広島史記傅説 己斐の巻
勝手に連載してますが、今回は其の七です。
いよいよ、最終章!
・・・ちなみに、この記事もそうですが、いつも時間があるときにテキストでザーッと書き貯めていたものをブログに掲載してます。
なので、今日の時点で既に9月末まで書いていたりする。(・・・・時々はタイムリーに書きますけど)
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◇来ている慈母の遺訓
83歳の高齢をもって他界したタヅ刀自生前の悲願として、いまから約430~440年前、紀州広八幡社の別当寺に創建された”多宝塔”を移築再建して、三滝寺に奉納したことは、余りにも有名な話題である。
その後の氏は、母の遺訓にもとづき、後半生を世のため人のために捧げんと日夜精進の生活を送って、社会奉仕に生き甲斐を見出している。
亡き母への孝養が、この行為の根源ともなっている。
善意あふれる氏の社会奉仕、慈善事業のかずかずは、「陰徳の人」である氏自身から全貌を知ることはできないが、己斐地区に限っていえば、ボーイスカウト23分団に対して、その育成基金として数十万円醵出したり、日本古来の武道である剣道による精神作興をこめて、己斐青少年を中核とした己斐剣心会に、物心ともに応援を惜しまず、毎年、三滝多宝塔前で剣道大会を開き、今日では第10回を迎えている。
これらはほんの表立った陰徳の現れであり、氏自身の口から、社会寄与の全体をききだすことはできない。
信仰厚かった亡母タヅさんの慈悲の心によって、植え付けられた氏の報恩の精神は、戦争中、一身を捧げての愛国活動となり、戦後には慈母に対する孝心から三滝多宝塔の建立となり、母より受け継いだ慈悲心が今日なお社会福祉に対する寄与のかずかずとなり、日常陰徳が積まれているのである。
同氏の己斐地区にそそぐ愛情は、大きくは祖国愛につながっているものとみてよいだろう。
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と、いうことで、小冊子から記録していたものを7回に分けて掲載させてもらいました。
著者の個人的感情も多く含まれていると思いますが、岩田幸雄氏の人生の流れが垣間見えた気がします。