日常生活の意味 | ぱね便り(旧:V町便り)

ぱね便り(旧:V町便り)

スウェーデン暮らし12年目。おかしいな、いつの間にそんな時間が経ったのだ?と、毎年同じことを考えています。

私が仕事をした施設では、スタッフが毎朝シフト表をもらってそれに従って仕事をする。何時から何時までは誰それさんのところ、その後は何時まで誰それさんのところ・・という感じ。訪問して何をするかは入居者によって違うが、基本的に朝は「朝の身支度と朝ご飯のお手伝いと服薬」、午前中は「シャワー、掃除、 洗濯、買い物のお手伝い」、午後は様子を見に行くための訪問(場合によっては服薬)、という感じ。晩のシフトのときには、「夕ご飯のお手伝い、服薬、就寝にあたっての介助」が主になる。その間、入居者が緊急にヘルプを必要するときに鳴るアラームにも、随時対応するわけである。

入居者が暮らしているアパートの間取りには(私が見た限りでは)3パターンある。いわゆるワンルーム型(居間と寝室兼用の1室に、キッチン部分とシャワー・トイレ室、物置室が別についている)と、2K型(真ん中にキッチン、その両脇に寝室と居間。別にシャワー・トイレ室、物置室)、そして3K型 (2K型にさらに寝室がもう一部屋ついているタイプ)。ワンルーム型でも、日本のいわゆる「ワンルーム」マンションのたっぷり倍は面積があると思われ、それほど「狭い」感じはしない。

これらのアパートはすべて賃貸である。入居者は毎月、家賃を払う。貸主は自治体(正確に言うと、自治体が株主である不動産会社)。家賃がどれくらいかはわからないけど、入居者は当然、全員年金暮らしなので、受給している年金の範囲内で払える額なのだろうと思う。

日本人の私の目から見れば、どのアパートも広々としていて、うらやましいくらい。高齢者専用住宅とはいえ、そこは入居者の「自宅」なので、アパート内の調度品は(作り付けである台所部分と、場合によってはベッドを除き)全部、入居者個人の持ち物である。ドアのチャイムを鳴らしてドアを開ければ、そこは入居者の「自宅」なのだ。

こういう「施設」で仕事をするとき、スタッフの側はともすると「ここは入居者にとっては『自分の家』なのだ」ということを忘れそうになる、ということは、以前、介護セミナーのときに耳にしたことがあった。私たちにとっては「施設という仕事場」だが、その場所は、入居者にとっては「自宅」。つまり、 日常生活の場なのである。私たちは彼らの「日常生活」の一部になって仕事をすることになるのだ。

そういう目で、彼らの「日常生活」を見ると、それは私たちの日常生活と基本的には同じであり、かつ、全く違うものであることがわかる。

同じ、というのは、そこで行われる行為のこと。眠る。朝起きる。トイレに行く。着替える。シャワーを浴びる。ごはんを食べる。テレビを見るetc。

そして全く違うのは、その行為の多くに、彼らは「介助」を必要とする、ということだ。例えば、朝、ベッドから起きるのに介助を必要とする人なら、 「朝、好きな時間まで寝ている」ことはできない。スタッフの来る時間は決まっているので、そのときに介助をしてもらって起きることしかできない。トイレに行くのに介助が必要な人であれば、トイレに行きたい、と思ったときにスタッフをいちいち呼ばなければならない。ご飯の用意が自分でできない人であれば、朝や夕のご飯のときに、スタッフに「あれを作ってね」と頼まなければならない。そうなれば、面倒な料理を頼むことはできないから、「調理」しなくて済む簡単なものか、あるいはただフライパンで炒めるだけの冷凍食品とか、レンジでチンするだけで済むもの、という感じになる。買い物に自由に出ることが難しい(自由に身体を動かすことができない)人であれば、買い物は週に一度、スタッフと一緒に出かけるか、あるいはスタッフに買い物リストを渡して買って来てもらうか、のどちらかにしなければならない。同様に、散歩に自由に行ける状態でなければ、散歩はこれまた週に一度、スタッフと一緒に出かけることになる。

という感じで、自宅での「日常生活」とはいえ、「自分の自由にできること」には制限がかかってくるのだ。

だけど、私が主に担当したお年寄りはみな、その「制限がかかっている」状況を静かに受け入れ、その制限のなかで、自分らしさを守りながら生活をしているように見えた。足が思うように動いてくれないこと、自由に家の中や外を歩き回れないことはどんなに歯がゆく、辛いだろうと私は思ったけど、 それについて声高に愚痴をこぼす人は誰もいなかった。自分が「こんなふう」なのはね、何度も何度も手術をしたからだよ、というふうに、私(=なにしろ新参者)に説明してくれた人はいたけど、それは「だから自分はこうなんだよ」の事実説明に過ぎず、愚痴ではなかった。

