今思うのはですね、人って強くあれっていいだすのってさ、強くないから、だよね?
弱いから、弱さが身にしみてるんで、強くあれって反対方向に向くのかも知んない。
人が、人に優しい時、強い人は勘定に入れないでしょう?
弱い人を肌感覚で勘づくし、気づけばなにかできないかって、なるじゃない。
弱い人、が目に入るんです。
かつて、自分が弱かったり、今まだ弱いうちをわかってるから、「せめて」人のことは手を出せるものなので、自分に施したかったように、人に助けの手を渡すんだと思う。
それは「弱いから、強くあれ」ってんではなく、「弱いけど、強くなくてもいいから」の方がいい。優しい姿勢だと思うのです。
弱いまんまを是認してるとかでもないんですよ。弱さを取る人はさ、弱くある理由があるものです。それを思案なしに「弱かったらダメだ、強くあるべきだ」は頭が悪く思う。
そして、そこが「上手」な人を時々見かけもするが、人間的に仲良くしときたい人にならない。
「ただ反対に振っておく」では解決というより、妥協に映ります。
そして反対に振れた人は、総じて人間の根っこに優しさを憶えない。冷たいんだよね、ちゃんと。
🐼はそこに、人肌の温度が欲しい。
なんなら手助けそのものより、強さより、「弱くあり続けてるけれど、これでいく」としてる凛に、どうしようもなく焦がれてしまうのです。
強いとね、まぶしくって。直視してらんない。