崖に一番近い端の墓石の前に屈み込んでいた銀角が、頓狂な声を挙げた。

「あれぇ!?このご仁のご命日は、宝永六年己丑(つちのとうし)睦月十日…犬公方様のご薨去と同日でござりまするぞ。」

「これ!無礼を申すでない。常憲院様と申し上げよ!」

桃豹殿が眉根を寄せて咎めると、銀角はぺろりと紅い舌を出した。
常憲院様とは5代綱吉公のことである。
銀角は生類憐みの令などという悪法を発布した綱吉公を、庶民を苦しめたからという理由より、忌み嫌っている犬を擁護したからという理由からひどく毛嫌いしていた。

因みに19世紀始めに編纂された『御実紀』※によると、3箇所に建てられた犬小屋のうち、最大規模の中野屋敷は30万坪※にも及び、多いときで10万頭もの犬が収容されていたという。更にひどいことに、年間9万8千両※もの費用を賄うために、江戸市民から「御犬上ヶ金」を徴収していたのだから、綱吉公が暗君と言われ、皆から蛇蝎のように嫌われても致し方ないと言えよう。

※『御実紀』
通称『徳川実紀』。初代家康〜10代家治までに渡る江戸幕府公式の編年体史書。この小説の時点ではまだ編纂されていないww

※30万坪
東京ドーム20個分。

※9万8千両
米の値段10㎏=4,000円で計算すると、元禄小判一両=60,000円
98,000✕60,000=5880,000,000
58億8千万円…

米の値段10㎏=4,600円で計算すると、元禄小判一両=69,000円
98,000✕69,000=6,762,000,000
67億6,200万円
(ーー;)これ、犬のエサ代だぜ…



気働きに優れた金角は、手早く襷掛けして、水桶満たすついでに調達してきた草たわしをちょいと濡らすと、銀角の読んでいた墓石をせっせと擦り始めた。

「これは粟飯原家のお墓でござりますな。」

「名主の粟飯原の墓ならば、鐘撞堂の裏手にいくたりか固まっていたようだが?」

桃豹殿は墓石を覗き込んだ。

「ならば、ご縁者のお墓でございましょうか?」

金角が手を止めて、桃豹殿を仰ぎ見る。

「縁者ならば、こんな奥まった場所に葬りはすまい。…それに、考えてもみよ。こちらのほうが鐘撞堂の墓より遥かに旧いものであろ。」

「ひぇぇ!!90年以上も前の墓でござりまするぅ!」

傍らで指折り数えていた銀角がまたまた素っ頓狂な声を挙げた。その声に驚いたのであろう。竹林から雀がざざっと羽音たてて一斉に飛び立った。


「もし名主殿のご先祖であるなら、何ぞ仔細あって、こちらに取り残されたのやもしれませぬな。」

手際よく苔削ぎ落としながら、金角が呟く。
桃豹殿は頷き、苔の下から現れる文字を覗き込みながら、今朝の若君の話を思い起こしていた。

目を白黒させて朝餉丸呑みしながらの今ひとつ要領得ない話だったが、昨夜、粟飯原本家の娘が訪ねて来たとか申しておったな。何でも仔細ありげな様子で、蔵の在処言い置き、鍵託して行ったとか。名は確か…。

不意に、金角の握る草たわしの下から、「志乃」という文字が目に飛び込んできた。





…あぁ、あの折は「志」の文字しか判読できなんだが、崖下に埋もれていたのは、この墓石であったな。

墓石は全部で12立ち並んでいた。
金角銀角を促して墓裏ブナ林の下草刈ってまとめさせ、倒れかけている孟宗竹払って拵えた筒を墓石の数だけ埋めて、水湛えさせる。
桃豹殿は居並ぶ竹筒に、持参した山百合、木槿、擬宝珠、百日紅、吾亦紅などを彩りよく活けられた。金角が黄玉の火打石を二、三回打ち鳴らすと手妻みたいにぽぅと線香に火が灯り、煙が白く立ち昇った。

