Kという名の女の子 | ぱね便り(旧:V町便り)

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スウェーデン暮らし12年目。おかしいな、いつの間にそんな時間が経ったのだ?と、毎年同じことを考えています。

約7週間にわたる夏休みの仕事@介護施設が、昨日の午後、無事に終了しましたー。緊張が抜けて、一気に疲れが噴き出しています。いやー、自分で言うのも何だが、よくがんばったのだ。恐がりで小心者で心配性の私は、自分から進んで「知らないこと」に飛び込むことはめったにしない。その「知らないこと」が、自分 の得意な・好きな・関心のある分野であれば別だが、今回のように別に関心があったわけでもなく、さらに、人の面倒を見ることが大の苦手(というかはっきり言って大嫌い)の私にとっては、最も向いていないことのひとつだと思われる分野、「介護」とは!

まさか自分がそこに飛び込むことになるとは、ほんとに想像すらしていなかったのだ。J兄に背中を押されることがなければ、絶対にやらなかったと思う。

しかし、「案ずるより産むが易し」とか「何事もやってみなければわからない」とか、とにかく、自分を鼓舞する言葉を頭の中で呪文のように繰り返しながら、5月の「見習い期間」を経て、6月下旬、「常勤スタッフが夏休みを取る間の代理要員」として、介護の現場に飛び込んだぱね。

そして、それから7週間、体調を崩すこともなく、元気に乗り切ったのであります。体力があって、健康体であることに、改めて感謝である。

この期間、私が主に担当していたのは合計5名の入居者だった。そのうちの1名は、以前の日記にも書いた「気難しいおばあちゃん」。あとの4名は、 おばあちゃん2名とおじいちゃん3名という構成で、彼らは気難しくはなく、接しやすい人たちだった。ただし、おじいちゃんのうちの1名は、耳が聞こえない (かつ話すことができない)人であったため、

彼との意思疎通は、終始、身振り手振り

であった。どうしても大変な場合には筆談したけどね。私が手話をマスターしていればよかったんだろうが、

日本語の手話すら知らない私が、スウェーデン語の手話など知っているわけがないではないか。ふっ。

でも、彼のところでの作業はルーチンワークが多く、さらに7週間も顔を合わせていると、お互い相手のことはなんとなくわかってくるもので、特に大きな問題もなく仕事をすることができたのだった。よかったよかった。

さて、残りのメンバーのうちのひとりのおばあちゃんは、Kさんといった。

難病を患っている人だったが、5月の私の見習い期間のときには、歩行器につかまって自力歩行ができる状態だった。ゆっくりではあったけど、ベッドから自力で起き上がり、アパートのなかを自由に歩き回って過ごしていた。着替えやシャワーなどは介添が必要で、簡単な食事の準備などもスタッフがしていたけど、あとは、ごく普通に生活ができているように見えた。

とても印象的だったのは、ある朝、ガウン姿で寝室から居間に移動してきた彼女が、寝室の出口に置いてあった小さなテーブルの上にあった香水の瓶を手にとり、軽く身体にスプレーしていた姿。

彼女は82歳。病気のせいで背中が曲がり、まっすぐに立っていることがすでにできない状態である。でも、身なりにはとても気を配っているようだった。居間のテーブルには、口紅やアイブローなども置いてあったし、歩行器の上には小さな鏡も置いてあった。もちろん、口紅やアイブローを自分でつけることは、彼女にはもうできない。必要なときには、スタッフがそれを塗ってあげるのだろう。

香水や口紅やアイブローは、彼女にとっては自分の一部なのだろうな、と私は思った。高齢だろうが、身体が不自由だろうが、それは関係ない話なのだ。

ところが、それから約1ヶ月ほど経ち、6月下旬に「夏休みの代理要員」としてデビューした私が彼女を訪問してみると、彼女の状態は大きく変化していた。

彼女は6月中旬に、アパートで転倒したとのこと。すぐに病院で骨折その他の検査をしたが、それによれば骨には異常はなかったそうである。ただ、その出来事をきっかけに、彼女は自力で立ち上がり、歩く、ということに、大変な恐怖心を抱くようになってしまったようだった。

自力での移動ができなくなった彼女のために、移動の際にはリフトを使うことになった。彼女の身体をリフトで持ち上げて、ベッドから居間へ、あるいはそこから車いすへ、などと移動させるのである。

このリフトを使う際には、彼女の身体を包み込んで支えるためのシートのようなものを、彼女の身体の下に差し込まなければならない。この作業がまずはものすごく大変だった。彼女が、そのシートをイヤがり、抵抗するからである。これがなければそもそもリフトを使うことはできず、リフトを使えなければ彼女は移動できないのだが、それでもイヤがって全力で抵抗する彼女。

