例えばですけれど、🐼が母のお姉さんとこへ、母を連れて行ってあげて話をできる機会を設けた場合、母世代の人数が大勢であり、🐼は異端な世代になりますよね。
その最中にあって、🐼の当て付ける物言いや、シニカル含みな言い様はそこの空気には馴染まないもので、母世代同士独特の思いやりや、語りのペース、互いが互いに「忘れがちよね」を念頭においた口調でこそ、やんわり安堵して喋れるのです。
その場にあっては「正しかろう」も「鋭かろう」もさほど秀でるものではなく、むしろ「うるさいですね」に位置されてる方針に過ぎません。いつでもどこでも正しい、早い、的確が照準されるわけではないわけです。
返して、袴田事件に新しい一幕が開かれました。
人の人生の、無罪の人への最大級な冤罪での棄損となります。
いまだ「絶望的な刑事裁判」が続いているのは明らかだ。
とりわけ無罪までの時間が長すぎる。最高裁は75年、「疑わしきは被告人の利益に」との刑事裁判の原則が再審制度にも適用されるという決定を出した。
この原則に立てば、もっと早く袴田さんに無罪が届けられたはずだ。死刑確定の翌年に第1次の再審請求がされたが、再審が確定するまで実に42年もかかった。
無実の人を罰する不正義。真犯人を取り逃がす不正義。無罪まで長い歳月を要する不正義。冤罪(えんざい)には3重もの不正義がある。これはあまりに絶望的である。
「42年かけられる判断」がこうして「ある」事実に愕然とします。「声が届かない・検討されなさ」でまかり通る世界が、自分たちの法体系のうちにずっとあったってことで、これは権力サイドが「しようと思えば、これくらいできるんだからな」な暗黙の威力にあぐらをかいた結果でもあります。「誰にでもそう見舞えるからな」をこの件に読みにいけなくもないわけです。
袴田さんの場合も、2014年に地裁で再審開始決定が出ながら、検察官が即時抗告をしたため、再審開始が確定するまで約9年も経過してしまった。
いったん再審が決まれば、検察官の不服申し立ては禁止する法規定が必要だ。冤罪の被害者は一刻も早く救済すべきなのは当然ではないか。今回の無罪判決についても、検察は控訴せずに無罪を確定させるべきである。
証拠開示の在り方も大きな問題だ。再審については明文の規定が存在せず、裁判所の裁量に委ねられているにすぎない。
「存在しない」と検察側が主張していた「5点の衣類」のネガフィルムが保管されているのが判明したのは14年のことだ。証拠隠しともいえる行為が再審の扉を閉ざしていたに等しい。
「法的にはおかしくなさ」に準拠したせいで、人の人生はめちゃくちゃになったし、真犯人は逃げおおせて今や寿命を全うしてるかもしれない。無罪の人ばかりが法的に苛まれただけになった構図である。
16世紀のフランスの思想家・モンテーニュにこんな言葉がある。
<無実者を罰することは、犯罪事実よりも犯罪的である>
だから好きだよ、モンテーニュ。
法治という生活圏を構築している以上、方を遵守することで守られるものがあるのは否めない。故に適切な運用があるべきだが、意図あるスピンに身を委ね出した法なるものは、苛烈な暴力で人生を破壊するのもこの件がひどく顕在化させました。常駐する狂気とも言えますし、「その気になればこれくらいやれるんだからな」なる着想がなかったとも言い切れない言動を袴田事件の優位の記事中にも見受けますし、セリフにも散りばめられてました。
閉廷直前、地裁の國井恒志 裁判長は出廷を事実上免除された袴田さんに代わり、すべての審理に参加した姉・ひで子さんを自身のすぐそばに呼び、「判決に時間がかかり、とても申し訳ないと思っています」と謝罪したうえで、ひで子さんが初公判で「弟・巖に真の自由をお与えください」と訴えたことを受け「自由の扉はちゃんと開けました。ただ、無罪は確定しないと意味がありません。もうしばらくお待ちください。ひで子さんが健康でいられることを心から祈っております」と声を震わせ、言葉に詰まりながら語りかけました。