三人は墓石群の前に蹲り、手を合わせて暫し瞑目した。ふと目を上げると、何処から迷い込んできたのか、小さな蝶が墓石の合間をひらひら飛んでいる。
随分ふらついた翔び方であることよと思って見ていると、右端の墓石の頭に縋りつくように止まった。
小型の揚羽蝶かと思いきや、錦蝶である。開帳五、六寸ほどの小体な蝶だが、黄色と黒の立縞で後翅外側に紅、青、橙の斑紋がある。

※錦蝶
ギフチョウの古名。



東莠南畝讖(とうゆうなんぽしん) 3巻 
現存する最古の動植物図譜

1731(享保8)年〜  1748(寛延元)年間に岐阜県養老町沢田にある真泉寺の住職毘留舎谷(びるしゃや)により描かれたと言われている彩色スケッチ。朱筆は後年、小野蘭山が加えた。


桜咲く頃に生まれて花々巡りて蜜を吸い、半月も経たぬうちに消える生命が、何故この暑い時期まで長らえることが適ったのかと不審に思いながら、艶やかなその紋様見守るうち、桃豹殿は物思いに沈んでいかれた。
線香の燻(くゆ)りが蚊除けになるを幸いと、金角銀角は桃豹殿のお邪魔にならぬよう阿吽狐の如くひっそりとお側に控えている。

古来蝶は、幽世(かくりよ)と現し世を行来するものとされておるゆえ、この錦蝶は、墓の主の使いなのであろうか。地滑りから墓石引き上げて元の場所に据え、崖修繕した礼に飛来したのか、それとも他に何ぞ伝えたきことでもあるのか…。
陽当りよき場所に棲む錦蝶の姿借り、こんな鬱蒼とした日蔭などに飛来するは、何ぞ謂れがあるのであろうな。

錦蝶は丈低いスミレやカタクリの蜜を好むと聞いたことがある。
…カタクリと申せば、以前、お風邪気の若君に片栗粉溶いて差し上げるよう指図したことがあったな。館に備蓄が無うて梅吉が持参したもの使ったとかで質したら、館への坂道下の斜面のブナやミズナラ林の中に堅香子(かたかご)※が群生しているゆえ、たまの要り用分ぐらいは充分賄えると申しておった。
春になれば、この蝶の次の世代もカタクリの蜜求めて数多翔び交うに違いない。

※堅香子(かたかご)
カタクリの古語。

墓の背後護る落葉広葉樹のブナは、秋になれば村長の処の子どもらが落ちた種実を拾い集め、干したものを炒っておやつにしている。取りこぼした種実からは春に新芽が出て、湯掻いて副菜にもなる。
ブナの紅葉期は短くすぐに落葉してしまうが、ミズナラのそれは美しく山肌彩り、伐り出して柾目磨けば美々しい調度となるため、宮大工の冬場の内職に鏡台や鏡架台造り頼むこともある。

ブナとミズナラの間には梅、桃、桜は言うに及ばず、躑躅、紫陽花、百合、椿や山茶花も交じっているので、一年中花活け用に事欠くこともない。自生のものもあれば、人が手入れたものもあろうが、四季折々の恵みを余すことなく享受できるこの地は誠に有難く、寺向こうの山裾に広がる薬草園の収穫量も、桜子姫君や村の子どもたちの奮闘で益々増えて来ている。

ほんにこの隠れ里はよき処よと、桃豹殿は心底から安堵の息をつかれた。山懐に抱かれた人々はおしなべて穏やかで、生き馬の目抜く如き江戸での暮らしとはほど遠い。
気づけば四半刻ほどもうち過ぎたのか、線香はあらかた燃え尽きようとしていた。蝶は相変わらず墓石に止まったままである。