リフトを使う際には、スタッフは必ず2人いなければならないのだが、彼女の場合には2人で大汗かいて、時間をかけて、やっと何とかなる、という有様だった。2人がかりでもスタッフの負担は大変なもので、私も毎回必死だった。彼女には「ごめんね、こんなことイヤですよね。他にもっといい方法があればいいんだけど、本当にごめんなさいね」と謝りながらの作業だった。

彼女の必死の抵抗は、この状態での移動が、彼女にとっては屈辱以外のなにものでもないというしるしだったと思う。それ以外に方法はないことは、彼女自身にもわかっていただろう。実は私は、このリフトに、6月上旬にあった研修で実際に乗ってみたことがあった。シートに包まれ、そこから持ち上げられて、運ばれる、という状態を体験してみたのである。そのときに私は自分が、

網に包まれて運ばれるでっかいサカナ

になったような気持ちがした。自分に陸上で使える手足がついているとは思えないような気持ちになったのである。

実際には元気に歩ける私がそんな気持ちになったのだから、すでに身体の自由がきかなくなっていて、それでも歩行器を使って自力で歩くことにこだわっていた彼女が、この状態で運ばれることでどんな気持ちになったかは、想像にかたくない。

どんなにイヤだろう。情けない気持ちだろう。

それを思うと、辛かった。でも、これをしなければとにかく移動はできない。だから、やるしかなかったのだ。

私のシフトが始まって間もなくして、彼女は尿道炎にかかって、しばらく入院することになった。尿道炎自体は完治したので、彼女は10日間ほどで退院してきた。ただし、もちろん、彼女の状態そのものが改善されたわけではなかった。彼女の病気は不治のもので、高齢ということもあり、積極的な治療はもう行われていない。続けられているのは緩和ケアであり、できるだけ穏やかに最期を迎えることができるように、というだけのものだ。

彼女が退院して来た日は、ちょうど彼女の83歳の誕生日だった。退院してきてしばらくは、薬の副作用もあり、いろいろと大変な状況が続いたが、1週間ほどしてそれが落ち着いてくると、彼女は、

「また歩けるように、練習しなくちゃ」

と口にするようになった。実際に、居間のお気に入りのアームチェアに座っているとき、肘掛けに両手を置き、力をこめ、立ち上がろうとする仕草を何度もするようになった。

そして、ベッドからも、自力で降りようとするようになった。

しかし、彼女の足にも手にも、その力がもうほとんど残っていないことは明らかだったので、もちろん私たちは、彼女が転倒することを心配した。特に危険なのはベッドからの転落だ。彼女のベッドには、上げ下げのできる柵がついている。彼女がベッドに寝ているときには、その柵を上げておき、彼女がベッドから落ちて怪我をするのを防がなければ、とスタッフは当然考えるのだが、この柵を上げるためには、彼女自身の許可がいる(身体の自由を奪うことになるため、本人の許可なしにベッドの柵を上げることはできない)。そして、彼女はそれを許可してくれなかった。柵を上げられてしまえば、まるで檻の中に入ってい るような気持ちになるだろうから、それも当然だろう。

「柵を上げておかないと、危ないんだけどね・・。でも、いくら説明しても、彼女がイヤだというのなら、どうしようもないよね」

と、スタッフのひとりは言った。尊重すべきは、あくまで本人の意志。スタッフのほうの都合や、考えではない、ということなのだ。

そして、スタッフの危惧は的中した。退院してきて2週間が経過したある日、彼女はベッドから自力で降りようとして、そこで転倒し、顔を床にぶつけてしまった。退院してきてからの転倒は、それで3回目だったが、ベッドからの転倒は初めてで、さらに、顔をぶつけてしまったのも初めてだった。その転倒のときは私は休みの日だったのだが、その翌日、彼女のところに出かけてみると、それこそ、マンガによくありそうな「黒い輪」が、彼女の右目のまわりにできていた。

転んでも、転んでも、どうしても歩きたい。どうしても、自力で動けるようになりたい。それくらい、自力で動けることは、彼女にとって大切なことだったのだろうと思う。

このベッドからの転落事故があったあとも、彼女はベッドの柵を上げることを承諾してくれなかった。彼女の担当の看護師と作業療法士は、結局、彼女がベッドに寝ている間は、ベッドの脇にマットレスを敷いておく、という解決策を取ることにした。そうしておけば、ベッドから転落した場合にも、マットレスの上に着地することになり、ケガは最小限に押さえられるだろうという判断である。

ただ、このベッドからの転落・転倒事故以降、彼女の状態は日に日に悪化していった。病院からの退院以降、食欲が落ちていた彼女だったが、転落前はそれでも少しは食べ、飲むことができていたのに、この事故以降は、次第にそれができなくなってきた。固形物を食べることができなくなり、次に、液状のものを飲み込むことも難しくなってきた。

担当看護師からは、「できるだけ水分を摂取させるように」という指示が出ていたので、私たちはことあるごとに、少しずつ色々な「水分」(栄養ドリンク、ヨーグルト、牛乳、ビタミンドリンクetc)を、薬と一緒に彼女に飲ませる努力を続けた。

