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お城の石垣になれなかった石を「残念石」といって、全国各地にあるんだけど・・・

木津川市の残念石
大阪城になれなかった京都府木津川市の残念石(画像出典)木津川市

小豆島の残念石
同じく大阪城になれなかった小豆島の残念石(画像出典)土庄町

東伊豆の残念石
江戸城になれなかった伊豆の残念石(画像出典)ORICON NEWS
 


京都市にもあります。

 

草津みなと残念石
二条城になれなかった「草津みなと残念石」

 

 

 

 

 

 

桂川サイクリングロード(CR)の羽束師橋の下にあります。
 

 

 

  草津みなと残念石とは

 

江戸時代、桂川の横大路周辺は「草津港」という水運の要所で、淀川からの三十石船が常に200~300隻出入りしていました(※1)


三十石船(画像出典)JRおでかけネット

寛文近江若狭地震(1662年)で二条城の石垣が破損し、修復工事のために、瀬戸内や神戸方面から草津港へ石が到着

その石を陸路で、二条城に運ぶ途中に川へ落ちちゃったのがこの残念石だそうで(※2)

2015年(平成27年)に川底から引き揚げて、翌2016年(平成28年)に「くさつ湊残念石」と命名して展示を始めたのだそうです。

さすてな京都 草津みなと残念石
横大路のさすてな京都(京都市南部クリーンセンター)にも屋外展示されてました。

 

 

《桂川CRからさすてな京都への経路》

 

《さすてな京都1万8000株のアジサイ写真》

 

 

 

  魚市場遺跡魚魂碑

 

桂川CR沿いの羽束師橋付近には、魚市場跡の石碑もあります。

 

魚市場遺蹟魚魂碑

「魚魂」って書いてある!!🐟

草津港は桃山時代から多くの鮮魚問屋が並び、江戸時代には幕府公設の魚市場ができました。

瀬戸内などから淀川経由でやってきた鮮魚が、草津港の魚市場から京都・近畿の各地へ運ばれていったそうです。

明治10年に京都~神戸間に鉄道が開通し、物流拠点が京都駅に移り、草津港は寂れていって農村地帯に変わっていきました。



サイクリングロード沿いの石碑に、こんな歴史が潜んでいるとは!

 

いつも自転車で通り過ぎるばかりの場所にも、さまざまな歴史があって面白いですねにっこり

 

(訪問日:2023年6月16日)

 

 

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《桂川サイクリングの記事はこちら》

 

 

 

 

<注>
※1:以下、「魚市場遺跡魚魂碑 河川占用許可標識」の全文です。

「河川占用許可標識

占用目的 石碑(魚市場遺蹟)
占用面積 24.99m2
名称及び種類 魚市場遺蹟魚魂碑
占用者氏名 京都水産物小売団体連合会
連絡先(電話番号) 省略
所轄事務所出張所名 近畿地方整備局 淀川河川事務所 山崎出張所

魚市場遺跡魚魂碑由来

草津の港(現在の横大路)には桃山時代から多くの鮮魚問屋が軒を連ね、また、江戸時代には幕府から公設の魚市場の建設を命じられるなど水上交通の拠点として大いに栄え、現在の京都中央卸売市場のルーツと言われている。

当時は、淀川の三十石船は常に200~300隻が出入りし、瀬戸内などからの引き船が夜を徹して淀川を上がり、卸されたばかりの鮮魚などを「走り」という問屋の仲士が威勢のよい掛け声をかけながら、京都をはじめ近畿各地に運んだとされている。

明治十年、京都~神戸間に鉄道が開通されるに至り、物資の集積地は京都駅にと移り、隆盛を誇っていた「草津の港」は徐々に寂れていき、現在の農村地区へと姿を変えていった。

大正八年、当時の水産関係者が往時の繁栄を後世に伝えるため石碑を建立したが、昭和九年の室戸台風、また、その後に起きた南海道地震で石碑が割れそのまま放置されてきた。

石碑建立から半世紀以上たった昭和五十八年、当時京都水産物商業協同組合が中心となり、市場水産関係者から寄付金を集め、昭和六十一年に二代目の石碑を再建した。

再建後は「魚魂碑顕彰会」の組織を発足させ、以後今日に至るまで毎年4月の第一日曜日には、京都の水産関係の方々を招き、盛大に魚魂碑魚供養の式典を行っている。

魚市場遺蹟魚魂碑顕彰会
会長 岡本勲」


※2:以下、「草津みなと残念石 立札」の全文です。

「草津みなと残念石

草津湊は桂川の湊として平安の昔から貴人が港から旅立つ湊としてだけでなく、瀬戸内海などを通じて都へと物資を運ぶための「舟運の要」として発展してきた。

寛文近江・若狭地震が寛文二年(一六六二)に発生し、二条城の塀や石垣が大きく破損したと「殿中日記」に記載がある。当時の二条城は、幕府の重要施設であったことから地震か約一箇月後には、大垣藩主戸田氏信に修築が命じられた。そのため、瀬戸内の島々や東六甲(御影・芦屋)、加茂・笠置辺りで切り出された石が、淀川水運で草津湊に運ばれ陸揚げされ、鳥羽街道を牛車により二条城に運ばれた。この石は、草津湊から陸路で二条城に運ばれる途中に何らかの理由で川底に沈み使われなかったことから「残念石」と呼ばれた。

平成二十七年(二〇一五)八月、約三百五十年の歳月を経て川底から引き上げられ、翌年十一月六日に「草津みなど残念石」と命名された。

京都市」