ありがとう裁判長さん。こういう言葉をかけてくれる法廷があってくれてよかった。
(警察の取り調べの録音)
(袴田 巌さん)
「あんたがたね、ほんとに自信をもっていっているけどね」
(捜査員)
「うん、うん」
(袴田 巌さん)
「他に犯人が挙がったらどうする」
(捜査員)
「他に犯人が挙がったら。ないよ挙がりっこないよ」
(袴田 巌さん)
「いや必ず、挙がる」
事件当時の警察の捜査記録には、取り調べについてこう記されています。
(事件当時の警察の捜査記録)
『犯人は袴田以外にはない。袴田に印象づけることにつとめる』
取り調べは、連日長時間に及び、長い日で16時間以上。そして、逮捕から20日目。袴田さんは自白します。
(警察の取り調べの録音)
(捜査員)
「君の現在の心境はどうなんだ」
(袴田 巌さん)
「大変恐ろしいことをやったと思っています」
しかし、裁判では一転、無罪を主張。
取り調べで「自白」した理由について、家族に送った手紙にこう記されていました。
(袴田巌さんが家族に送った手紙)
『殺しても病気で死んだと報告すればそれまでだと脅し、こん棒で殴った。捜査陣に従ったのは、おのが命を守るためだったのだ』
そして、事件から1年2か月後、みそ会社の従業員が工場内のタンクのみその中から麻袋に入れられた血に染まった"5点の衣類"が発見されます。これが、袴田さんを犯人とする決定的な証拠となり死刑判決が言い渡されたのです。
「私は袴田巖ではなく神。姉なんかいない。帰ってもらってくれ」
こう言い放って、姉の面会を拒むようになったのもそのころだ。それでもひで子は毎月必ず、東京拘置所に面会に赴くことをやめなかった。
「面会を拒否されようが、巖の無実を信じて応援している人間はいる、ということをわかってもらうために通いました。会うことができなくてもいい。面会に毎月通ってきている人間がいるということは伝わると思っていましたから。拒否されて会えない辛い時期が長く続きましたが」
事件からちょうど五〇年後の六月三〇日、故郷の浜松市内を歩く袴田に同行し、事件から半世紀が過ぎたことを投げかけてみると、
「袴田事件なんか元々ありゃせんだで」
と言葉少なに語り、暑さを避けて公共施設のベンチに腰掛け汗を拭った。そこで再び問うと、語気を強めた。
「袴田巖が犯人だという袴田事件なんか最初からないんだ。あんなもの全部嘘なんだ。重要なのは自白の任意性だで……。嘘ばかりだといい世の中にならんだで、いま毎日、神である自分が浜松の街を見回って嘘が蔓延っていないか確認しているということだ。だから、仕事の邪魔をせんでくれ」
「お前は犯人だ。な、犯人に間違いない」
1966年9月5日、静岡県警清水署の一室。4人の取調官が代わる代わる男性(30)を一方的に責め立てる。「泣いてみろ、泣いてみろ」「涙を流せ」。謝罪と反省も、執拗(しつよう)に求める。
「お前は4人殺して火をつけた。4人を殺したんだ。4人をお前は殺したんだぞ、ええか。4人を刺し殺したんだ。無抵抗の人を。4人を殺したぞ。それで火をつけた。お前は4人殺した。4人殺した」
当コラム冒頭に「正しかろう」も「鋭かろう」もさほど秀でるものではなく、と挙げたように、法は人に寄り添うために機能して欲しいものであって、法の方の理屈や言いよう、醸すべき空気は、人に寄り添うものであってほしいのです。
決め事以上に運用にそういう采配権があっても、誤用やスピンに長けるものの「腹算用」に左右されては「悪法も法」に擬えられる非道に似たりです。
言葉も、法も、「人の思いやりの上にある」と分かるものがよろしいですね。