あはは。
こう毎晩🐼の世迷言ってのもみなさん読んで下すって、ありがとうございます。
今、父方の叔母さんが母へのお見舞いだといって、いろいろ顔を出してくれました。
朝方も、相棒と話してるときに、母方の叔母さんが、母はスマホで話せる部屋かね?と病院での連絡環境をたずねてくるのでした。
昨晩も書きましたが、こういった状況下で、いつだれが来ても応じれるようにあるのは、今の幸いです。話し出せばおばさんたちはご自身のことも話すし、親族にまつわるあれこれも、おっつけ話してくれます。
🐼の住まう地域は「会いに行ける理由がなくっちゃ」人が出入りできぬような田舎でもないので、不意に訪れてきますし、こっちもアポイントなしに誰彼なしに助力を請いにも行きます。
やんわり言えば「たがいに助け・助けられ」の互助が不文律みたいにあって、ごく当たり前の顔で互いに手を出し合います。
これを「いつでも受ける」のが今の🐼のポジションでして、電話でも顔出しでも、仮に母しか面識のない方の応答もやっぱりするのです。
若い家族なら、こういったやりとりは難儀でしょうし、煩(わずら)わしいかもしれません。でもね、🐼くらいの年齢になってくると、却ってこうしたやり取りの、「表にはしきらない」話も交えたやりようは、すごくありがたく感じるのでした。
そしてその節には、「常々フリーである」という、人としての「フリーハンド」状態が多めであった方がいいのです。
何が起こるではないにしても、何も起きなくたって「人とのやり取りはある」を念頭にした、常時「応じます」な家単位の窓口がありさえすれば、事態は幾分かスムーズさをもって遷移してくれますね。
「決めてかかっておかなさ」って、現代では最もしつらえにしておかないでしょう?
何にもしてない風にしか見えない存在を、あまり心良しとしてもくれない気配も感じますけどね、人が生きて過ごしてるんでね、どうしたって「ポジションも役割も決めてない・フリーハンドな遊撃手」みたいなのが一つこしらえてある方が、何かと利便がいいんですよ。
世間の流行とか、日々の生活優先ってのも肝要なんですけどね、上に挙げてきたみたいな「ふらふらしてる」存在もまた、相応にやりようがあるってものですなあ、と昨今特に感じます。