昨今感じるのは、「耐え得て過ごせてる人」の側が時折見せる、やっかみのような、もどかしさのような、言いようのない「自分だって我慢してる」なるものは、はたしてまっとうなのか?ってことです。
辛抱我慢が、何かを達するのは本当だし、こらえができる人がそろってくれててこそ、何かを成し遂げもするのでしょう。
そこは、わかる。
けれど、こらえる、とした人は、こらえられる、からそうしてるのであって、世の中には「こらえられぬ」人も大勢いる。大勢いて、本当にこらえられない。
こらえられない、は本当にこらえられないのだ。
この、こらえられなさってやつは、それを発する人をして「お前にはなんで目が三つないのだ?」「お前の指はなんで7本ないんだ?」と問われるくらい妙な頓珍漢さがある。できないもんはできないんだってば。
なんでそこは「できない方が悪い」のテイストに移行しちゃうんだろうね?
無理だって言ってるじゃん。
あんたができたって、こっちができないって根を上げたら、もう無理強いする方が悪いわ。
あんたがどんだけ「無理して我慢して今それをやりぬいてるか」はあなたの事情であって、あなたの耐えられることをこなしてるのである。
いいも悪いもない。
あなたにはそこに耐性があっただけのことだ。
そういう相性があったってだけだ。
尊卑の話でもない。
相手は「それができない」としたら、無理強いは事故になるとか、心を壊すとか、本当にダメージを与える側の加害になってしまう。
早急に手を引いて欲しい。
その代わり、あなたがどうあがいても間に合わないことを、その「できなかった人」はできるかもしれない。そこでそれをこなしてもらうことで、バーターとしませんか?
人間の出来が、相性が、違うんですよ。
満遍なくできるって人は強い人じゃなくて器用なだけかもしれないじゃないですか?
それをなぜ勇むんですか?えらいんですか?
できないことはできない、耐え難い、も答えなのに。
人はそのままじゃ飛べない。
鳥は飛べる。
じゃあ人は鳥より劣るのか?
いんや。
飛べないからこそ、飛行技術を生み出した。
鳥より高く、鳥より早く、飛ぶ方法を編み出せた。
できなさ、を認めれて、次に駒を運べた。
弱さみたいに位置した機能を、弱さのままに請け負えたから、その解消をはかりだしたら、既存の「できる生き物」より高いとこまで飛ぶようになった。
できなさ、弱さ、間に合わなさ、が「新しい」を拵える原動力にも動機にもなる。
その芽を摘むのがいちばんの阿呆な行為で、できない、こらえられない人を「自分もできないなりに頑張ってるのに」を根っこにした見え方でものを言うのは、「できない・こなせない人」以上に弱さだとおもうんだけどどうよ?
こなせない、できないを肯定しとかない?で、そこは助けとかない?
んでさ、上に挙げた飛行機とかじゃないけれどさ、「その解消の仕方」に目を向けることの恩恵」の方が有益だって思うことにしとかない?
こんな言い回し、得心してない人がいるのは承知してます。しようがしまいがどうでもいいです。しといほうが、健康でいられるって話です。
「自分だって我慢してこうでいるのに」っていう姿が、周囲で見てたって、苦になるんです。あー、じれてんだなあって。
それは「こなせない」「できない」人以上に、なんか、悶々としてて、こなせてるのに、できてるのに、可哀想だなあってなるんです。
いっそできない、こなせない、を貫けた方がよかったかもね、は嫌味ではなく、ある意味本音です。
心にそうした「やってあげてるのに」起因で起きてるわだかまりが、「やってあげてる」で毒づくその人をひどく狼狽(ろうばい)してしまうのです。
そんなふうにしてまで、こなすことをよしとする世相の方がどうかしてる、っていう視線もいいんじゃないですか?
毒、出してるよりましだよ?って、このテーマなら話せそうだったので、コラムにしてみました。
そんなにうれしくなれない「こなし方」「でき方」ならよすことは、できるんだから。選んじゃってるんだから。
選んだからには、自分の理由だけでやり遂げなよ?
よそみて物言うのはよしな。毒しか生まれないよ、それ。
こう言い換えようか?
「人のために自分がしてやってる」って態度、丸見えだし、あんまり良くないと思う。
そんな理由なら、しないでくださいって思ってるかもよ?
それも腹立たしいでしょう?
ならさ、って話よ。
その理由でなされたら、されてる方も重いさ。
潔くあれないのは、冒頭に囲った自分の感情がにごってたってことさね。
ゆめゆめ「やってあげてる」とか思うなかれ。
それは毒しか生んでない。
ならいっそ「しない」ですっとぼけ通したほうが、毒のない分、いくらか軽くいられると思うよ。