桃豹殿はついと立ち上がると胸元から筥迫を引き抜き、中身の薄様ごと線香の燃えさしに焚べられた。

「あれ!何と勿体なきことを!!」

金角銀角が慌てて止めようとしたが、後の祭りである。
すぐに薄様に火が移り、次いで噎せ返るような伽羅の香りが辺りに立ち籠めた。


その拾壱に続く







 

 

 

 

 

 

 

 













万福寺では朝から近在の家々の内儀たちが集まり、施餓鬼会の支度に取り掛かっていた。真言宗では他の宗派より供養の回数が多いのだが、何分物要りでもあるし、ころにゃん騒ぎになってからは盂蘭盆会法要の付け足りみたいな小規模なものになっていた。
しかし、今年は桃豹殿から竹林の地滑り修繕費には余りある寄進があったお蔭で、盛大な法要ができるとあって、和尚は大喜びだった。
ぱりっとした袈裟を着けた和尚は常にも増して堂々と見え、参列した者たちは皆ひどく有難い気分になり、低頭して手を合わせている。この袈裟は先の修繕費と共に桃豹殿から届けられたものであった。秋の七草を織り込んだ意匠凝らした上等な品で、おろすのを勿体ながる和尚を小僧が説き伏せて着けさせたのである。内陣の灯明にも外光にも映えて、見る角度により金茶にも玉虫色にもなり、大層神々しくきららかである。







施餓鬼は「救抜焔口餓鬼陀羅尼経 (くばつえんくがきだらにきょう)」 という経典に説かれている。
ある日、お釈迦様のお弟子の阿難(あなん)尊者が座禅を組んでいると、突如目前に一匹の餓鬼が現れて、「お前は3日のうちに死んで、俺みたいな餓鬼になるのだ。」と告げた。
死後に餓鬼道に墜ちた者は、痩せこけて腹ばかり膨れた醜い姿になる。そして、飲食物を手にしようとするとたちまちそれが燃え上がり、飲み食いできないために、永遠に飢餓に苦しんで彷徨うのである。

驚いた阿難がお釈迦様に相談すると、お釈迦様は「食物を供えて法要を営みなさい。お経の法力により無限に増えた供物が餓鬼を救い、施主のあなたの寿命を延ばして仏の道を悟ることができます。」と仰った。
阿難が陀羅尼(だらに)を唱えながら飲食(おんじき)を施して供養すると、餓鬼は救済されて延命したのである。

これが、施餓鬼会の始めとされており、先祖供養と共に行うと徳が積めると考えられたためか、万福寺でも盂蘭盆会と併せて催されていたのである。
餓鬼は本来夜間に活動するため、以前は日没以降に灯明や香華なしで、鐘も鳴らさず数珠も摺らず、本堂外回廊で法要を行っていたが、米屋のご隠居が暗がりで躓いて外階段から転げ落ちて大怪我してからは、昼前に執り行うようになっていた。

桃豹殿は案内の小僧が畏まるのを制して、回廊脇の目立たぬ処に座して開甘露門経をお聴きになった。暑い時期とて開け放たれた戸の隙間から、ちらと内陣をご覧になり、この数年かけて若君が漆塗りと蒔絵修復なさってはいるが、金箔押しと飾り金具にも手を入れたほうがよいなと思案された。

法要が済むと、和尚は檀家の人々に囲まれて談笑している。
桃豹殿は後でまた立ち寄ると小僧に言いおき、寺の裏の墓地に廻って地滑り修繕した箇所を見に行くことにした。金角銀角に水桶と香華を持たせて、竹林の小径を辿ってゆく。孟宗竹の隙間から雛壇のような墓地を右手眼下に見下ろしながら登っていくと、昼尚暗い竹林の奥まった処に旧い墓石の一群が見えた。右手の一部が地滑りしたので竹林が途切れているのだが、裏手に鬱蒼とした竹とブナ林を背負っているために、此処だけ本堂の内陣の如く周囲から隔絶されているように思える。

地滑りした箇所には元通り盛り土され、設けられた柵の外側には土留めの杭が隙間なく打ち込まれている。金角が崖下を覗き込むと、かなり広範囲に渡り、斜面の下から半分程まで石垣が積まれていた。