それが、ついに全くできなくなったのが、私の仕事期間の最後の1週間が始まった月曜日だった。

液体を飲み込む力が、弱ってきているようだった。

こうなると、薬を飲ませることもできない。彼女が抱えている病気は、強力な鎮痛剤がないと辛いものだ。彼女は1日に6回、様々な薬を服用することになっている。それらの中に、鎮痛剤が何種類入っているのかは私にはわからなかったけど、1回服用できないだけならいざ知らず、複数回、連続して鎮痛剤が服用できないとなると、彼女が激痛に襲われる恐れがある。

スタッフはそれを一番心配しているようだった。

誰も口にはしなかったけど、「もう先は長くない」ことは、スタッフ全員がわかっていたようだ。私以外のスタッフは全員、介護の現場の経験が20年前後の大ベテランである。人の最期が近くなるとどうなるかは、全員わかっている。

月曜日のうちに、スタッフは、彼女の娘さんに連絡を取った。同時に、スタッフは私に、

「彼女のそばにいるときは、ときどき、彼女の唇を水分をふくんだスポンジで湿らせてあげてね」

と言った。そういえば、介護セミナーの仕事をしたときに、「最期の看取り」についてのレクチャーを訳したっけ。そのときにも、この「唇を湿らせてあげる」話が出てきたな、と思い出す。

お別れが近いんだ、と私は思った。

火曜日の朝、彼女のところに出かけてみると、そこには彼女の娘さんがいた。月曜日の夜のうちに駆けつけて、居間のソファに泊まっていたようだ。

ベッドのなかの彼女は、熱を出していた。体温を測ってみると39℃ある。担当の看護師に連絡すると、「すぐ行くわ」と返事があった。

私ともうひとりのスタッフは、ベッドで彼女の身支度を済ませ、いったん、彼女をベッドから居間の彼女のお気に入りのアームチェアへと移動させた。午前中の3時間ほど、彼女はその椅子で過ごした。やっぱり水分は摂取できない。スポンジで彼女の唇を湿らせることができるだけ。

看護師が来てくれたので、私たちは彼女をもう一度ベッドに移動させた。看護師は、解熱のための座薬をさし、ノドのゴロゴロ音を緩和するための薬と、モルヒネを注射。そして、「何かあったら、すぐに電話してね。それと、彼女のところに常時スタッフがいられるように、手配しておくわ」と言って帰って行った。

「常時スタッフがいられるようにする」。これも、介護セミナーの「看取りレクチャー」で聞いたっけ、と思い出す。ひとりぼっちで亡くなることがないように、誰かが必ずそばにいられるようにする、ということである。

私のその日のシフトは、お昼過ぎで終わることになっていた。その時間まで、私は彼女の枕元で、彼女の手を握って過ごした。

お昼が近くなって、私のシフトは終わることになった。「私、帰るね。またね」と私はベッドの中の彼女に言った。ほかに何を言ったらいいのか、わからなかった。

翌水曜日は私は休みで、次の出番は木曜日の夕方だった。木曜日の夕方、シフトを始めるためにシフト表を確認してみると、そこから彼女の名前は消えていた。

火曜日の深夜/水曜日の早朝に、彼女は夜勤スタッフと娘さんに看取られて、静かに最期を迎えたとのこと。

彼女のケアは大変だった。時間もかかり、体力も消耗する、毎回大汗をかく大仕事だった。でも、シフト表から彼女の名前がなくなるのは、おかしな気分だった。もう、彼女のアパートのドアのチャイムを鳴らす必要はないのに、そのフロアに行くと、自然に身体がそっちのほうに向かおうとする。

「ずっとお世話をしていた人が亡くなるとね、その事実に身体と頭が慣れるまでに、しばらくかかるものよ」

と、ベテランスタッフは言った。

そういうものなんだね。

彼女の名前がシフト表から消えて、その後4日で、私の夏の仕事期間は終わった。

= = =

彼女の寝室の、ベッド脇の壁には、彼女の家族の写真と、子供時代の写真が飾ってあった。

家族の写真は白黒。おそらく、彼女のご両親の写真だ。時代がかった服装をしている。スウェーデンが豊かな工業国になる前の時代の写真。彼女自身の写真は、あとで着色したと思われる色あせたカラー写真だ。女の子は2歳くらい。大きなリボンを髪につけ、赤いチェックのワンピースを着ている。庭でぴょんぴょん飛び跳ねながら遊んでいたところだろう。ニコニコ笑いながらカメラを見ているKという名前の女の子。

その女の子の83年の人生の、一番最後の7週間に寄り添うという栄誉を私はもらった。病気に苦しめられながらも、最後まで、自分らしさを失わずに生き続けたいとがんばり続けた彼女の姿を、私は敬意とともに記憶にとどめておきたい。