岩田幸雄研究 -8ページ目

岩田幸雄研究

広島の岩田幸雄について調べた記録(ログ)です

広島史記傅説 己斐の巻

勝手に連載してますが、今回は其の五です。


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◇今も生きている奉仕の精神

”諸士の苦労をはかり、飢渇を知り、傷みを撫でて病をいたわり、万民を我が子の如く慈愛する、これ仁なり”

仁恵の精神は、母タヅさんが生来信仰し、朝夕礼拝供養して怠ることのなかった観世音菩薩の心である。

 

この母の心は、母と別れ住んでいても、目に見えぬ糸のように氏の心の中に繋がっていたのである。

すなわち、終戦後、せめて一局地でもよいから、仁政を施し、己の理想郷を実現してみよう。

--と、従来、林斉民が縄張りとしていて、氏にとっても交渉や親しみの深い崙山島をその対象に、開発を許可するという福建省長の諒解を得て、氏は早速その部下とともに島の開発に乗り出したのである。

飢えたるものには食を与え、傷ついたものには病院を建てて収容し、さらに教会を建て各自がもとめる信仰の道につかせた。

俄然、この夢の孤島は戦禍に右往左往する中国民衆の心をとらえ、一大ユートピアとして伝えられ、人々の憧れの的になるほどになった。

 

興亡幾千年、伏穀、神農、皇帝より蒋介石-毛沢東と、支配者は移り変わってゆくけれども、結局、中国民衆のもとめるものは、その日、その日の安定である。

立派な制度をつくり、立派な政治を行い、民衆に安息感を与えてくれる人がいたなれば、たとえその支配者は、誰であろうと問うところではない-と、いう考えが、戦禍にあえぐ中国民衆の本心ではなかったろうか。

それゆえに、孤島を楽園化してくれた一日本人岩田幸雄を”蔡爺”(チャイエ)と中国民衆にとって、最高の敬称を奉り、蔡爺は、太古中国人が日本に渡り、その子孫が、岩田幸雄となり、中国に帰国したのではないか、とさえ囁きはじめたのである。

 

そして、それが真実でなければ中国貧民にこうした救いの手を差し伸べてくれるはずがない、とまで固く信じるようになり、蔡爺は、島の救世主として、慈母観音の如く慕われた。こうした人物の出現は、うち続く戦禍にあえぐ中国近代史にも見ることのできない奇跡的なものであったからである。


 

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その六に続く・・

広島史記傅説 己斐の巻

勝手に連載してますが、今回は其の四です。


 

孝心が築いた多宝塔 - 平和を祈る慈母観音の心

 

今一度、岩田幸雄氏の伝記小説”海賊”の発端を振り返ってみよう。

それには-法律家で身を立てようと、明治大学の法科に籍をおく岩木庄平は、根っからの赤嫌いであった。
学校を出るのを待ちかねるように、浜に出て沖仲士の親分となったある日、賃金の値上げ問題からスト回避運動に絡み、海員組合員に化けた赤の暴力団から日本刀で肩先を斬りつけられた・・・。

このエピソードでも語られる、氏の国家活動を貫く気丈な性格は、母タヅさんからの素質として強く氏の体に受け継がれたものである。

 

女手一つで家業の製餡業を守り、そのかたわら6人の子供を立派に育てあげたことは、財の如何にかかわらず、強い意志がなければ、到底貫き通し得るものではない。まず岩田家から説明を加えよう。

 

岩田家の原籍地は広島市榎の町である。
いまの天満橋を東に渡って、左-広瀬橋までの一帯を”旧市”といい、当時、中央市場の前身たる野菜市場があって、出荷する人、買って帰る人で賑わった。その旧市場が開かれる前、この一帯は岩田家の所有地で、一角に屋敷がありその屋敷内に一本の大きな”榎木”が空に梢を張っていた。

このため、ここは広島城下五ヶ庄のうち、広瀬組”榎町”と呼ぶようになった。岩田家は、広瀬の庄のうちで、生えぬきの家柄であり、地主さんでもあったが、先代萬太郎さんが手を出した米相場にしくじって、さしもの財産を人手に渡し、55歳で世を去ったのである。

 

あとに残された妻タヅさんは、長男現当主 正次郎(70歳)、長女チヨ(荒石家、65歳)、幸雄(63歳)、清兵衛(死亡)、冨士夫(55歳)、三吾(52歳)の五男一女を抱えて、家業の餡製造業にいそしんだ。 ※1

