる。


緑油伽羅とは、かくも重苦しく纏わりつくような薫りなのか…。6匁かそこらの量なのに、えらい目に遭うたわ。それにつけても、伊勢屋め、妾に似合いとか何とか申してとんでもないものを寄越しおって…。あやつめ、妾が伽羅より爽やかな白檀好むも知らぬとはの。…いやいや、香木なんぞ嗅いでも腹の足しにもならぬゆえ、米10石もらったほうがなんぼか良かった。よし、あやつから施行米を少しまきあげて遣わそうぞ。


「そう申さば、犬公方様のご就任翌年、上野のお寺※に向かう公方様のお行列に伽羅煽ぎかけた豪商の内儀※がおりましたなぁ。家財没収の上、処払いとなったそうな…。」


※上野のお寺寛永寺のこと。

※豪商の内儀石川六兵衛の妻。


「だから、犬公方と申すはやめよ!!」


お調子者の銀角がまたまた要らぬことを口走って、桃豹殿に扇でぱしりと叩(はた)かれた。









お館の裏手の斜面には、若君がお戯れに「たゞの湯」と看板を掲げた温泉がある。いつも湧き出ているのに、お館のお湯殿だけの利用では勿体ないということで、薪小屋の下段の窪地に小屋建てて、陽のあるうちならば誰でも入ることができるようにしてあった。

御門内だが、お庭下の小径から入れるので、小体な町湯のような風情にて村人たちがよく訪れているが、流石にこの暑さでは誰もいない。


金角銀角の見張る中、桃豹殿はさっと湯浴みなさり、それでも抜けない薫りを気にしながら、庭から回廊に上がってお居間に滑り込み、手早くお着替えを済まされた。

若君たちは薬草園で、村長の処の子どもたちとせっせと「紅玉甘露水」用の赤紫蘇摘みに余念がないため、お館には小者しかいない筈である。


厨に顔を出すと、小者たちが遅い中食の最中だった。恐縮して立ち上がろうとするのを手で制して、桃豹殿は金角銀角に指図して自分たちの中食を用意させ、ついでに白玉と葛切りを拵えて冷水に晒した。

たっぷりの鰹節の出汁に醤油と酒で味調えた中に朝の残りの飯を水洗いして放り込み、別茹でして冷水で色どめした賽の目に刻んだ茗荷、茄子、胡瓜をさっと散らし、玉子とじした雑炊である。これに紀州から取り寄せた南高梅の梅干しと予め甘辛く炊いておいたお揚げをつけて、三人はそそくさと中食を済ませた。お揚げは金角銀角ばかりか皆の大好物ゆえ、お館には常備のお菜である。


「留守居の役得じゃ。」


桃豹殿は小者たちの分を取り分けてやり、白玉と葛切りを冷水ごと入れた長手桶を金角銀角に持たせた。ご自身は山葡萄の籠に昨日炊いておいた粒餡を盛った竹皮筒舟と黒蜜白蜜入りの竹筒を入れて、また連れ立って山を降りて行かれた。



其の拾弐に続く




桃豹、この数週間、

花粉症こじらせて

気管支炎になり 

絶不調

(TдT)



 

 

 

 

 

 

 

 








崖に一番近い端の墓石の前に屈み込んでいた銀角が、頓狂な声を挙げた。

「あれぇ!?このご仁のご命日は、宝永六年己丑(つちのとうし)睦月十日…犬公方様のご薨去と同日でござりまするぞ。」

「これ!無礼を申すでない。常憲院様と申し上げよ!」

桃豹殿が眉根を寄せて咎めると、銀角はぺろりと紅い舌を出した。
常憲院様とは5代綱吉公のことである。
銀角は生類憐みの令などという悪法を発布した綱吉公を、庶民を苦しめたからという理由より、忌み嫌っている犬を擁護したからという理由からひどく毛嫌いしていた。

