お陰さま達が日向になるまで | 端

あっ!


私は「戻れないあの日」に懸命に手を伸ばした。
それは驚くほどに近くにあって、なのに蜃気楼のようにユラユラとして消えた。
戻りたい日々を思い出す。それは決して今に不満を抱いているからでなく、ただただ郷愁的に、あの夕焼けの中をもう一度だけぶらぶらと自転車を押しながら帰りたい、帰りたい、帰りたいだけなんだ。

帰りたい、一体どこに?
誰のもとに?どの場所に?
いつだってただ現在は「在る」だけだし、
過去は「在った」だけなのに。
私は一体、どこへ帰りたいのだろうか。
今ある場所が、在るべき場所なのではないだろうか。

もう二度と戻れない十代を思い出して、どうしようもなく戻りたくなる。もう一度、今日この気持ちを持ったままあの日に帰れたらどれだけいいだろうか。夕焼けも、田舎のあぜ道も、仲の良かった友達の家のベッドの上も。あの日々の全てのどれもこれもが鮮明に思い出されて胸が苦しくなる。

そう。そういう風に思えられるのは、私が恐ろしいほどに愛すべき十代を過ごしたからだろう。
映画のようで、小説のようで、そしてあまりに普遍的で、誰しもがあったような経験を、身体いっぱいに感じて生きてきたからだろう。
だから、戻りたいのだ。
自信を持って、「素晴らしい日々だった」と言える日々だったからこそ、戻りたいのだろう。

だけどそれは、私が作ったものではない。
私を取り巻いていた全ての環境が、人々が、豊かだったからこそ植え付けられたノスタルジーだ。

ノスタルジーを作るのは、いつだって、あの日の愛すべき人々と景色だった。私が、私だけが生み出して作ったのではない。
全て全てが「おかげさま」で成り立っている。

あの日の「おかげさま」達が、長い年月を越えて、陰なんかでなく、溢れんばかりのひなたになっていく。あの日の「おかげさま」達を、陰から必死に探す毎日になってしまった。
いつだってあの頃のすべての人々が、「日向」だったことに気づくのは、皮肉にもこんなに歳をとってからなのだ。


“たからや”のオバチャン、“カナリヤ”のおじちゃん、おばちゃん、お隣の山下さん、給食センターのおばちゃんたち、親友のアヤカ、ライブハウスのえっちゃん、数学のまっつん、学園長、前の席のミホ先輩、隣の席のおりさ、バイクの後ろに乗せてくれたたっくん、死んじゃったリカちゃん、アコギで“Fが押せない”と笑っていたマオちゃん、バンドが好きだったマコちゃん、いつもうちに遊びに来たシュリナ、水色のカーディガンを着たむっさん、振られて泣いてたちゃす、馬鹿なことばかりででも一緒にたくさん笑ったパン、海まで連れてってくれたあのお姉さん、私のことを太陽だと言ってくれたクラタくん、「昔のお前が良かったよ」と笑ってくれたフジスエくん、「差別と区別は違うのよ」と言っていた先生、「お前が先に俺を忘れるよ」と言ったユウタロウ、小学校の時に片思いをしていたマキくん、ラブレターを初めて渡したハラグチくん、ヤンキーだけど優しかった幼馴染のユリ、寂しい顔していたけど素敵だったリエちゃん、いじわるだったけど快活だったイワサキさん、そして、悲しいことを悲しんでいいと教えてくれた真ちゃん、本当に大切だと思ったユリエ。

ぜんぶ、いや、もっとたくさんの人に出会っていたし、たくさんの人と笑っていたし、書ききれないほどに色んな人に出会って、疎遠になって、どこか幻のようになってしまった。



誰かの中で、私が思い出されることはあるだろうか。
誰かの中に時々現れることはあるだろうか。

私だけが、きっとあの日から出られないまま、こうやって現代に残されている。
私だけが、まだ2000年代初期を生きている。
ずっと、そうなんだ。



もう二度と会えない人ばかり。
そういうことを、思い出す。
思い出して、やめる。
いつかもっとずっと先は、また今日に戻りたいと泣いているんだろう。愚かな生き物だ。

私はずっと、今日をちゃんと生きられない。
過去を振り返ることで今日を消費して、未来を見ていない。


それでも過去に感謝をしたい。
過去に出会った人に感謝をしたい。

泣けるほど戻りたいと思える過去を作ってくれたあの人たちに感謝をしたい。



あなたは今日、どんな風に生きていますか。