この餡は、小豆、隠元豆などをすりつぶし、これに砂糖をまぜて甘味をつけたもの、主に菓子、餅、しるこなどの製造業者に大卸しする仕事であるから、これらの業者が、その日の仕事をはじめるまでに、毎日決まった量を送ってやる必要がある。

 

そこで、朝早くから起きて製造をはじめ、次々大勢の使用人を督励して、定刻までに送り届けねばならなかった。その忙しいことは、毎日がまるで火事場のような有様であった。

このような猫の手も借りたいほどの家業をよそに、ひたすら未来の法学士さんに望みをかけて、二男幸雄さんを明治大学の法科に入学させたのである。

いまでこそ、亡父の米相場で財を散じたとはいえ、母タヅさんがリードする岩田家一家の向学の精神は、決して消えるものではなかった。

 

明治の母としての”逞しさ”は、少々の財の多寡で崩れ去るものではなかった。母タヅさんは、幸雄少年のうちに、自分の投影を見、愛情と獅子を谷に落とす厳しい教えから、氏の東京遊学へ承諾を与えたものと思われる。
母タヅさんは愛する六子に対し、母の愛情とともに、亡き父に代わる剛の二面を兼ね備えていたものであろうか。

上京した青年期の愛児の上には、昭和初期の激動の歴史が待ち受けていた。

そこには坦々たる平安の大道があるはずはなかった。幾多の紆余曲折を経て、前記小説のような中国大陸への雄飛となったのである。

これに対する母タヅさんの想いは、どうであっただろうか。

国家のために一身を捧げて中国大陸をかけめぐる愛児幸雄。わが子を手元に呼び寄せたい母としての柔、亡き父親に代わり、御国のために挺身するわが子を持った誇り、と激励-その二つの想いが母タヅさんをして観音様への祈りとなって統一されたのではあるまいか。

 

※1 岩田幸雄の年齢、その兄弟の年齢はこの文が書かれた当時のもののようです。

また、この文が書かれたのは、今 日出海の”海賊”が出版された翌年 昭和42年ではないかと思われます。

 

 

 

 

 

広島史記傅説 己斐の巻

勝手に連載してますが、今回は其の三です。


 

◇軍から感謝状を受く

汪政府樹立をもって、日中和平の柱としようとする”梅機関”の活躍と藍衣社系秘密結社から絶えずつけ狙われる汪精衛の防弾的役割をなす庄平の部下、七十六号組の活躍-汪精衛の客死-まで、筆を運ばさぬまま、今日出海氏の小説”海賊”はここで終わっている。

 

したがって、主人公岩木庄平のその後の活躍ぶりは、岩田幸雄氏の口から聞くほかないが、伝え聞くところによると、汪精衛の死後-日中和平の希望の綱が消えたあとの庄平は、その部下武装特工隊を指導して、日本海軍の手の届かない海上輸送に力を尽くし、軍需物資の収集、あるいは、満州から日本軍が使用する金塊の海上輸送に協力するなど、目立たないながらも陰の力として大きく軍の作戦に寄与、国家の目的に貢献していたということである。

 

そのため当時、海軍から感謝状を受けて現在氏の座右におかれ、国家社会への奉仕という氏の信念を自ら励ます資料として揚げているとのことである。

 

小説”海賊”の題名も氏の決死的の海上輸送活動を、昔瀬戸内海で活躍した村上水軍、さらに南シナ海を渡った八幡船(ばはんせん)になぞらえたもので、軍の指令に基づく国家活動と本質的に異なっていることはいうまでもない。

 

 

 

広島史記傅説 己斐の巻

勝手に連載してますが、今回は其の二です。(其の一、其の二・・・分け方は適当です)


 

◇汪兆銘の決死救出

昭和13年12月13日。
汪兆銘は変名して、重慶を脱出し、昆明で飛行機に給油の上、一気に仏領印度支那のハノイに着いた。
脱出には成功したものの、亡命者として地下に潜らざるを得なかった。

重慶での汪兆銘は、裏切り者、漢奸の汚名を着せられ、藍衣社の刺客がいつハノイに侵入するかも知れぬ危険な状況にあった。

そこで、庄平は部下を連れてハノイに乗り込み、汪兆銘を護衛してやることが、急中の急務であると考え、東京へ飛んだ。

 