因みに19世紀始めに編纂された『御実紀』※によると、3箇所に建てられた犬小屋のうち、最大規模の中野屋敷は30万坪※にも及び、多いときで10万頭もの犬が収容されていたという。更にひどいことに、年間9万8千両※もの費用を賄うために、江戸市民から「御犬上ヶ金」を徴収していたのだから、綱吉公が暗君と言われ、皆から蛇蝎のように嫌われても致し方ないと言えよう。

※『御実紀』
通称『徳川実紀』。初代家康〜10代家治までに渡る江戸幕府公式の編年体史書。この小説の時点ではまだ編纂されていないww

※30万坪
東京ドーム20個分。

※9万8千両
米の値段10㎏=4,000円で計算すると、元禄小判一両=60,000円
98,000✕60,000=5880,000,000
58億8千万円…

米の値段10㎏=4,600円で計算すると、元禄小判一両=69,000円
98,000✕69,000=6,762,000,000
67億6,200万円
(ーー;)これ、犬のエサ代だぜ…



気働きに優れた金角は、手早く襷掛けして、水桶満たすついでに調達してきた草たわしをちょいと濡らすと、銀角の読んでいた墓石をせっせと擦り始めた。

「これは粟飯原家のお墓でござりますな。」

「名主の粟飯原の墓ならば、鐘撞堂の裏手にいくたりか固まっていたようだが?」

桃豹殿は墓石を覗き込んだ。

「ならば、ご縁者のお墓でございましょうか?」

金角が手を止めて、桃豹殿を仰ぎ見る。

「縁者ならば、こんな奥まった場所に葬りはすまい。…それに、考えてもみよ。こちらのほうが鐘撞堂の墓より遥かに旧いものであろ。」

「ひぇぇ!!90年以上も前の墓でござりまするぅ!」

傍らで指折り数えていた銀角がまたまた素っ頓狂な声を挙げた。その声に驚いたのであろう。竹林から雀がざざっと羽音たてて一斉に飛び立った。


「もし名主殿のご先祖であるなら、何ぞ仔細あって、こちらに取り残されたのやもしれませぬな。」

手際よく苔削ぎ落としながら、金角が呟く。
桃豹殿は頷き、苔の下から現れる文字を覗き込みながら、今朝の若君の話を思い起こしていた。

目を白黒させて朝餉丸呑みしながらの今ひとつ要領得ない話だったが、昨夜、粟飯原本家の娘が訪ねて来たとか申しておったな。何でも仔細ありげな様子で、蔵の在処言い置き、鍵託して行ったとか。名は確か…。

不意に、金角の握る草たわしの下から、「志乃」という文字が目に飛び込んできた。





…あぁ、あの折は「志」の文字しか判読できなんだが、崖下に埋もれていたのは、この墓石であったな。

墓石は全部で12立ち並んでいた。
金角銀角を促して墓裏ブナ林の下草刈ってまとめさせ、倒れかけている孟宗竹払って拵えた筒を墓石の数だけ埋めて、水湛えさせる。
桃豹殿は居並ぶ竹筒に、持参した山百合、木槿、擬宝珠、百日紅、吾亦紅などを彩りよく活けられた。金角が黄玉の火打石を二、三回打ち鳴らすと手妻みたいにぽぅと線香に火が灯り、煙が白く立ち昇った。

三人は墓石群の前に蹲り、手を合わせて暫し瞑目した。ふと目を上げると、何処から迷い込んできたのか、小さな蝶が墓石の合間をひらひら飛んでいる。
随分ふらついた翔び方であることよと思って見ていると、右端の墓石の頭に縋りつくように止まった。
小型の揚羽蝶かと思いきや、錦蝶である。開帳五、六寸ほどの小体な蝶だが、黄色と黒の立縞で後翅外側に紅、青、橙の斑紋がある。