この短期間にようもこれだけの普請を…。嵐やってくる時期前にやらねばと、大分無理したようじゃな。此処が全て崩れるようなことあらば、崖下の墓はあらかた難を免れまい。

桃豹殿は足元に敷き詰められた砂利踏みしめながら、律儀な和尚に報いるには、本堂の修復早めねばなるまいなと改めて胸算用された。



その拾に続く








 

 

 















一年のうちでも特段暑い時期の盆の中日、そろそろ陽射しきつくなる頃、お館の奥まったお居間にて、桃豹殿と若君は対座して朝餉の真最中であった。
それでなくとも煙たい存在のご後見桃豹殿と若君が、如何なる訳にて朝餉を共にしているかというと、勿論昨夜の一件絡みに由来する。

早う肩の荷降ろしたしと考える若君は、桃豹殿がお出かけの前に粟飯原縁者の持込んだ蔵の鍵をお渡ししてしまおうと目論見み、朝寝の床抜け出して急ぎ身支度整えてお居間を訪うたのである。
桃豹殿が日々のならいにて、寝起きのお薄を一服され、お仕舞とお着替え済まされた後、朝食の膳運ばせたところに折悪しく若君が訪うて来たのが運の尽きだった。

「さてもここ暫くまともに顔合わすることもなかりし故、たまにはご一緒に朝餉など如何かの。」

早い刻限に他人訪うはやぶさかならねど、訪い受けるに甚だご不快覚えられた桃豹殿は、意趣返しに少々嬲(なぶ)ってやろうとお思いになり、すぐに若君の膳も運ばせたのである。

程よく糊効かせた青海波紋の浅葱帷子に、羽衣のような銀紗の腰巻姿の桃豹殿は、この暑いのに汗ひとつかかず、涼しげなる風情にて箸を使っておられる。

この方の前に出ると、何故こうもざわめく心地するのであろうか…。格別後ろめたきことなどある訳もないのに、どうにも落ち着かぬ。

若君は甚だ居心地悪しく、砂食む思いで飯を口に押し込み、茗荷のかき玉汁の椀を啜っては飲み下されていた。
叩いた梅肉と千切りにした大葉で和えたえのき茸には、冷えた麺汁がかけ回してあるが、これも味わう余裕などなく丸飲みなさる。
えのき茸を危うく喉に詰まらせそうになった若君は、急いで懐紙取り出して顔背け、えへんと咳払いして吐き出されて事なきを得た。

「もそっとゆるりと召し上がりなされ。」

眉顰める桃豹殿の言葉に涙溜めて頷きつつ、四つ折にした懐紙を懐に捩じ込んだ若君は、昨夜の件をかいつまんで話し、蔵の鍵の袱紗包みを前に押しやった。明るい陽の光の元で見る袱紗包みは古色蒼然としている。

「確かに面妖な話じゃの。」








ひと通り話を聞き終えた桃豹殿は、蔵前の札差泉屋から贈られた怖ろしく高値とかの阿蘭陀渡り藍絵花虫文の茶碗で、冷やした甘茶をひと口含まれた。
次いで、これも非常に希少なるぎやまんの鉢で供された甘露水に浮かぶ小さな蓮餅を黒文字※でつついて、にんまり微笑まれて口に放り込まれた。ぷにぷに柔らかな食感が心地よく、上品な甘さが鼻に抜ける。

※黒文字
樹皮つきで角型の楊枝

…ふぅむ、献上品の和三盆糖使うとは、梅吉め、奢りおったな。
若君が上様誑し込んで褒美にせしめたものか、さもなくば薬種ということで高松より買付たものか、何れにせよ贅沢なことこの上ない。

8代吉宗公御代の享保の改革に際し、大名たちは新田開発と共に、特産品創生と財源確保に躍起になった。高松藩5代藩主松平頼恭は、奢侈ではあるが需要の高い製糖を平賀源内に命じ、幾多の困難を乗り越えて向山周慶により成ったという。
中でも、砂糖を研いで不純物をなくした和三盆糖は大変高価なもので、なかなか口にできるものではない。