自らの老いと病と、それに伴う様々な困難と、みんなそれぞれの方法で折り合いをつけているんだな、という印象を私は受けた。

そして、彼らのそうした日常生活の一部であるスタッフは、彼らの生活の質が、それでも極力、「元気だった頃」と変わらないように努力しているのだった。

例えば、洗濯のとき。洗濯は基本的に週に一度(汚れ物が大量に出たときなどは毎日のように洗うが)で、ベッドリネンの交換はだいたい2~3週間に一度くらい(これも例外はもちろんあり)。洗濯ものの仕上がりに関しても、入居者ごとにもちろん様々なこだわりがあるのだが、特にうるさくない入居者の場合にも、スタッフはTシャツやバスタオルにまで、きれいにアイロンをかける。そして、ぴしっとした状態になった洗濯物を、入居者のもとに戻すのだ。だから、寝室の戸棚のなかには、アイロンのかかったタオルや、ベッドリネンがきれいに並んでいる。

キッチンの流しに、汚れた食器が積み重なることもない。シフト表にはちゃんと「食器洗いの時間」も組み込まれているからだ。

毎朝のベッドメイキングもスタッフがする。入居者が起き、朝の身支度やトイレを済ませ、朝ごはんを食べている間に、スタッフはベッドをきれいに整え、さらに前日のうちに出たゴミも全部まとめて外に出す。

こんなふうに、そこに暮らす人が、もうそうした作業を自分ですることができなくなっても、生活の質が落ちないように手助けする。それも、スタッフの仕事の一部なのだ。

入居者の日常生活に対する愛情と敬意。こういう仕事をするためにスタッフに必要なのは、それなんだな、と私は思った。私は、きれいにアイロンがかかったベッドリネンやタオルが戸棚のなかにしまってあるのを見るのがうれしかったし、きれいに洗ってあるお皿やコップが、流しのわきの食器おきにおいてあるのを見るのもうれしかった。日中に入居者の様子を見にいって、ベッドがきれいに整えてあるのを見るのもうれしかった。

本当にささやかなことなのだが、こういうところも大切にしようとする姿勢が、どんなに身体が不自由になり、どんなに自分でできることが少なくなっても、やっぱりその人がひとりの人間として、その尊厳を保ちながら生活していけるようにサポートすることの、根本なんだろうと思ったのだ。日常生活ほど、 人間の生活にとって尊く、価値のあるものはないんだと思う。

そしてもうひとつ。

1日のシフトを終えて、自宅に戻った私は、そこに「自分の日常生活」があることがうれしかった。

仕事場の「外」に、自分の日常生活があることが、うれしかったのだ。

自分の日常生活が、仕事場の「外」にあるというのは、普通であれば当たり前の話なのだが、ことが「介護」の場合は、そうとも限らないという現実がある。

自宅で家族を介護している人の場合だ。自宅介護の場合、介護の現場そのものが、介護をする人の「日常生活」になる。そこを「離れて」、戻ることができる自分の日常生活は、存在しないのだ。

そんななかで、介護を必要とする肉親の生活を尊重し、同時に自分の日常生活も尊重することは、至難の技なんじゃないだろうか。私にできるか、ときかれたら、今の私には「無理」としか答えられない、というのが正直なところ。

シフトを終えて家に帰ってきたときの私は、いつもクタクタだったけど、でも同時に、

私は、何でも全部自分の好きなようにできるんだ

ということに、毎回、心からの喜びを感じた。自分の食べたいものを、自分で好きなように作り、自分で好きなように食べることができること。自分で好きなときに掃除し、自分で好きなときに洗濯できること。一番面倒な茶碗洗いすら、「自分で好きなようにする」(あるいは「しない」)ことができる。私は好きなときに外に出られる。好きなときに買い物に行ける。自分で商品を選び、カゴに入れられる。

自分の生活を、自分でコントロールでき、自分で選べる。実はそれは決して当たり前のことではない。「自分で好きなようにできる」こと以上に、ありがたいことはないのだ。

いつか、それができなくなる日が私にもくる。その日ができるだけ先になることを祈り、できるだけ努力しようと思うけど、自分の意志だけではどうしようもないことも世の中にはたくさんあるので、本当に「できなくなる」日がきたら、それは受け入れるしかない。私が接したお年寄りがみな、そうしていたように、私もそうできるといいな、と思う。