※錦蝶
ギフチョウの古名。



東莠南畝讖(とうゆうなんぽしん) 3巻 
現存する最古の動植物図譜

1731(享保8)年〜  1748(寛延元)年間に岐阜県養老町沢田にある真泉寺の住職毘留舎谷(びるしゃや)により描かれたと言われている彩色スケッチ。朱筆は後年、小野蘭山が加えた。


桜咲く頃に生まれて花々巡りて蜜を吸い、半月も経たぬうちに消える生命が、何故この暑い時期まで長らえることが適ったのかと不審に思いながら、艶やかなその紋様見守るうち、桃豹殿は物思いに沈んでいかれた。
線香の燻(くゆ)りが蚊除けになるを幸いと、金角銀角は桃豹殿のお邪魔にならぬよう阿吽狐の如くひっそりとお側に控えている。

古来蝶は、幽世(かくりよ)と現し世を行来するものとされておるゆえ、この錦蝶は、墓の主の使いなのであろうか。地滑りから墓石引き上げて元の場所に据え、崖修繕した礼に飛来したのか、それとも他に何ぞ伝えたきことでもあるのか…。
陽当りよき場所に棲む錦蝶の姿借り、こんな鬱蒼とした日蔭などに飛来するは、何ぞ謂れがあるのであろうな。

錦蝶は丈低いスミレやカタクリの蜜を好むと聞いたことがある。
…カタクリと申せば、以前、お風邪気の若君に片栗粉溶いて差し上げるよう指図したことがあったな。館に備蓄が無うて梅吉が持参したもの使ったとかで質したら、館への坂道下の斜面のブナやミズナラ林の中に堅香子(かたかご)※が群生しているゆえ、たまの要り用分ぐらいは充分賄えると申しておった。
春になれば、この蝶の次の世代もカタクリの蜜求めて数多翔び交うに違いない。

※堅香子(かたかご)
カタクリの古語。

墓の背後護る落葉広葉樹のブナは、秋になれば村長の処の子どもらが落ちた種実を拾い集め、干したものを炒っておやつにしている。取りこぼした種実からは春に新芽が出て、湯掻いて副菜にもなる。
ブナの紅葉期は短くすぐに落葉してしまうが、ミズナラのそれは美しく山肌彩り、伐り出して柾目磨けば美々しい調度となるため、宮大工の冬場の内職に鏡台や鏡架台造り頼むこともある。

ブナとミズナラの間には梅、桃、桜は言うに及ばず、躑躅、紫陽花、百合、椿や山茶花も交じっているので、一年中花活け用に事欠くこともない。自生のものもあれば、人が手入れたものもあろうが、四季折々の恵みを余すことなく享受できるこの地は誠に有難く、寺向こうの山裾に広がる薬草園の収穫量も、桜子姫君や村の子どもたちの奮闘で益々増えて来ている。

ほんにこの隠れ里はよき処よと、桃豹殿は心底から安堵の息をつかれた。山懐に抱かれた人々はおしなべて穏やかで、生き馬の目抜く如き江戸での暮らしとはほど遠い。
気づけば四半刻ほどもうち過ぎたのか、線香はあらかた燃え尽きようとしていた。蝶は相変わらず墓石に止まったままである。

桃豹殿はついと立ち上がると胸元から筥迫を引き抜き、中身の薄様ごと線香の燃えさしに焚べられた。

「あれ!何と勿体なきことを!!」

金角銀角が慌てて止めようとしたが、後の祭りである。
すぐに薄様に火が移り、次いで噎せ返るような伽羅の香りが辺りに立ち籠めた。


その拾壱に続く







 

 

 

 

 

 

 

 













