ブラック企業での激務と失恋、精神安定剤で意識は朦朧としていた。 | 高校中退者が塾長になった話。

高校中退者が塾長になった話。

都内の私立高校を半年で中退し、その後10年のブランクを経て、高校卒業程度認定試験を取得。大学に進学。紆余曲折あり、塾長になった話。

本編の続き。


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19歳になる頃、

私はアルバイトしていた人材派遣会社で

正社員となった。


同じ人材派遣会社で正社員として働く

当時29歳だった男性に2年間猛アタックをして

振られまくり、めげずに当たって砕けた結果、

付き合った。


仕事は、

アルバイト時代は、「派遣される側」として

1都3県の主要駅でクライアントのチラシを

街頭配布していたが、

正社員になってからは、「派遣する側」として

内勤業務に追われていた。


会社の正社員の平均年齢は、30前後であり、

当時19歳だった私は、最年少だった。

が、アルバイトの時から全ての社員を

知っていたので、俗に言う就職とは、

一味違った就職であった。


人材派遣会社の内勤とは、

とにかくブラック、

まっくろくろすけ!

と言わんばかりの激務であった。

当時はまだ「ブラック企業」という言葉は

あまり知られていなかったと思うし、

激務で低賃金だったが、

生まれて初めての就職だったので、

そういうものなんだと思っていた。


私が就職した頃には、

アルバイトの面接に行ったあのアパートは、

一部の社員の寮となり、

当時の彼氏はそこで他の社員と住んでいた。


アルバイト時代、

会社はオフィスを別の繁華街の

雑居ビルに移したが、

やがて、あのアパートがある繁華街に

大きなオフィスを構えた。


立地は悪く、アルバイトの面接で来訪する人に

電話で場所を説明するのは毎回一苦労だった。


会社を一歩出ると、目の前はラブホテルであり、

スーツ姿なのに、夜は

身ひとつで生計を立てている人と勘違いされ、

そういう目的の人によく話しかけられた。


仕事内容は、

会社が抱えているビラ配りの現場に

当日出勤できるアルバイトの人たちを

当て込んでいくことであった。

パズルみたいな仕事ではあるが、

毎日、現場数=出勤人数 ではない。

現場数−出勤可能人数

=私が用意しなければいけない人数なので、

毎日毎日、現場を埋めることに必死だった。


最悪、私が入ればいいが、

私は1人分にしかならない。

私1人で横浜と池袋の現場を同時に埋めることは

不可能なのだ。

それに、私が現場に入っている時間、

私の本来の仕事は止まる。

人を探して現場に入れなければ、

負の連鎖が待っている。


人が集まるまで、

電話をかけ、メールを送り、出勤を募る。

電話は3台同時に鳴らし、

出なかったら次の連絡先にかける。


他の支店の社員で同じ業務をしている男性は、

色恋管理をしていて、

好意を寄せられているアルバイトの女の子を

何人かキープし、最終的な切り札を持っていた。


私は19歳で女性ということもあり、

身体を使う切り札を持とうとはしなかった。

高校生でも働けるアルバイトというのを

逆手に取り、

暇さえあれば女子高生アルバイトに

カラオケを奢り、囲った。

(テスト期間は切り札がことごとく機能しなくて詰んだ。)


始発から終電までの激務であり、

私は未成年ということもあり、

帰宅を許されたが、

周りの30代の男性社員たちは皆、

会社に泊まり込みで働いていた。


「人を見つけるまでが仕事!」

がモットーで、

会社の辞書に「定時」という言葉はなかった。


私は、中卒ということもあり、

手取り13万という超低賃金で

激務をこなした。


関西弁の副社長は、

私のデスクの横にある

アルミ(?)でできたゴミ箱をよく蹴飛ばし、

私は常にボコボコのゴミ箱の隣で働いていた。


副社長も女の噂が絶えない人だったが、

会社の男性社員は基本的に女癖が悪かった。


私は同じ会社の正社員である彼氏と

極秘の社内恋愛をしていたが、

お互い激務であり、呆気なく1年で別れた。


2年間の片思いの末、ようやく実った恋であり、

この失恋は私の心を大きく傷つけた。


私の人生最大の失恋と言っても過言ではない。


自傷行為を繰り返し、

元彼となったその人や、

パワハラは酷いものの心の支えであった副社長に

自傷行為の傷跡の写メを送りつけた。

心療内科に通い、精神安定剤を飲み、

睡眠薬で眠る日々が続いた。


私は絵に描いたようなメンヘラになった。


強すぎる精神安定剤で、

常に意識は朦朧として、呂律は回らず、

気分の浮き沈みが激しかった。


私は会社を退社した。


それからしばらくは実家に引きこもり、

ニート生活を送った。


お風呂に入ることも面倒になり、

昼夜逆転を繰り返し、

インターネットに明け暮れた。


インターネットでの無料通話や、

動画配信サイト、

配信者と呼ばれる人たちの生配信が

流行っていた時代だった。


ネットで知り合った人と

グループ通話をするようになったが、

よくわからない揉め事に巻き込まれて、

リアルの世界に戻ってきた。


それからというもの、

昼職→水→風→ヒキニートを繰り返す日々が

何年も続いた。


その期間は家出と出戻りを繰り返し、

友達の家や男の家に転がり込む日々を過ごした。


途中、人材派遣会社で新しい支店を作ると聞き、

正社員として再雇用されたが、

新しい支店の立ち上げメンバーが、

副社長、元彼、私であり、

精神的にとても辛かった記憶がある。


また、都内でワンルーム8万の部屋

生まれて初めての一人暮らしをしていたが、

月収13万では、生活がとても苦しく、

お腹が空いてもご飯が食べられない日々が続き、

精神的にも不安定で、

どうしようもなかったとき、

本社(以前私が働いていた支店)に呼ばれ、

社長に何かの書類に

半ば強制的に印鑑を押させられた。

強い副作用のある精神安定剤を10種類飲み、

意識が朦朧としていて、

難しい言葉はよくわからなかったが、

後から聞いた話では、

「退職届」だったらしい。


自分の意思とは関係なく、

知らぬ間に退社することになり、実家に戻った。


よく覚えていないが、

20歳過ぎのことだったと思う。


その後、また、昼と夜との仕事を往復するが、

その最中で、

私にとって大きな出来事が起こる。


それはまた別の話。