ものつくり | アメブロなpandaheavenブログ

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最近漫画の先生始めました。
好評です☆

写真を撮ったり映画を見たり。でもやっぱり普通が一番!
みんなも無理しないでね!

(これは数年以上前に書かれたエッセイの再掲載です)

 

背中一面がぐあーって痛くなって、寝返りがうてないほど筋肉が緊張しまくっていて、最初は「例の筋違い」とか笑って過ごしてたけど、一週間治らなくてさすがに『?』と不審な気持ちがもたげてきたあたりで「こいつは他の病気では?」となんだか思ってはいたけど、病院にいけないくらいには忙しいので、もう一週間見守ってみたら、痛みが体のあちこちにシフトしはじめた。

こいつぁきっと、患部を無意識にかばっちまった他の器官や筋肉が無理したに違いない!とふんでバンテリンやら湿布やらをどさどさ体につけまくったまま働いていたら、今度は左耳下の腺っぽいところがぷくーっと腫れた。
どれくらい腫れたかというと、首と顎の見分けが一見してわかんない具合に腫れた。

痛くはないけどみっともなくって嫌だった。

そんなおり、大学の友人(の、はず)N田が作品展示するとのはがきをくれたので、クサクサしてたので、体調不良ながら、のこのこと東京までいくことにした。

とはいえ、東京まで出ていくのはさすがにイベントである。
とはいえ、昨今、「ものを作ってる」人間に触れてないことが、自分の中でやや気になっていたので、刺激をうむためにも行くことにしたのだ。

東京駅について、ああ、そうかぁ、と思った。ごったがえす人は大人でありオヤジでありうかれた学生であり、化粧のうまい女性であり、いろんな色の外人であり、そんな人たちが大量にワンサカ歩いているのが東京駅の風景で、そんな人たちに向けてらっしゃいらっしゃいと商売してる店がワンサカあって、その向こうに遠距離バスの停留所があって、ビルがぐんぐんわんわんと伸びている。

つまり、わたしの住んでいる町とは違うのである。
そういう環境下にある人と、わたしが住んでる町と、それよりもっと田舎にすんでる人に、変わりなく、まんべんなく読んでもらえるようなまんがを俺はかかなあかんよなぁ、と思いました。トートツに。ハイ。

田舎に住んでてひとり「はい!まんが家!」と叫ぶのはいいんだけれど、まわりもテキトーに「ふうん」っていってくれるけれど、理解はしてくれないので、なんというか、ああ、俺、けだるい環境にあるよなぁ、とこうして東京から見渡すと、立地点がわかる。

と、N田の展示を友人・爺といきました。中田のお嫁さまもいっしょにいらっしゃいました。かなり久々にあいましたがお互いに「おう!」といいました。

ああ、これは楽だなあと思いました。

N田の陶器はおもったより真面目でした。
いっしょに展示されてる女性のガラスは食器にちいさな足がついてて綺麗でファニーでした。
中田は猫に襲われて、腕に傷のある男になってました。素敵です。
奥さんがN田のことを「N田さん」と呼ぶのがいつもながら素敵です。
パンダに対して奥様は「背がのびましたね」とか「静かになりましたね」と奥様にお言葉たまわりました。・・・・・・そお?
一時間くらいでおいとまして、爺と共に東京を散策しましたが、買い物をするにはいい町ですね。安いし、たっぷりあるし。

帰路。
殺伐としてた自分の心に、少しばかり潤いを与えられた感じがしました。
私は自分に対して、雑に扱うことがあります。すぐに痛むので、もっと栄養を与えなくてはいけないぞ!と東京行きの前は思っていたのですが、友人N田、爺と話してて肩の力が抜けました。

このごろどういうことがあって、どうなって、どうしちまった、とかろくろく解説もしないまま「おう!」ではじまって「じゃ、また」と帰られる友人がいるのはいいもんだと思いました。
 

近況なんて話してもあんまり意味のないところなもんで。
かといって、「昔はよかった」的リフレインも得意でなく、じゃあ何を話してるのさ?っていうとだらだらしてるだけなのであります。

ものを作る人間にあわなくては、というのが飢餓状態に近付いていたので、是が非でも今回は東京に出なくてはいけなかったのです。
 

N田をみて、ものつくりの結果になっているものをみて、ああ、俺が好きかどうかなんて次元でなく、「作ってる」ものがそこにある、その人を見る、というのが、実は重要なことである、と。

もっとひんぱんに友人にあわなくちゃまずいな、と思いました。
懐かしさからでなく、今の自分のフォルムを知ってる人たちを見て、相手にフォルムを与えてくる人と接して、自分の奥底にたたずみはじめてしまいそうな「なにか」をたたき起こすだけの愚行はしなくちゃいけない。

ものを作ってる人間にあえるのはいいものです。そいつはものを作ってます。

それだけで、その人には会うに値する感じがします。
たとえ錯覚でも、錯覚を味わいにいけばいいじゃないですか。

東京でおいしい蕎麦を食べました。ギャルでもバイトでもなさそうなおばあさんが仕出ししてくれました。

私にしては珍しくも「おいしいですね」と言ってしまいました。うれしそうににっこりしてくれました。

翌日、壊れてた自転車をなおしてもらいました。いい自転車屋さんと出会えました。大汗かきながら、バカみたいに自転車で走りました。

感情に放り込むことをよし、とする、ほうびのようなものを、私はもっと、自分にあたえようと思いました。

P.S「カフェオレボウル作ってくれ」とお願いしたら「お前、まだそんなんゆうてんのか」としかられた。うれしいよーな・かなしーよーな。N田にしかられた。ふっ。