あせもと、お別れと | ぱね便り(旧:V町便り)

ぱね便り(旧:V町便り)

スウェーデン暮らし12年目。おかしいな、いつの間にそんな時間が経ったのだ?と、毎年同じことを考えています。

ほぼ2週間のドイツ滞在が終わり、火曜日の午前中のフライトでコペンハーゲンに戻ってきました。どうやらドイツ滞在中、ずっと熱波を背負って移動していたらしいぱね、なんと、ヨーロッパにいるというのに初めて「あせも」ができてしまいました(泣)。ドイツってこんなに蒸し暑かったっけ?

今回のドイツ滞在は、前半5日間をベルリンで過ごしたあと、マンハイムを経由して最終目的地シュツットガルトにたどり着く、という日程でした。マンハイム以降に会った友人たちは、38年来の古ーい友人たち。古ーい、だけに、友人たちはひとりを除いて私より年上であり、彼らのご両親(家族ぐるみの付き合いだったから私は全員を知っている)も、やはりひとりを除いてこの世を去っておる。今回は、そのご両親のお墓参りをするのが主目的でした。

それで、合計4つの墓所を訪問したぱね。そのうち3つは、1986-87年のシュツットガルト滞在の時にチチの同僚だった先生方

 

 

とその奥様(存命中のひとりを除く)のお墓。

そして4つめは、私たち家族が当時、大学ではなく、教会を介して知り合った女性のお墓。

1986年、シュツットガルトにやってきて間もなく、私たち家族は教会(カトリック教会)でのミサの後に、「信徒の集い」に参加した。もちろん知っている人など誰もいなかったので、それはそれはドキドキの体験だったが、誰かと知り合いになれるかも・・と思って、思い切って参加したのである。

空いているテーブルに4人で座っていたら、間もなく、一人の女性が「ここ、座っていいですか?」とやってきた。それがM夫人だった。彼女は当時57歳(現在の私より若いということが凄まじいショックであるな・・)。私はつたないドイツ語で必死にM夫人と色々な話をしたのだが、その話の中で、妹がピアノを弾くという話題が出た。それを聞いてM夫人は、「あら、私もピアノを弾くんですよ。うちにはピアノがあるの。もしよろしかったら、ピアノを弾きに、週に一度うちにいらっしゃらない?」と誘ってくれた。

M夫人は、音楽の先生だった。専門はピアノ。元々はドイツ南部、シュヴァルツヴァルト地方の出身だったのだが、ご主人の仕事の関係で長くレーヴァークーゼンに暮らしていた。その後、ご主人がシュツットガルト大学に教授として招聘されたため(つまりM夫人のご主人も、偶然ながらシュツットガルト大学の先生だったのね。専門は機械工学だったので、チチとは分野が全く違ったが)、シュツットガルトに引っ越してきたのだ。

M夫人は、私たち家族にとって初めての「地理学研究所の関係者以外の知り合い」となった。週に一度、妹がM夫人のところにピアノを弾きにいくときには、私も一緒について行って、妹がピアノを弾いている間、私は本を読んで過ごしていた。

家族でのシュツットガルト滞在が終わった後も、私はドイツ/シュツットガルトに行くたびにM夫人の家に寄った。何度も泊まらせてもらった。やがて私は彼女を「ママ」と、ご主人を「パパ」と呼ぶようになり、パパとママの5人の子供たちとも知り合った(一番下の息子が私と同い年)。1993年から1994年の私の2度目のドイツ滞在の時には、ママのシュヴァルツヴァルトの故郷の村でママの一族と一緒にクリスマスを過ごし、一族が勢揃いしたママの誕生日のお祝いにも招かれた。

そのママが亡くなったのは今年の4月。パパは認知症を発症し2010年に亡くなったが、そのパパをずっと自宅で介護し看取ったママも、2013年頃から認知症を患っていた。私が2013年にママを訪問したときは、まだ私と普通に話ができたママだったが、その後、コロナ直前の2019年に訪問した時には、もう話はできなかった。でも、「ユキコ」と「マキコ」という名前だけは、ママはずっと覚えていたんだよ、と後で子供たちから聞いた。

ママのお墓は、シュツットガルトではなく、故郷・シュヴァルツヴァルトの村にある。それは知っていたので、私は今回、お墓参りのためにその村に行きたい、と思っていた。それで、子供たちのうちのひとり、三男のUに「今度シュツットガルトに行くんだけど、ママのお墓参りにシュヴァルツヴァルトに行けないかな?」と聞いてみた。

そしたらUは「もちろんだよ!僕たちの誰かがユキコを連れていくよ。心配しないで。それと、シュツットガルトにいる間は、ママの家に泊まって。いま、あの家、誰も住んでなくて空っぽなんだ。好きなだけいていいから」という返事が来た。

ママの家は、日本風に言えばマンション。3世帯が入っている建物の中にある。何度泊めてもらったか、もう思い出せないほどだ。私にとっては、ママとパパと一緒に過ごした時間の思い出が、ぎっしり詰まっている家。

子供たちはいま、協力しながらその家の整理に取り組んでいる。今回、私をシュヴァルツヴァルトまで連れて行ってくれた三男のUはハイデルベルクに暮らしていて、5人きょうだいの中で唯一の娘であるG(後の4人は全部息子)はケルンに暮らしているが、Gとそのご主人のLも、私がママの家にいる間に、会いに来てくれた。GとLに最後に会ったのは1994年。なんと30年ぶりの再会(涙)。

UとGとLと一緒に、ママの家の居間のダイニングテーブルを囲んで、たくさん思い出話をした。この家に来た時に、いつもママと一緒にごはんを食べたり、コーヒーを飲んだりしたダイニングテーブル・・。昨日、UとGとLはそれぞれ帰宅したので、私は最後の晩をその家でひとりで過ごした。なんだか、ママが今でも家の中のどこかにいてくれるような気がした。私がこの建物の入り口で呼び鈴を鳴らすと、入り口のオートロックを開け、同時に自宅の玄関ドアを開けて、その隣に立ち、いつも両手を広げて大きな笑顔を浮かべて私を迎えてくれたママ。

認知症を患っていた晩年のママの様子、少なくとも2019年の様子は私も見ているのだが、私の記憶の中のママは2019年の姿ではなく、元気だった頃のママだ。その姿を覚えていられることを、私はとてもありがたいと感じる。そして、元気だった頃のママの思い出がぎっしり詰まっているその家とは、今回でお別れ。次に私がシュツットガルトに来る時、あの家はもう誰か他の人の所有になっているだろう。ママと、その家での記憶は、私の中にずっと生き続けるけど、あの空間に私が戻ることはもうない。

38年前に、ドキドキしながら初めて呼び鈴を鳴らした建物。

 

 

このドアを開けて、ママはいつも私を迎えてくれた。 

 

 

ママとパパ。

 

 

そして私は、38年前のママの年齢を、すでに1歳超えた。ママ、38年前に、私たちをあの家に招いてくれてありがとう。あの家とママの思い出を、私はこれからも、ずっと心の中に大切にしまっておきます。