東京に帰った庄平は、犬養健氏と同道し、影佐軍務局長と会い、汪氏の身辺に一刻の猶予もならず、影佐大佐、大鈴軍医少佐、丸山憲兵准尉、犬養健と庄平で、台湾拓殖会社の鉄鉱石積込船という名目で、陽光の支那海を渡り、ハイフォンに到着した。
ここで、重慶脱出の汪一行と手を握り合った・・・。

 

日本船に乗って、ハイフォンを脱出することを潔しとしない汪夫妻一行は、小型のフランス船に乗って、荒波の南シナ海を乗り切ったため、船は木の葉のように揺れ、上海沖に着いたときには疲労困憊半病人のようであった。

そこで、一行十数名を北光丸に乗り移らせた庄平は、食料の補充と静養を兼ね、ひとまず台湾のキールンに向かい、台南の鄭氏と長距離電話で打合せ、食糧、医薬品などを積み込んで引き返し、揚子江を遡り、黄蒲江に入った。

折から、呉淞(ウースン)方面よりの一隻の快速艇が近づいてくる、見れば庄平の部下、特別工作隊の丁黙邨や季士群の一行ではないか。

かねて、日本軍や日本船に護られて、平和運動に従事することを極端に嫌っていた汪精衛は二人の中国人の率いる武装工作隊の出迎えに、雀踊りして喜んだ。

これらの部下を前にして、改めて”日中平和のために捨石となる覚悟”であることを宣言した。


この庄平の堅い決心を聞いた汪精衛は全身に溢れる感激の情を込め、改めて庄平の手を握りしめた。

やがて、汪精衛一行は、訪日の途にのぼることとなった。

庄平はたえず汪の身辺につき従い、東京においても、常に汪の自動車の助手席に座り、油断なく汪の身辺に気を配り、汪が日中和平運動に専念できるよう処置をとったのである。

 

 

 

 

広島史記傅説 己斐の巻という小冊子?があります。

岩田幸雄のことが書かれていますので、シリーズで連載してみます。(文はそのまんま)

 

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広島史記傅説 己斐の巻

異国の地に観音楽土 崙山島に日華友好愛の足跡
「ついに罰せられなかった戦犯の秘密」

 

大東亜戦終戦後、日本の朝野を震がいさせたものは、戦犯の逮捕命令と、公職追放令である。
このうち、公職追放令に対してさえ、世間では戦々恐々としていたものだが、まして戦犯ともなると、ヘタすれば道が絞首台につながっているだけに、心当たりの士を恐怖のどん底に叩き込んだものである。

ちょうどその頃、戦犯岩田幸雄は郷里広島の己斐軍人谷の自宅で悠々閑々、好きな庭いじりに余念がなかったのである。

 

これより先に、現地において蒋介石総統の名により戦犯として逮捕されながらも、ついに罰せられなかった戦犯の秘密はどこにあったのか。

現地崙山島において氏が築き上げようとした理想郷・観音楽土の慈愛心が氏と現地中国人の心を固く結びつけ、氏を慕う心が峻厳な戦犯の裁きから守り抜いたものである。

国家活動に基づく戦争犯罪の容疑とはいいながら、岩田幸雄個人の人間性が、対国家のこの敵対性に打ち勝ったのである。

 

◇波乱万丈の大陸における国家活動
現地中国大陸における岩田幸雄氏の国家活動は波乱を極めている。

氏自身の口から時々、その断片が洩らされるだけで、その全貌を語ることは不可能に近いほど内容にあふれている。

だが、幸いにして、ここに作家今日出海氏が、氏から芸術家として鋭い感覚で聞き出し、これをモデルとして昭和39年12月23日から、翌40年12月28日まで約1年余りにわたり、毎日新聞の夕刊に連載、読者をして手に汗を握らせた問題の小説”海賊”がある。

 

主人公「岩木庄平」が岩田幸雄氏である。岩木庄平の国家活動は、岩田幸雄氏を原型として、作家眼を通じてとらえられた抽象である。

しかし、それとても、小説に描かれた岩木庄平の全活動をここに要約するには、あまりにも多様で不可能である。

そこで、岩田幸雄氏の国家活動の大きなポイントである汪兆銘との関係を、小説”海賊”から採用するにとどめておこう。

 

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今回はここまで。