万福寺では朝から近在の家々の内儀たちが集まり、施餓鬼会の支度に取り掛かっていた。真言宗では他の宗派より供養の回数が多いのだが、何分物要りでもあるし、ころにゃん騒ぎになってからは盂蘭盆会法要の付け足りみたいな小規模なものになっていた。
しかし、今年は桃豹殿から竹林の地滑り修繕費には余りある寄進があったお蔭で、盛大な法要ができるとあって、和尚は大喜びだった。
ぱりっとした袈裟を着けた和尚は常にも増して堂々と見え、参列した者たちは皆ひどく有難い気分になり、低頭して手を合わせている。この袈裟は先の修繕費と共に桃豹殿から届けられたものであった。秋の七草を織り込んだ意匠凝らした上等な品で、おろすのを勿体ながる和尚を小僧が説き伏せて着けさせたのである。内陣の灯明にも外光にも映えて、見る角度により金茶にも玉虫色にもなり、大層神々しくきららかである。







施餓鬼は「救抜焔口餓鬼陀羅尼経 (くばつえんくがきだらにきょう)」 という経典に説かれている。
ある日、お釈迦様のお弟子の阿難(あなん)尊者が座禅を組んでいると、突如目前に一匹の餓鬼が現れて、「お前は3日のうちに死んで、俺みたいな餓鬼になるのだ。」と告げた。
死後に餓鬼道に墜ちた者は、痩せこけて腹ばかり膨れた醜い姿になる。そして、飲食物を手にしようとするとたちまちそれが燃え上がり、飲み食いできないために、永遠に飢餓に苦しんで彷徨うのである。

驚いた阿難がお釈迦様に相談すると、お釈迦様は「食物を供えて法要を営みなさい。お経の法力により無限に増えた供物が餓鬼を救い、施主のあなたの寿命を延ばして仏の道を悟ることができます。」と仰った。
阿難が陀羅尼(だらに)を唱えながら飲食(おんじき)を施して供養すると、餓鬼は救済されて延命したのである。

これが、施餓鬼会の始めとされており、先祖供養と共に行うと徳が積めると考えられたためか、万福寺でも盂蘭盆会と併せて催されていたのである。
餓鬼は本来夜間に活動するため、以前は日没以降に灯明や香華なしで、鐘も鳴らさず数珠も摺らず、本堂外回廊で法要を行っていたが、米屋のご隠居が暗がりで躓いて外階段から転げ落ちて大怪我してからは、昼前に執り行うようになっていた。

桃豹殿は案内の小僧が畏まるのを制して、回廊脇の目立たぬ処に座して開甘露門経をお聴きになった。暑い時期とて開け放たれた戸の隙間から、ちらと内陣をご覧になり、この数年かけて若君が漆塗りと蒔絵修復なさってはいるが、金箔押しと飾り金具にも手を入れたほうがよいなと思案された。

法要が済むと、和尚は檀家の人々に囲まれて談笑している。
桃豹殿は後でまた立ち寄ると小僧に言いおき、寺の裏の墓地に廻って地滑り修繕した箇所を見に行くことにした。金角銀角に水桶と香華を持たせて、竹林の小径を辿ってゆく。孟宗竹の隙間から雛壇のような墓地を右手眼下に見下ろしながら登っていくと、昼尚暗い竹林の奥まった処に旧い墓石の一群が見えた。右手の一部が地滑りしたので竹林が途切れているのだが、裏手に鬱蒼とした竹とブナ林を背負っているために、此処だけ本堂の内陣の如く周囲から隔絶されているように思える。

地滑りした箇所には元通り盛り土され、設けられた柵の外側には土留めの杭が隙間なく打ち込まれている。金角が崖下を覗き込むと、かなり広範囲に渡り、斜面の下から半分程まで石垣が積まれていた。

この短期間にようもこれだけの普請を…。嵐やってくる時期前にやらねばと、大分無理したようじゃな。此処が全て崩れるようなことあらば、崖下の墓はあらかた難を免れまい。

桃豹殿は足元に敷き詰められた砂利踏みしめながら、律儀な和尚に報いるには、本堂の修復早めねばなるまいなと改めて胸算用された。



その拾に続く