己斐の巻 其の二 | 岩田幸雄研究

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広島史記傅説 己斐の巻

勝手に連載してますが、今回は其の二です。(其の一、其の二・・・分け方は適当です)


 

◇汪兆銘の決死救出

昭和13年12月13日。
汪兆銘は変名して、重慶を脱出し、昆明で飛行機に給油の上、一気に仏領印度支那のハノイに着いた。
脱出には成功したものの、亡命者として地下に潜らざるを得なかった。

重慶での汪兆銘は、裏切り者、漢奸の汚名を着せられ、藍衣社の刺客がいつハノイに侵入するかも知れぬ危険な状況にあった。

そこで、庄平は部下を連れてハノイに乗り込み、汪兆銘を護衛してやることが、急中の急務であると考え、東京へ飛んだ。

 

東京に帰った庄平は、犬養健氏と同道し、影佐軍務局長と会い、汪氏の身辺に一刻の猶予もならず、影佐大佐、大鈴軍医少佐、丸山憲兵准尉、犬養健と庄平で、台湾拓殖会社の鉄鉱石積込船という名目で、陽光の支那海を渡り、ハイフォンに到着した。
ここで、重慶脱出の汪一行と手を握り合った・・・。

 

日本船に乗って、ハイフォンを脱出することを潔しとしない汪夫妻一行は、小型のフランス船に乗って、荒波の南シナ海を乗り切ったため、船は木の葉のように揺れ、上海沖に着いたときには疲労困憊半病人のようであった。

そこで、一行十数名を北光丸に乗り移らせた庄平は、食料の補充と静養を兼ね、ひとまず台湾のキールンに向かい、台南の鄭氏と長距離電話で打合せ、食糧、医薬品などを積み込んで引き返し、揚子江を遡り、黄蒲江に入った。

折から、呉淞(ウースン)方面よりの一隻の快速艇が近づいてくる、見れば庄平の部下、特別工作隊の丁黙邨や季士群の一行ではないか。

かねて、日本軍や日本船に護られて、平和運動に従事することを極端に嫌っていた汪精衛は二人の中国人の率いる武装工作隊の出迎えに、雀踊りして喜んだ。

これらの部下を前にして、改めて”日中平和のために捨石となる覚悟”であることを宣言した。


この庄平の堅い決心を聞いた汪精衛は全身に溢れる感激の情を込め、改めて庄平の手を握りしめた。

やがて、汪精衛一行は、訪日の途にのぼることとなった。

庄平はたえず汪の身辺につき従い、東京においても、常に汪の自動車の助手席に座り、油断なく汪の身辺に気を配り、汪が日中和平運動に専念できるよう処置をとったのである。