広島史記傅説 己斐の巻
勝手に連載してますが、今回は其の五です。
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◇今も生きている奉仕の精神
”諸士の苦労をはかり、飢渇を知り、傷みを撫でて病をいたわり、万民を我が子の如く慈愛する、これ仁なり”
仁恵の精神は、母タヅさんが生来信仰し、朝夕礼拝供養して怠ることのなかった観世音菩薩の心である。
この母の心は、母と別れ住んでいても、目に見えぬ糸のように氏の心の中に繋がっていたのである。
すなわち、終戦後、せめて一局地でもよいから、仁政を施し、己の理想郷を実現してみよう。
--と、従来、林斉民が縄張りとしていて、氏にとっても交渉や親しみの深い崙山島をその対象に、開発を許可するという福建省長の諒解を得て、氏は早速その部下とともに島の開発に乗り出したのである。
飢えたるものには食を与え、傷ついたものには病院を建てて収容し、さらに教会を建て各自がもとめる信仰の道につかせた。
俄然、この夢の孤島は戦禍に右往左往する中国民衆の心をとらえ、一大ユートピアとして伝えられ、人々の憧れの的になるほどになった。
興亡幾千年、伏穀、神農、皇帝より蒋介石-毛沢東と、支配者は移り変わってゆくけれども、結局、中国民衆のもとめるものは、その日、その日の安定である。
立派な制度をつくり、立派な政治を行い、民衆に安息感を与えてくれる人がいたなれば、たとえその支配者は、誰であろうと問うところではない-と、いう考えが、戦禍にあえぐ中国民衆の本心ではなかったろうか。
それゆえに、孤島を楽園化してくれた一日本人岩田幸雄を”蔡爺”(チャイエ)と中国民衆にとって、最高の敬称を奉り、蔡爺は、太古中国人が日本に渡り、その子孫が、岩田幸雄となり、中国に帰国したのではないか、とさえ囁きはじめたのである。
そして、それが真実でなければ中国貧民にこうした救いの手を差し伸べてくれるはずがない、とまで固く信じるようになり、蔡爺は、島の救世主として、慈母観音の如く慕われた。こうした人物の出現は、うち続く戦禍にあえぐ中国近代史にも見ることのできない奇跡的なものであったからである。
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その六に続く・・