お館に若君たちが滞在する際には、村長の処から厨の手伝いに梅吉がやって来ていた。
神奈川宿の料亭の倅だった梅吉は、姫君ご入輿前年の極寒期に、万福寺墓地で倒れていたところを桃豹殿に助けられた。その後、村長に預けられて他の孤児たちに交じって村のために働くが、血は争えぬもので程なく厨で活躍するようになった。生命の恩人である桃豹殿を始め、お館の人々に舌鼓打って貰おうと常に新たなる料理を考案している。

この蓮餅は、醍醐帝が好物により太夫の位まで授けた蕨餅の食感から思いつき、試行錯誤の上につい先頃でき上がったものである。桃豹殿は蕨餅より数段上をいくなめらかなる喉越しにいたく満足なさり、若君にも薦められる。
黒文字からぬらりと逃げる蓮餅を、若君は甘露水ごとへろりと啜り、暫し瞑目して口中で転がした。

「…ほう!これは美味にして大層雅な…。」

葛より弾力があり、蕨餅よりなめらかなる蓮餅に、今までの心地悪さなど吹き飛び、若君は蕩けそうな面持ちで名残惜し気に最後のひとつを飲み下された。そして桃豹殿をちらと見上げ、恥じらいながらもお代りをご所望なさった。

桃豹殿が振るぎやまんの呼鈴の玲瓏なる音に応えてやって来たのは、手習い所の師範代である双子の片割れである。彼らの名は金角と銀角というが、若君には二人の見分けが全くつかない。






「銀角、若君に蓮餅のお代りをお持ち申せ。姫君の分もご用意してあろうの?御膳に付けて差し上げるがよい。」

はっと平伏すると、銀角はからくり人形みたいな動きでするすると後退りして廊下に消え、すぐに膳を捧げて戻って来た。
匙が添えられた銀椀に、小指の先ほどの薄紅や薄緑の求肥餅が載った蓮餅が盛られ、白蜜と黒蜜入りのぎやまんの猪口がふたつ載せられている。

「お好みの蜜かけてご賞味くださりませとのことにございます。」

若君は頷いて、まず白蜜かけて口に含まれ、ほうと溜息おつきになった。
先の甘露水に泳ぐ蓮餅の玉は、あえかな光閉ざした水晶の如きあっさりした味わいであった。しかし、この椀は濃厚なる蜜絡め、見た目が華やかであるばかりか、求肥に負けぬ深い味わいも醸しておる。黒蜜かければ更なる馥郁たる香りが口中に拡がり、こんな美味なるものばかり食していては、到底上屋敷に帰れぬとお思いになった。

梅吉の腕は実になかなかのものであるな…。創意工夫だけでなく、細やかな心配りにも長けておる。神奈川宿で料亭営んでいた父御譲りであろうが、残念なことに欲のないところが商売向きではない。いくら腕が立つとて、金勘定に疎ければすぐに店畳むことになるは必定。何れ店を持たせて独立させてやりたいが、誰ぞしっかり者の相棒でも見つけてくれればよいのだが…。

「…されば、我らで蔵の中検分致し、好きにしてよいのじゃな?」

若君は桃豹殿の声にはっと我に返った。いつの間にか桃豹殿の両隣りに双子の師範代金角と銀角が控えて、こちらをじいっと窺っている。表情の薄い白い瓜実顔につり上がった眼が、稲荷の阿吽狐のようで薄気味悪いことこの上ない。

「本日は施餓鬼供養ゆえ、我らもこれから麓の寺に顔出さねばならぬ。蔵には明日にでも参ると致そう。」

ついと立ち上がり、銀紗の羽衣の袖を翻してお居間を出る桃豹殿の後を金角銀角が追い、障子がはたりと閉てられた。



その玖に続く