岩田幸雄研究 -7ページ目

岩田幸雄研究

広島の岩田幸雄について調べた記録(ログ)です

マニアックな画像です。

 

右から紹介しましょう。

 

日本国粋大衆党秘書局長 藤 吉雄氏

 

中華民国国政府主席 汪 精衛氏

 

日本国粋大衆党東亜部長 児玉誉志夫氏

 

そして、大日本帝国外務省嘱託 岩田幸雄氏

 

※ 日本国粋大衆党は、笹川良一を総裁としたファシズム・国粋主義の右翼団体(ウィキペディアより)

 

 

汪精衛氏は、このブログ内の 「己斐の巻」 シリーズにも登場します。

 

児玉誉志夫氏は、ロッキード事件のときに、フィクサーとして一気に名前が知られましたね。

 

児玉機関という海軍航空本部の依頼により、主に物資の調達を目的としていた上海の諜報機関です。

その児玉機関、上海の事務所はブロードウェイマンションと呼ばれていた外国人占用マンションで、今は4つ星ホテルになっているそうです。

 

 

児玉機関については、また触れることにしましょう。

 

話戻して、藤吉雄氏、岩田幸雄氏の両名は、この日本に競艇を作った中心人物です。

(もちろん、笹川良一氏もです)







 

岩田幸雄氏の昭和13年 外務省勤務時代の画像を見つけましたので、アップしましょう。

 

昭和13年当時、岩田幸雄氏は(年表から見ますと)外務省に勤務して1年目の34歳です。


34歳にして少々(かなり?)額が広くなってきてますが、男前に変わりはありません。

 


 

 

 

 

 

(2008年9月の別のブログからの転載です)

 

 

神楽坂の旅館「若可菜」を紹介しましたが、その旅館に宿泊することになりました。

 

岩田幸雄氏の所有していた土地・・・たぶん、想像ですが、建物はそのままで内装だけ変えて旅館経営してらっしゃるのではないかと。

 

で、当時の建物の青写真はありますので、検証してまいります。

 

ちなみに、宿泊料金は思いのほか安く、朝食なしで9,500円。

朝食付きで、11,000円。

 

当然、朝食ありを選択!!

(想像しながら朝をユッタリと過ごしてみます)

 

もしも、脚本家に出会ったら、それはそれで面白そうだし、昔の話が少しでも聞くことができれば、それもそれで面白そう。

 

さて、何かが分かるといいのですが、過度な期待は持たないようホンの少し歴史に想いを馳せて1泊してきます。

 

また、宿泊後に改めてブログに掲載しますのでお楽しみに!

 

※ 宿泊予定は9月後半の休日を利用します。



 

和可菜

住所:神楽坂4-7

電話:03-3260-3769

広島史記傅説 己斐の巻

勝手に連載してますが、今回は其の七です。

 

いよいよ、最終章!

 

・・・ちなみに、この記事もそうですが、いつも時間があるときにテキストでザーッと書き貯めていたものをブログに掲載してます。

なので、今日の時点で既に9月末まで書いていたりする。(・・・・時々はタイムリーに書きますけど)

 

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◇来ている慈母の遺訓


83歳の高齢をもって他界したタヅ刀自生前の悲願として、いまから約430~440年前、紀州広八幡社の別当寺に創建された”多宝塔”を移築再建して、三滝寺に奉納したことは、余りにも有名な話題である。


その後の氏は、母の遺訓にもとづき、後半生を世のため人のために捧げんと日夜精進の生活を送って、社会奉仕に生き甲斐を見出している。

亡き母への孝養が、この行為の根源ともなっている。

善意あふれる氏の社会奉仕、慈善事業のかずかずは、「陰徳の人」である氏自身から全貌を知ることはできないが、己斐地区に限っていえば、ボーイスカウト23分団に対して、その育成基金として数十万円醵出したり、日本古来の武道である剣道による精神作興をこめて、己斐青少年を中核とした己斐剣心会に、物心ともに応援を惜しまず、毎年、三滝多宝塔前で剣道大会を開き、今日では第10回を迎えている。

 

これらはほんの表立った陰徳の現れであり、氏自身の口から、社会寄与の全体をききだすことはできない。

信仰厚かった亡母タヅさんの慈悲の心によって、植え付けられた氏の報恩の精神は、戦争中、一身を捧げての愛国活動となり、戦後には慈母に対する孝心から三滝多宝塔の建立となり、母より受け継いだ慈悲心が今日なお社会福祉に対する寄与のかずかずとなり、日常陰徳が積まれているのである。

同氏の己斐地区にそそぐ愛情は、大きくは祖国愛につながっているものとみてよいだろう。



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と、いうことで、小冊子から記録していたものを7回に分けて掲載させてもらいました。

著者の個人的感情も多く含まれていると思いますが、岩田幸雄氏の人生の流れが垣間見えた気がします。



 

広島史記傅説 己斐の巻

勝手に連載してますが、今回は其の六です。

 

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◇中国民衆の嘆願


昭和20年8月。日本軍は無条件に降伏した。蒋介石は、日本軍に対して”恨みに報ゆるに、徳をもってせよ”と、全中国に布告した。


この蒋介石の温情により、在中国日本軍は勿論のこと、在留日本人も続々と無事帰国することができるに至った。


しかし、第一、蒋政権にとって裏切り者であり、漢奸である汪精衛を庇護し、ハノイ脱出から東京会談など、和平工作に暗躍した岩田幸雄氏は、蒋政権のみならず、それをめぐる藍衣社テロ団にとって、恨み骨髄に達する宿敵で、当然に第一戦犯として逮捕、処刑すべき人物とみられた。

事実、氏は崙山島で逮捕された。

だが、蒋介石は無罪を言い渡した。中国民衆の嘆願を押し切ってまで、有罪、死刑を言い渡すことができなかったのである。

そしてまもなく天下晴れて、アメリカの駆逐艦で護送され、己斐町軍人谷の自邸に帰り、波乱万丈の中国生活のあれこれを想い浮かべながら、好きな庭木いじりに時を過ごすことになったわけである。

拘留中にも、氏の心は微動だにしなかった。何故なれば、中国民衆に対して行った温愛の情は、一軍閥の思想や、一イデオロギーによるものではなく、太古インドから中国へ--中国から日本に伝わった大慈大悲の観世音精神--すなわち、世界苦の根元をぬき去り、真の安楽と自由を与えん、とする観音精神によったものだからである。

 

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次回(其の七)は、己斐の巻の最終回です。